【10】
最終回+珊瑚




 漣基の退位、悠風の即位、そして翔凛の立太子という三つの国事行為がつつがなく行われてから半月ほど。

 新王の誕生に、国中が三日三晩祝福の宴に明け暮れて、それから漸く普段の落ち着きを取り戻しつつある中で、漣基は残されていた種々の雑事を漸く片づけて、旅立ちの支度を始めていた。

 朱那に、気取られないように。





「朱那を、頼む」

 夕刻、悠風の私室に現れた漣基は、悠風と翔凛にそう告げた。

 そして、明日の明け方、静かに発つという。


「連れて、行かないの?」 

 翔凛の問いに、漣基は緩く頭を振った。

「お前には経験があるからわかると思うが、砂漠を越える旅は過酷なものだから…」

「朱那にそんな辛い思いはさせたくないって?」

 漣基の先を取って悠風が言う。

「でも、朱那はそんなに弱くはないと思うんだけど」


 そう、采雲も言っていた。

 旅の一座の中での過酷な労働――特に『金糸雀』ではなくなってしまってから、朱那はろくに食事も与えられずに働かされていて、だから漣基が保護したときには最悪の状態だったわけなのだが、朱那自体が特別虚弱な体質なわけではなさそうだ…とのことだった。

 それもこれもやはり、朱那の『見た目』が『虚弱』と連想させることであって、実際はそうではないのだろう…と。

 しかし、その言葉にも漣基は頭を振った。


「確かに、肉体的に辛いということもある。だがそれ以上に、朱那にもう旅の生活をさせたくないんだ…」


 物心ついた時から旅から旅への暮らし。
 一つ所には半月もいれば長い方だと言っていた。

 そんな朱那に、落ち着いた生活をさせてやりたい。
 この王宮で、皆に囲まれて、静かで優しい日々を…。



 そう語る漣基に翔凛と悠風は顔を見合わせた。

 そして、漣基がそう決めたのなら仕方ないか…という表情をしてみせる。

 翔凛が漣基に向き直った。


「また、戻ってきてくれるよね?」

「もちろんだ。ここは私の第二の故郷だからな。それに…」

「それに?」

 悠風の問いかけに漣基は微笑み、そして二人の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。

「悠風も翔凛も、私の大切な家族だからな」

 その言葉に悠風は鮮やかに微笑んで、『当たり前でしょうが』と漣基の固い胸をトンッと一つ叩く。

 そんな二人の様子に翔凛もまた微笑んで、『それに…』と言いながら漣基を見上げた。

「朱那も大切な家族…でしょ?」

「ああ…、そうだな」


 だが答える漣基の瞳には僅かな影。

 本当は連れていきたい…いや、離したくない、ずっと一緒にいたい…と、表情が語っている。


 ――またまた、やせ我慢しちゃって。


 翔凛はそう思ったが、今は敢えて口にはしない。


「あれ? 朱那は恋人じゃないの?」

 悠風がわざととぼけたような声を出す。

「何言ってんの、悠風。朱那は漣基のお嫁さんだよ? お嫁さんは家族じゃないか」

「あ、なるほどね。翔凛が私のお嫁さんなのと同じか」

「…な…っ、恥ずかしいこと言うなってば!」

「どーしてさー。今さらじゃないか、そんなこと。翔凛ってばいつまで経っても照れ屋さんなんだからー」

「あー! どっ、どこ触ってんだよ!」


 ぎゃあぎゃあとやり合う二人に漣基は、『お前たち、政をやってるより旅の一座に入った方が似合ってるんじゃないか?』などと肩を竦め呆れている。


「あ、それいいかも」

「悠風一人で行ってね」

「あ〜! 翔凛、酷い!」

 こんな様子も当分見納めかと思うと少し寂しくもあるが。


「で、本当にいいの? 大事なお嫁さんを連れて行かなくて」

 ふと表情を改め、柔らかい物言いで、もう一度翔凛が尋ねた。

 そして、漣基もまた、もう一度『いいんだ』と――まるで自分自身に言い聞かせるかのように――頷いて見せた。



                     



 部屋に戻ると、朱那が灯りの下で一生懸命書き物をしていた。

 半月ほど前から、漣基と梨舜が交代で様々なこと――諸国の歴史、星読み、薬草の種類・効能、交易の仕組み等々、今までの朱那の知識になかったもの――を少しずつ教えているのだが、その復習をしているようだ。

 朱那は優秀な生徒だった。

 このまま王宮にいれば、恐らくは悠風や翔凛の片腕になるのではないかと予想されるくらいに。

 これほどの能力を備えていれば、口が利けないことも――不自由ではあろうが――障害にはならないだろう。少なくともこの王宮内では。

 ここにいれば、朱那の未来は開ける。

 そう感じたことも、朱那を連れていかないと決めた要因の一つだった。



 朱那が顔を上げた。

 扉にもたれて様子を見ていた漣基に向かって駆け出してくる。


 ――可愛い、朱那…。


 愛しているから、連れていきたい。
 愛しているからこそ、連れていきたくない。


「おいで」

 いつものように軽々と朱那を抱き上げ、額や頬、鼻先や唇に小さな口づけを降らせながら、漣基は寝台へと向かった。



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 穏やかな寝息。
 安らぎの中で眠りにつく朱那を、漣基はジッと見つめている。

 その姿を心の中に焼き付けて、長旅の支えにするために。


 次に会えるのは何年先になるだろう。

 今回は、旅の目的が決まっているから、その目的を達した時には真っ直ぐここへ戻ろうと思っている。

 それでも、行く手の読めない旅だから、往復にどれだけかかるのか予想がつかない。

 もしかすると、自分のいない間に朱那は…。


 そう考えかけて、頭を振る。

 黙って朱那を置いていく自分に、そんなことを考える資格はないだろう。

 それに、自分は朱那を、自由にしてあげたくてここへ連れてきたのだ。
 縛り付けては意味がない。


 ――朱那…元気でな。


 その白い額にそっと口づけを落とす。

 心残りは…。


 ――…一度でいいから、お前の声を聞いてみたかったな…。


『金糸雀』の歌声ではなく、『朱那』の楽しそうに笑う声を…。



                     



 東の空が白み始めた。
 漸く辺りの様子がわかろうかと刻限に、王宮の裏手からそっと出ていこうとする三頭の駿馬がいた。

 先頭に騎乗するのは漣基。その後ろには、梨舜ともう一人――漣基が西方にいたころからの側近、楊按(ようあん)――が付き従う。

 二人はどうしても漣基の側に在りたいと申し出て、この旅に随行することになった。

 漣基にしても、頼りになる二人を供にすることができて何より心強い。



 そんな三人の旅立ちを、城壁の影でそっと見ている者がいた。


「…ったく、僕らにも黙って行こうなんて、どういう了見だろうね、あの人は」

「ま、漣基らしいと言えばそれまでだけどね」

「おかげで徹夜だってば」

 そんな二人に挟まれて、小さな影が震えている。


「…ほら、今だよ…」

 耳元で唆すように囁き、トンッと背中を軽く押した時、漣基の馬が今しも駆け出そうと…。


「……れん…き、さま…っ!」


 胸を突くような叫びに似た声に、漣基の愛馬が嘶きをあげ、足を止めた。

 翔凛のそれよりも、まだ少し高くて可愛らしく、そして胸を掴むように切ない声は、少し掠れている。
 
 だが、聞き覚えはない。

 漣基が振り返る。


 走ってくるのは……朱那…!


「漣基様っ! 漣基様っ!!」

 涙を撒き散らしながら走ってくる朱那に、漣基はその目を大きく見開く。

「…朱那…! 声…っ、声が出たのか…っ?!」

 朱那を置いていこうとしたことも一瞬失念して、漣基は愛馬から飛び降りるとその愛らしい姿に走り寄る。

「朱那…!」

「…れ、んき…さま…っ」


 はあはあと荒い息を吐きながらも、朱那は何かを必死になって話そうとして、しかし上手く息が継げなくて苦しげに顔を歪める。

「朱那…大丈夫だ。ゆっくり息をして…そう、そうだ…」

 その背中をさすりながら、朱那の呼吸を宥めていると、朱那はまた泣き濡れた大きな瞳で漣基を見つめた。


「漣基様…。僕を、置いていかないでっ…!」

 言葉の終わりにきつくしがみつく。絶対に離れないとばかりに。

 そして、そんな朱那に漣基はその表情を困惑の色に変える。

「…朱那…」

「漣基様、僕も…僕もお連れ下さいっ、お願いしますっ。絶対足手まといにならないようにがんばりますからっ」

 まだ荒い息の下、少し掠れた声で必死に訴える朱那に、漣基は酷く揺さぶられた。


「…だがな、朱那。この旅は、かなりきついものになるかも知れないんだ。距離もあるし、途中がどんな状態になっているのかもわからない。それに、西の砂漠を越えるのは、相当に辛いことなんだ」

 朱那に辛い思いをさせたくない…ただ、それだけ…。

 だが、朱那は力強い瞳で『大丈夫です』と言い切った。


「僕、三年前に南の砂漠を越えたことがあります」

 その言葉に、漣基だけでなく梨舜たちも驚く。
 南の砂漠には西のそれよりもさらに過酷な『砂の地獄』と言われている地帯があるのだ。オアシス間の距離も西の砂漠より長い。


「そこで砂嵐に襲われて、三日間動けませんでした。水が底をつく前に嵐が止んだのでなんとか脱出できましたけれど、でもその時も、僕、怖くなかった」

 言い切る瞳には強さが宿る。

 こんなに小さくて幼げだというのに、朱那はなんと強いのだろう…と、漣基は表情を緩めて暖かく微笑む。


「…そうだったな。お前はずっとそうやって苦労をしてきたんだ…。私よりずっと強いかも知れないな」

 言われて朱那は照れたように口を歪める。だが、すぐにまた真剣な表情を取り戻す。

「漣基様、僕、少しでもお役にたてるようにがんばります。だから、お願いします。僕を…僕…」

 大きな瞳に涙が溢れた。

 泣いてはいけない。泣いたらきっと、こんな弱い子は連れていけないと言われる。

 そう思って必死に耐えるが、置いて行かれてしまった時のことを考えると涙は止まらない。

 もし置いて行かれてしまったら、自分はきっと、次に漣基に会える時までずっと泣いているに違いない。



「ここへ戻ってこれるのは、きっと何年も先になるぞ?」

 ポツッと漣基が言った。朱那が目を瞠る。

「はい!」

「辛いことも多いぞ?」

 だがその言葉には、朱那は同意しなかった。

「漣基様と一緒なら、辛いことなんて何一つありません」


 言い切る朱那に、漣基もまた力強く頷いた。

 好きな人と一緒の旅ならば、辛いことなど何一つない。
 愛する人のいる場所こそが、自分にとって最高に幸せな場所なのだから。

 それは漣基とて同じ気持ち。

 朱那がいれば、たとえ旅の終着地に辛い光景が待ちかまえていても、きっと耐えられる。


 そうだ、都に眠る両親に、朱那を見せよう。
 これが、私の愛する人です。そう言って紹介しよう。
 そして、両親の前で、愛する朱那と『生涯を共にあろう』と誓おう。
 創雲郷では竜翔にも見せびらかしてやらなくてはなるまい。
 自分が、こんなにも素晴らしい伴侶を得たことを。


 そう決めて、漣基は朱那を抱き上げた。

 振り返ると、梨舜と楊按が嬉しそうに見守っている。


 当てられっぱなしになりそうだけれど、この二人――主と朱那――はきっと自分たちも幸せな気分にしてくれるに違いない。
 この旅は、楽しくなりそうだ。

 梨舜たちはそう確信する。



 漣基が朱那を自分の愛馬に乗せる。
 愛馬も朱那の騎乗を喜んでいる様子だ。

 馬上でしっかりと朱那を抱きしめ、漣基はそっと囁いた。

「想像した通りだった」

「…なんの、想像ですか?」

 朱那が首を傾げる。

「お前の声…だよ。きっと可愛いに違いないと思っていたんだ」

「…僕、こんなに汚い声…なの、に」

 途端に萎れた様子を見せる朱那に、漣基が眉根を寄せる。

「…おい、いったいお前の声のどこか汚いんだ」

 世辞でもなんでもない、本心からそう言ってくれている様子の漣基に、朱那はずっと填っていた心の枷を少し解く。

「…ほん、とに?」

「ああ。私には本物の金糸雀よりずっと愛おしい声だ…」


 これで汚い声だというのなら、金糸雀と呼ばれていた時にはいったいどんな声をしていたのだろう。聞いてみたいような気もするが、いずれにしても、もうどうでもいいことだ。

 今は、朱那が『漣基様』と呼ぶ声が聞けるのだから。 





 三騎の馬が四人を乗せて王宮を旅立つ。日の沈む方角へと向かって。

 それを見送る影があることを、朱那以外は知らない。 


 朱那は、馬が走り出す前に一瞬こちらを見遣ったが、恐らくは城壁の影になっていて見えなかったであろう。



 見送る影――悠風と翔凛は一仕事終えたような達成感に満ちた顔で遠ざかる馬を見ている。


 漣基が寝所を抜け出した後、朱那を起こすべく行動を開始した二人は、その朱那に廊下でばったりと出くわした。

 見れば裸足で、随分と慌てている。
 夜明け前だというのに、漣基の姿が見えなくなって不安に思ったのだろう。

 いや、もしかしたら本能的に何かを察したのかも知れない。
 漣基がいなくなる…ということを。


 そんな朱那に、悠風と翔凛はかいつまんで事情を話し、驚き涙を溢れさせる朱那に、『追い掛けよう』と唆した。

 そして、『ほら、大きな声で引き留めないと漣基には聞こえないよ』…と、その背中を押したのだ。


 失われた朱那の声。
 だがそれを、『本当に失われたのではない』と見破ったのは采雲だった。

 喉の機能に問題は見られない。

 そこで朱那の話を詳しく聞いてみれば、『変声し始めたことで歌えなくなると思いこんだ自分自身の哀しみ』、そして『周囲から与えられる重圧』や『金糸雀でないお前には価値がない』と言われ続けたことなどにより受けた、心理的な衝撃が要因になっているのであろうと察せられたのだ。


 心の枷を外せば、必ず朱那に声は戻る。

 そう報告を受けた二人は、この重大局面で賭けに出た。
 心の底から漣基を止めたいと思えば、必ず声は出る…と。



「やっぱり愛し合ってる二人は一緒にいないとね」

「私たちのように?」

「……まあね」


 少々間があったものの、翔凛がやけに素直に同意して、悠風の身体に身を預けてきた。

 夜明けの空がとても美しいことと、漣基と朱那の幸せな旅立ちを見送れたことで、きっと体中に幸せが満ちているのだ。

 悠風もそれを感じ取って、茶化すことなくその身体を抱きしめる。


「さて、寝直すとしようか」

「え〜。あと一時間もしないうちに起こされちゃうよ?」

「何言ってるの。一時間でも寝ておかないと、執務中に居眠りしちゃったら大変だろう?」

「いいじゃん、誰も見てなかったら、ちょっとくらい」

「ダメダメ。新米の王さまはこれでも気を張って真面目にやってるんだからね」


 さ、寝るよ…と翔凛の肩をしっかりと抱きしめて、悠風は奥の宮殿へと道を辿る。

 翔凛は、仕方ないな…と小さく呟いて、悠風の腰にそっと手を回した。



                     



 三ヶ月後。
 巡回警備兵たちが漣基の手紙を携えて都へ戻って来た。
 西の砂漠の手前で漣基たちに出会ったのだという。

 その手紙を見て、翔凛が大喜びをした。


『朱那がまた歌うようになった。それはそれは美しい声だぞ。帰ったら聞かせてやるから楽しみにな』


 そしてそれが実現するのはこの時から二年の後。

 翔凛の戴冠式に、漣基と朱那が駆けつける時のことになる。


ペロさまから、朱那ちゃんのイラストをいただきました!

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