【2】




 雲一つない明け方。漣基は馬を駆り遠乗りにでかけた。

 王位の譲位が正式に決まってからと言うもの、漣基はますます活発に外出するようになり、時には周囲の苦言にも耳を貸さず、供も連れずに出歩くことがあって周囲をやきもきさせている。

 だが、今日は王宮を出ようとしたところで側近に見つかり、仕方なく――だがそれでも一人だけ――供を連れている。

 しかしそれも、気の置けない側近――梨舜(りしゅん)という、漣基より十ほど年下の武官――ではあるから、別に気詰まりも感じない。



 愛馬の調子もよく、気温もほどよい。

 今日一日の快晴を約束するかのような空の様子と同じように、漣基の気も晴れ晴れと冴え渡っていた。


 そして、『そろそろお戻りになりませんと…』と、梨舜が告げるまで自由気ままに馬を駆り、あまり我が儘ばかりも言っていられないか、と漣基は愛馬の手綱を繰って、その行き先を王宮へと向けた。



 どれほど走ったか、やがて小高い丘の上にたつ王宮が視界に入る。

 足元に広がるバザールの中央を抜ければ王宮の正面への近道になるのだが、そもそも漣基はその『王宮の正面』というものが苦手で――大人数で大仰に出迎えられるのは嫌いなのだ――いつも少し外れた小さな出入り口を使う。

 大臣たちからは『ちゃんと正面から出入りしていただきませんと…』と何度も懇願されるのだが、王太子や宰相がすでに諦めているのか何にも言わないので、大臣たちには言わせたいようにしている。

 そして、今日も『またこちらからのお戻りですか…』と言わんばかりの梨舜を後ろに従え、バザールの端を掠めて王宮を目指したのだが…。



「うわっ」


 木立の影から突然転がり出た小さな影に、漣基は咄嗟に手綱を引いて愛馬を止める。

 大きないななきを挙げ、「何事か」とでも言いたげに鼻息を荒くする愛馬の鼻先を撫でながら、漣基は足元を見た。

 斜め後ろを走っていた梨舜はすでに馬を下り、漣基の足元へ走っている。


「漣基様っ」

 少し後ろをついていたのが幸いして、彼は馬を驚かせずにすんだようだ。


「ああ、すまん、大丈夫だ」

 そして、見下ろした先には。

「おいっ、大丈夫かっ?」

 動物か何かだと思っていた小さな影は、子供だった。


 漣基もまた慌てて馬を下り、子供を抱き起こそうとしている梨舜の手を止めて、自らがその頼りなげに垂れた頭を抱え上げる。

 愛馬との接触は無かったはずだ。だから大きな怪我などはしていないはずなのだが…。


「おいっ、しっかりしろっ」

 だが状態によっては揺すってはいけないかもしれないと、漣基は声だけで子供の意識を確かめる。

 衣の形からすると少年のようだ。
 十歳前後と言ったところか。しかしそれにしても随分と細くて小さい。
 それに顔も身体もかなり汚れている。


「漣基様、衣が汚れます。私が…」

 子供の様子を見て取り、梨舜がそう告げたが漣基は「構わない」といって取り合わない。

 やがて子供が目をうっすらと開いた。
 そして、無意識なのか、その腕の温もりに縋るような仕草を見せる。


「…大丈夫か?」

 その様子に漣基も、小さくした声をそっとかけた。
 その瞬間。

「…!」

 弾かれたように子供の身体は漣基の腕から跳ねた。だが、すぐによろめいてうずくまる。


「おい、無茶をするな」

 慌てて取った細い腕にはいくつかの青あざがあった。
 あきらかに、新しくないその傷。

「…これは」

 梨舜が思わず声を掛ける。

「…ああ…」

 漣基もその様を正しく見て取ったのだろう。表情を曇らせる。


 新しい傷は、今転がってしまったことで出来たであろう、血が滲む膝頭の擦り傷だけのようだ。

 それにしても、手綱の使い手が漣基であり、また馬が優秀であったればこそどうにか引っかけずにすんだようなものだ。

 普通の乗り手と馬であれば、このような飛び出され方をしていれば確実に轢いていたであろう。


 見れば、少し先に大きな桶が転がっている。
 辺りに溜まる水をみれば、この子が水汲みの途中に転んだのであろう事は容易に想像がついた。
 だが、この子の身体で運ぶには、この桶はいささか大きすぎる。

 身体に残る幾重もの傷と、その身体に不釣り合いな大きな桶。

 この子が置かれているであろう状況が、背後に透けて見えはしないか。



「ともかく手当を」

「ああ、そうだな」


 腕の中で怯えたように――それでも疲弊しきっているのか抗う事もままならず身を固くする子供の膝に、梨舜が腰に下げた水筒から水を滴らせる。

 傷に沁みたのか、小さな手がギュッと漣基の袖を掴む。


「大丈夫だ。すぐすむからな。じっとしていろ」

 落ち着かせようと、抱きしめる力を少し強くして、その頭をそっと撫でてやると、体の固さは取れないまでも瞳の怯えはほんの少し和らぐ。

 梨舜は手際よく傷口の汚れを流したが、擦過傷からの血の滲みは止まる気配がない。
 縛った方がよさそうなのだが、生憎とそれに適した布きれの持ち合わせがなく、梨舜がほんの少し思案したその時。

 びり…と、布を裂く音がした。


「な…なにをなさいますっ」

 見れば漣基が自らの衣の袖を裂いているではないか。

「これで縛ってやってくれ」

 もとより漣基は絹よりも綿を好み、動きにくいのは嫌いだと言って王らしからぬ質素な出で立ちで日々を過ごしている。

 だからといって、これはとても王たるもののとる行為とは思えない。
 それこそ梨舜に『衣を裂け』と命じれば済むことだ。


「ほら、早くしろ」

「は、はいっ」

 呆然としているところを促され、梨舜は慌ててその布を押し戴いて子供の膝を縛ってやる。

 そして、その間にも漣基は『他に痛いところはないか?』『驚かせてすまなかったな』と、優しい言葉を子供に掛けている。


 そんな漣基に、梨舜は綻んでしまいそうな顔を必死で引き締める。

 そう、彼はこんな主君を心から尊敬し、生涯お側に仕えたいと願っているのだ。
 それこそ、彼が王位を退いた後も。ずっと。



「梨舜、水を。少しでいい」

 漣基が掌を差し出した。どうやらその掌に水を注げということらしい。

「はいっ」

 言われたとおりに少量の水を注いでみると、漣基はその掌を子供の頬にそっとあてがった。

「可哀相にな。随分汚れている」

 転んでついた泥もあるだろうが、それ以前にこの子は随分と薄汚れている。


 漣基がその湿った掌で顔を拭ってやり、額に掛かった髪を梳き上げてやると、まだ若干の怯えを残した大きな瞳が現れた。

 真っ黒に濡れて輝き、おずおずと見上げてくる様子が可愛らしい。

 そして泥の拭われた頬は透けるように白く、子供の顔立ちが随分と美しいものだと知れた。
 だが、その顔色は悪く、子供らしい健康さはどこにも見えない。

 身体の細さから見ても、まともな食事を得ていないのでは…と想像できて、漣基はその表情を曇らせた。


「梨舜」

「はっ」

「この子を送って行ってやってくれないか。それから…」

 言葉を切ってその瞳をジッと見つめると、梨舜は『心得た』という顔で深く頷く。

 こういうところが梨舜を始め、漣基の側近たちの優秀なところで、みなまで言わずとも察してくれるから頼もしいことこの上ない。

 漣基としても、この頼み事は、腕の中にいる小さな怯えた子に聞かせるわけにいかなかったから。
 


「立てるか? ああ、心配するな。ちゃんと水も汲んで届けてやるからな」

 そう聞くと、子供はホッとしたように表情を緩めた。
 きっと水を汲んで帰らなければ叱られるのだろう。


 立ち上がった子供は漣基と梨舜に向かってぺこりと頭を下げた。そして、自分の膝の手当の跡を差し、何事かを一生懸命に伝えようとしてくる。

 身振り、手振り…そう言ったものだけで。

 その様子に、漣基はまたその表情を暗くする。


「…お前、もしかして話せないのか…?」

 その問いにも、その細い喉から音が漏れてくることはなかった。
 ただ、子供は小さく頷くだけで。


「…そうか…」

 漣基は子供の前に膝をつき、その小さな頭をゆっくりと撫でる。

 その仕草に、怯えた目を捨てて、笑みの形に細められる瞳が可愛らしい。

 汚れた髪の毛の手触りは大層よくないが、それでも何故だか手が離せない。


 だが、今日はここまでだ。様子もわからぬまま深入りはできない。

 しかし、この時漣基の中には、すでに小さな何かが灯っていた。
 少なくとも、手当をして帰してやって、『それで終わり』だとは思っていない。



「梨舜、頼んだぞ」

「心得ましてございます」


 恐らく主君の心の内の、かなり深いところまで読めているのだろう、梨舜は神妙な顔で頷いた。

 だがこの時の梨舜はまだ、これを、小さな子供や生き物たちに優しい主君のごく通常の感情の範囲内だと思っていた。

 いや、漣基自身も、己の深淵を認知していたとは言えないだろう。

 ただ、このままにしておけない…そう強く願っただけで。



 愛らしく微笑んだ子供を梨舜に託し、漣基は愛馬に乗って、その場を離れた。

 去って行こうとする漣基を見送る顔が、寂しそうに歪んだのがいつまでも心に残った。