番外・前世編 「遙か東方のバザールにて」
【3】
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中央の男がその視線に翔凛を捉える。 芳英の言うことが正しければ、あれは、漣基。 だが、芳英が過ちを口にしたことなど、今まで一度もない。 射抜くような瞳にどれほど捉えられていただろうか。 男はいきなり満面を笑みに変えた。 そして馬から飛び降り、言ったのだ。 「翔凛っ!」…と。 その言葉と笑みに、翔凛をきつく抱きしめていた芳英の手が緩む。 そして、そっとその身体を真っ直ぐに、漣基へと向ける。 「翔凛! よく来た! 待っていたぞ!」 堪えきれないとばかりに走り寄り、日に焼けた逞しい身体が翔凛を抱きしめた。 「…れんき…さま?」 「そうだ。お前の母・芙蓉の弟、漣基だ。会いたかったぞ、翔凛」 ふと芳英が気付くと、馬上の人物は皆馬を下り、膝を折って控えている。 やはりこの国の王は、漣基、なのだ。 「ああ、やはり赤子の頃と変わらない。鈴瑠に生き写しだ……」 もう一度間近で翔凛を見つめ、そしてまた抱きしめる。 鈴瑠…やはり、鈴瑠が助けてくれた…。 鈴瑠に似ているからこそ、漣基は自分を見分けてくれた。 だが…。 「漣基様…どうして僕がここにいると…」 いや、それもあるが、そうではない。 漣基は『待っていた』と言ったのだ。 「どうして、僕がここに来ると…」 何故漣基は、翔凛が来ると思っていたのか。 聞きたいことが次々と浮かび、思うように言葉が継げない。 「慌てるな、翔凛。私とて、聞きたいことも話したいことも山ほどある。だが長旅であったのだろう? まずはゆっくりと王宮で休め」 そう言うなり翔凛を抱き上げた。 そして、芳英に目を向ける。 「そなた…確かあの折り、翔凛の警護をしていた…」 「はっ、芳英と申します」 芳英は深く膝を折り、臣下の礼を取る。 彼にとって、漣基はこの国の王である前に、出自の国の皇子なのだ。 「そうか、ずっと翔凛を守ってくれたのだな。よくやってくれた、礼を言うぞ。そなたも共に参れ」 「仰せのままに」 こうして翔凛は王宮へ入ったのだった。 |
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王宮では、バザールの娘が語って聞かせてくれた『第三の王子』が王太子として政務に当たっていた。 歳は翔凛より三つ上。 わずか十七歳ながら、すでに王の片腕となっている。 翔凛は王宮で旅の疲れを落とし、休息の時を得た。 そしてその夜、漣基は私室に翔凛を招き入れ、膝に乗せて語り始めた。 |
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漣基は創雲郷を発ったあとも、天子の第二皇子として、精力的に各地を回っていた。 そして、ある時、鈴瑠が忠告した星の変化を読みとった。 すなわち、吉兆の星の衰えと、災いの星の台頭である。 『進路を東へ取って下さい』 理由を聞くことはかなわなかったが、漣基は鈴瑠を信じ、ひたすらに東を目指した。 そして、行き当たったのが、内乱の勃発直後のこの国であったのだ。 怪我を負って動けなくなっていた婦人と子どもを保護したときには、まさかその子がこの国の王子だとは知らなかった。 だが、涙ながらに事情を語る乳母と、両親と兄を殺され、自らも深手を負いながらなお、『このままでは国が滅ぶ』と唇を噛み悔しがる幼い王子に、漣基はわずかな手勢ながら手を貸したのだ。 だが、僅かとは言え漣基とその供は、旅慣れ、身の危険も幾度となく乗り越えてきた一騎当千の強者ばかり。 漣基の指揮の下、彼らは密かに王宮へ入り、事を起こした。 幸いなこともあった。 宰相は、軍のすべてを掌握しきれないままに謀反を起こしたのだ。 さらに、王子の悠風が生きている事を知った臣下たちが、一斉に立ち上がったことも助けになり、程なく内乱は鎮圧され、宰相は討たれた。 そして、悠風は自らがまだ幼いことを理由に、漣基に王位につくことを願い出たのだ。 だが、漣基は何度もそれを固持した。 悠風に何度泣かれようが、何度も。 もとよりそんなつもりはなかったのだから。 しかし、そんな漣基の心を変えてしまう事が起こる。 西からの旅人たちが噂を運んできたのだ。 『西方で、王国がひとつ、滅亡した様だ…』と。 それが自分の父の国であるのかどうか、その当時の漣基に確かめる術はなかった。 だが、鈴瑠が指した星の変化。 それはこのことではなかったのかと思わずにはいられない。 やがて、大小様々な情報がキャラバンによってもたらされ始めた。 『信仰の郷が跡形もなく消えている』 それは、何事にも恐れを抱かないと自負している漣基をもってさえ、全身の震えを止めることのできない言葉だった。 創雲郷に何が起こったのか。 鈴瑠は、竜翔は、翔凛はどうしたのか。 逃れることが出来たのか、それとも……。 何年も前に自分に『東方へ』と告げた鈴瑠。 その鈴瑠がついていれば、何らかの厄災ならば逃れられたに違いないと信じたかった。 そして、数ヶ月後、再びもたらされた大きな情報は、翔凛の消息だった。 『創雲郷の若宮が、災禍を逃れた民を連れて移動している』 ならばきっと、翔凛もまた東を目指しているはず。 鈴瑠が目指せと言った、東方の世界。 それはきっと、そこに新天地があるという、星の導き。 漣基の心は決まった。 自分は動かずに、ここで待とう…と。 「だから私は悠風の申し出を受けた。悠風が王として立つ日まで、この地で悠風を見守ることにしたのだ。そして、ここで翔凛を待とうと決めたのだ」 漣基の顔を見つめたまま、話に聞き入っていた翔凛が、安心したのか、少し緊張を解く。 「だが、性分なのだろうな。やはり座って待つことは出来なくて、国内をしょっちゅう飛び回った。飛び回って翔凛が来てはいないかといつも目を凝らしていた。 そして国中の警護の者たちに通達していたのだ。守り刀に翡翠の珠をつけた少年を見かけたら、すぐに届けるように…とな」 言葉の最後には悪戯っぽい笑みもつける。 「…あ…だから…」 「そう、だから私はお前を迎えに行ってやれた。お前たちがバザールに入ってすぐ、翡翠の珠を見かけた武官が王宮へ駆け込んできたからな」 そう言って、嬉しそうに翔凛を抱きしめる。 「私の話はこれだけだ。翔凛、次はお前の話を聞かせてくれ。創雲郷に何があった? 鈴瑠と竜翔はどうしたのだ?」 だが、翔凛はその表情を一気に固くした。 それだけで、漣基の心も凍る。 「創雲郷は…」 ポツッと翔凛が漏らした。 「消えて無くなったと聞きました…」 「…翔凛…」 |
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創雲郷を出てしばらくの後、翔凛は夜空の異変に気付いた。 災いの星が消えていたのだ。 それは、災いの終焉を告げるもの。 普通なら吉事であると喜ばねばならないところだ。 だが翔凛の胸は重く塞がる。 その災いに、恐らく鈴瑠と父は巻き込まれている。 鈴瑠が天の使いと知ったときから、翔凛は感じていたのだ。 鈴瑠が逃れて生きながらえることはないのだと。 父には、鈴瑠を連れて逃げてくれと頼んだ。 だがそれは、裏を返せば『鈴瑠が残れば父も残る』ということ。 だから、翔凛にとって、災いの終焉はつまり、二人が現世を去った…ということにほかならない。 そしてまたしばらくの後、創雲郷の様子は、最後に大門から脱出した僧によって詳しくもたらされることになった。 豪雨による霊峰の崩壊と、すべて押し流されて土に還った、信仰の郷…。 「鈴瑠は…天空様の御使いだったのです…」 漣基が目を瞠る。ゆらゆらと、光る滴を湛えながら。 「鈴瑠と父は、すべてを覚悟の上で、創雲郷とその麓の郷から逃れる民を、僕に託しました」 「翔凛…っ」 きつく抱きすくめられた首筋に暖かいものが落ちる。 「…よくやった。…よくがんばったな、翔凛」 漣基は、静かに泣いていた。 だが、翔凛はまだ泣くわけにはいかない。 まだ果たすべき父との約束が残っている。 「漣基様…」 穏やかに語りかけられて、漣基は溢れるものを拭おうともせず、翔凛を見つめる。 「父は、漣基様に会うことが叶ったら、こう伝えてくれと言いました」 今となっては、父の遺言。 「私たちは、幸せだった…と」 その言葉に、漣基は何度も何度も…頷き、そしていつまでも翔凛を抱きしめていた。 |