【3】




「いったいどこまで水を汲みに行ってたんだっ」

 怒声と共に頬が張られる音が響き、続いて鈍い音と共に身体が投げ出される。

 優しくてかっこいい男の人に助けられ、せっかく水で綺麗に拭いてもらった顔はまた泥で汚れてしまった。


 少年は身を縮め、天幕を支える大きな柱に身を隠す。

 こうして、とりあえず抵抗しないように身を縮めていれば、これ以上酷い暴力になることはあまりない。

 ただ、座長の機嫌が悪いときには、何も失敗していなくても、いつまでも蹴られたり殴られたりするのだが。


「いいか、朱那(しゅな)。役立たずになったお前がのたれ死にせずに済んでいるのは誰のおかげだ? 下僕ならもっとまともに働けるヤツがいくらでもいるんだ。ここにおいてやっているだけでもありがたいと思えっ」


 言葉の終わりにまた、鈍い音がする。

 だが、蹴られた少年――朱那は、声も立てられずにただ自分の身を少しでも守ろうと、小さな身体をさらに小さくして、まるで亀のように蹲っている。

 だが、亀ならばその身を守る固い甲羅がある。しかし朱那には降ってくる暴力にただ耐えるだけの震える細い身体があるだけだ。


「ふんっ。まあいいさ、そのうちちゃんとその身に見合った仕事をさせてやるからな。少なくとも水くみや下働きよりは楽しいはずだ。期待して待ってろ」

 でっぷりとした腹の醜い男は、吐き捨てるようにそう言うと、天幕から出ていった。



 ここはバザールの中でももっとも賑やかな辺り。

 日が暮れても松明の明かりの下でかけ声や笑い声が響いている。

 食事の出来る店の他に、奇術や芸を見せる天幕がいくつも並んでいて、遅くまで人通りが絶えない。

 そんな賑やかな通りの裏手。 
 そこにひっそりと張られているのは、何日か前からここに一際大きな天幕を張って興行を始めた旅の一座の生活空間である天幕の一つだ。


 その中で小さな朱那は、蹴られた身体をさすりながらよろりと身を起こす。

 慣れない力仕事で疲弊しきった身体はもう思うように動いてくれず、ここのところ何を言いつけられても失敗ばかりで、その罰として昨日の朝から何も食べさせてもらっていない。

 だから余計に力は出なくて、空の桶すら十分に重かったのに、それを満たして運ぶなんていうことは最初から無理なことだったのだ。

 案の定、足がもつれて転んでしまい、重い桶に引っ張られて木立の間から飛び出してしまった身体は、危うく通りかかった馬に轢かれそうになった。


 その瞬間は本当に怖かったけれど…。


 馬から下りて抱き起こしてくれた人たちは、信じられないほど優しくて、神々しかった。

 特に、自分の頬を拭いてくれた人の腕は暖かくて、ずっとこのままでいられたらいいのにと、あの短い時の間にも何度思ったことか。


 けれど、それは叶わないこと。

 もう一人の人に自分を渡し、一度だけ振り返って去っていったあの人の後ろ姿を思うと、もうとっくに枯れてしまったと思っていた涙がまた戻ってきた。

 きっともう、二度と会えない。

 どこのどんな人か知らないけれど、賢そうな馬に乗って、バザールを行き交う民とは全然違う輝きを持っていたあの人は、多分身分の高い人だろう。
 服装は簡素なものだったけれど、きっとそうだ。

 そんな人と自分に、接点はない。


 ――二度と会えないのなら、あの時馬に轢かれて、あの人の腕の中で死んでしまえれば良かった…。


 ふとそんなことを考える。

 けれど、それではきっとあの人に迷惑がかかるだろう。

 ろくに怪我もしていないのに――擦り傷は負ったけど、それは自分が転んだから出来た傷であって、あの人の所為じゃない――あんなに親切にしてくれた人に、そんな迷惑は掛けられない。


 この声さえ出れば。

 朱那は目を伏せて自分の喉をそっと押さえる。

 そうすれば、あの人の名前を尋ねることが出来たかも知れない。自分の名を名乗ることが出来たかも知れない。

 …いや、そうではなく…。

 自分の声で『ありがとう』と言うことができたのに。


 ――僕はもう、厄介者にしかなれないんだな…。


 そう思ったとき。


『その身に見合った仕事をさせてやるからな』

 先ほど吐かれた座長の言葉が蘇った。

 この身に見合った仕事ってなんだろう。

 朱那はぼんやり考える。

 大好きだった仕事はもう、二度と出来なくなった。
 あれ以上に好きになれる仕事なんてないから、きっと何を言いつけられても上手くできないに違いない。

 けれど、今のような力仕事では、そのうち本当に役立たずになって捨てられてしまうに違いない。

 物心ついたころからずっと、旅芸人の一座の中でしか生きて来なかった自分が、ここを追い出されて何が出来るのか。生きていけるのか。

 そう思うと不安で押しつぶされてしまいそうだ。


 ――もう、がんばれないかも…。


 すでに度を超し、空腹すら訴えなくなった身体を抱えて、朱那はその場にまた蹲った。

 限界を超えていた身体はそのまま引き込まれるように眠りの中に入っていく。


 ――このまま、目が覚めなければいいのにな…。


 それが今一番幸せなことのような気がした。

 無意識のうちに、すりむいた膝頭をそっと撫でる。

 あの優しい人が巻いてくれた、手当の布。
 躊躇うことなく自分の衣を裂いてあてがってくれた…。




 風もないのに天幕の裾が揺れる。

 天幕の端を少し上げて中を伺っていた人間が、すうっと闇の中に姿を消した。



                     



「…そうか、やはりな」

 私室の長椅子にくつろいだ様子で腰を下ろしていた漣基は、梨舜の報告に身を起こした。


 あの小さな子供はやはり虐待を受けていた。

 梨舜の見聞きしたものを知り、漣基はクッと唇を噛みしめる。



 昨日都に戻った護蓬の報告によると、そこで天幕を張っているのはこの辺り一帯でも大きな部類に入る旅の一座。

 翔凛がやたらと気にしていた『金糸雀のような声で歌う少年』がいたはずの一座らしい。

 護蓬が翔凛の求めに応じて告げた内容では、半年ほど前までは確かにその一座に『金糸雀の声』を持つ少年はいたとのことだった。

 だが、ぱたりとその姿を見せなくなり、そのままだと言うのだ。


『何らかの理由があって一座を離れたのではないでしょうか』


 そう言った護蓬に、翔凛はそれはそれは残念そうな顔を見せ、あの剛胆な護蓬が『がっかりされたご様子があまりに痛々しくて、いたたまれませんでした』と眉を下げて弱るくらいだった。


 ――いや、今は金糸雀の少年よりあの子のことだ。


 翔凛には可哀相だが、いないものは仕方がない。

 それよりも、今現在虐げられている子供をなんとかしたい。

 だが、いくら王とは言え、正式に興行許可を得ている一座に理由なくは踏み込めない。

 もし踏み込めたとしても、目の前で虐待が行われていなければどうしようもない。
 ましてあの子は口が利けない。自分で助けを求めることもままならないのだ。

 そうなれば、何か理由を付けて買い取るという強引な手段もあるのだが、それではあの子が傷つきそうな気がする。

 旅の一座にいるということは、きっと今までもそんな目に遭ってきたに違いないだろうから。


 ――さて、どうするか。


 だがゆっくり策を講じている暇はないだろう。

 自分の腕の中にいた様子でも十分感じられたが、梨舜の報告でさらに事態の逼迫を感じる。

 あれだけ衰弱して体力の衰えた身体では、いつどんな状態に陥ってもおかしくない。

 普通の状態ならば何でもないことでも、簡単に事故に繋がってもしまうだろう。今日、あの子が漣基の馬の前に転がり出てしまったように。

 何か一つきっかけがあれば、すぐにでも命に関わってしまうということだ。

 このまま間に合わずに見殺しにしてしまうようなことになっては、自分自身を許せなくなる。



 漣基は朝から連れ回した梨舜を休ませ、代わりに護蓬を一座の天幕に送りこんだ。もちろんさりげない監視の為だ。

 護蓬もまた、表向きは旅の一座の座長であり、監視先の一座の座長とも面識があるそうだから、万一見咎められても『挨拶に来た』とでも何とでも言い訳がつく。

 そして、漣基自身は翌日を待った。

 本当は護蓬を遣るまでもなく自分が行きたかったのだが、『夜中に密偵まがいのことをなさるなんて!』と驚かれ、『それだけは止めて下さい』と、泣きつかれ――もちろん梨舜を始め側近たち総出で…だ――、仕方なく…のことだった。



                     



 そうして漣基にとって、とてつもなく長い夜が明けた…のだが。


 護蓬はいつまで経っても『まだ大丈夫ですから』という連絡しか寄越さない。

 構うものかと押し掛けようとしたのだが、これまた側近連中からきつく止められる有様で。

 ただ、梨舜が『護蓬には何やら策があると見ました』と言うから、どうにか留まっていられる状態なのだ。

 そうして、何も手に着かないまま、時刻が夕刻にさしかかりつつあったその時。



「漣基様。護蓬がお越し願いたいと」

 梨舜の言葉を受けて、漣基の瞳に力が宿る。

 そして、今にも飛び出そうとしたのだが、梨舜がそれを制止した。


「申し訳ありませんが、お出かけの前に衣を替えていただきます」

 その悠長な言葉に、漣基は眉を寄せた。

 だが、そんな漣基に構わず、梨舜の合図で女官たちがやってくると、その手にはかなり派手な衣が用意されていて、漣基は今度は呆気にとられてしまった。

 いや、普通王宮に住まう者にすれば当たり前の装束なのだが、何しろ漣基は普段から兵士たちとあまり変わらない服装を好んで着ているのだ。
 王として当たり前の服装など、派手なだけで動きづらく、面倒くさくて大嫌いだ。


「…何? どういうことだ、梨舜!」

「護蓬から、是非にと」

 そう言いきった梨舜の瞳には『絶対譲りませんから』と言った強い色が見て取れる。


「さ、お早くお召し替えを。護蓬が待っておりますから」

 それならばさっさと行かせてくれ…と、言おうとしたのだが、女官たちに取り囲まれ、着替えの挙げ句に髪まで整えられて、漣基は『王そのもの』とまでは仰々しくないまでも、一目で位の高さが伺い知れる様子に仕上げられてしまった。

 しかも『馬はダメです。目立ちますから』と言われ、質素な輿が用意された。

 その質素さ加減に、これでは己の仰々しい出で立ちと釣り合いがとれないではないかと抗議すれば、『お忍びでのお出かけでございます故』との返答。


 その様子に漣基は『護蓬に何か策がある』と言った梨舜の言葉を思いだした。

 抵抗を止めた漣基に梨舜は嬉しそうに頷き、そして、『あの子の為でございますから』と言ったのだ。


 その言葉に漣基は深く頷き、それならば…と、嫌いで仕方がない装束を優雅に翻して大人しく輿に乗った。


 そうしてやってきた天幕の前で、漣基は待ち受けていた護蓬から信じられないことを耳打ちされたのだった。



                      



 その頃。
 朱那にもまた、漣基によく似た出来事が起こっていた。

 もう何日も沐浴をさせてもらえなくて汚れ放題だった身体と髪を綺麗に洗われたのだ。

 そして、かつて大天幕の中心で人々の喝采を浴びていたときのように――いや、それ以上に念入りに――化粧を施され、柔らかい絹地の衣装を着せられた。

 ただ、あの頃の衣装に比べると、なんだかとろんとしていて、結わえている紐などもすぐ解けてしまいそうで心許ないのだが。

 そんな朱那に、座長はぎらついた目つきで嬉しそうにいった。


『今日からお前に新しい仕事をやろう』…と。


 ちゃんとやり遂げられたら、これからはずっと綺麗な衣装を着て美味しいものを食べて暮らしていけるのだぞ、どうだ嬉しいだろう…と、脂ぎった顔を寄せられ、思わず身を引いてしまったのだが、食事もさせてもらえずにする辛い下働きから解放されるのだと思うとやはり嬉しい。


 だが、ちゃんと自分に出来る仕事なのだろうか。

 もう、自分にはあの声はないのに。


 朱那は沸き上がる不安を押さえ込むように、ギュッと胸の房飾りを握った。