【4】




 朱那は、興行が行われる大天幕の奥の奥に張られた小さな天幕に連れてこられた。

 小さい天幕ではあるが、端々まで敷き詰められた敷物は西方の高級な織物で、方々に灯される灯りの皿は金細工のようだ。

 そして天幕の内側には涼やかで繊細な紗が幾重にも掛けられて、灯りを反射して幻想的に揺れている。

 焚きしめられている香は、何やら甘ったるく、真ん中には柔らかそうな寝具が横たわり、その枕元には見事なモザイクを施した香油の壺が置かれていて…。


 ――これ、どういうこと…?


 ここでいったい何をしろというのか。

 朱那がその状況に立ちつくしてしまったとき、背後から座長の媚びた声が聞こえてきた。


「さあ、どうぞどうぞ」

 誰かが来たのだ。


 ――まさか…。


 朱那の思考が最悪の予想に行き当たったとき、座長がいやらしい声で朱那を呼んだ。
 
 こちらへ来なさい…と。


 ――どうしよう…。


 だが、ここから逃れられるということはないのだろう。


「朱那、どうしたっ。こっちを向けと言っているだろうっ」

 動かない朱那に、座長に苛立った声が掛けられる。

 だが、

「…いい、そうやかましくするな。興がそがれる」

 穏やかな声がした。


 その声に朱那は一瞬で昨日のことを思い出した。


『大丈夫か?』『他に痛いところはないか?』


 あの、優しい声。


「こりゃどうもすみません」

 穏やかな声に窘められた座長は、しきりと詫びを入れている。


「…朱那…と言ったか。顔を見せてくれないか」

 そして、穏やかな声は、今度は朱那を呼んだ。
 身体が勝手に振り向いた。


 ――ああ…、また、会えた。


 目の前にいたのは、昨日朱那を助けてくれた、あの優しい人、だ。

 昨日は気がつかなかったけれど、見上げるほど背が高い。

 それに、服装が随分と違う。
 昨日はとても軽やかな姿だったけれど、今日の出で立ちは、その精悍な顔つきによく似合って眩しいほどだ。

 やはり思ったとおり、高貴な身分の人だったのだ。


 朱那は、じっとその瞳を見上げていた。


 そして。


 漣基もまたその瞳に吸い寄せられていた。

 これが、昨日のあの子供だというのか。

 確かに整った顔立ちをしていたし、汚れを落とせば透き通るような肌だった。

 しかし今夜は、その化粧の所為なのか、目も眩みそうな艶やかさを見せている。


 目が、離せない。



 そんな、見つめ合う二人の隣で、舌なめずりをせんばかりに様子を伺っていた座長は、動こうとしない二人に焦れてべらべらと喋りだした。

「お客様、この子は正真正銘の初物でございます。お気に召していただけましたらば、当分は他の客を取らせずにお客様だけのお楽しみとしてお取り置きしておくこともできますので、ご存分に…」


 その言葉に朱那が我に返った。
 やはり、自分はそう言う目的で着飾らせられたのだ。


『お前に見合った仕事』


 座長はそう言った。

 声をなくし、下働きも満足に出来ない自分には、もう『おもちゃ』になるしか使い道がないと言われたのだ。

 朱那の心を絶望が覆い尽くす。


 だが。

 その絶望に覆われた心にもまだほんの一筋の光が残った。

 今、目の前にいて朱那を買おうとしているのは、もう二度と会えないと思っていたあの優しい人なのだ。

 この人が、こんな発育不良の身体を…ましてや男の子を買うだなんて、ちょっと信じられないけれど、でも、昨日もあれだけ優しかったのだから、きっと耐えられないほど酷いことなんてされないのではないだろうか。

 いや、もうこの際だから酷いことでもなんでもいい…と、朱那は思い直す。

 どうせこの場からは逃げられないのだ。

 ならば最後に一度だけ、この優しい人に身を任せて、そしてその後は死んでしまおうと決めた。

 この先、生きていくために見ず知らずの男たちのおもちゃにならなくてはいけないのだったら、無理に生きていくことなんてない…そう思った。


 そうして、漣基を見つめる。


「朱那…こっちへ、おいで」


 そんな朱那を漣基が優しく手招きをした。

 名前を呼んでもらえるだけでも、嬉しい。

 親も兄弟も知らず、物心ついた時にはすでにここへ売られていて、それからずっと旅の一座の中で生きてきて、歌っている時以外はいつも辛いことばっかりだった。

 そして、その歌もなくして、もう本当に何も残っていないと思ったのに、最後の最後にこんな嬉しいことが残っていた。

 こんなに優しさをいっぱいくれたこの人に、せめて自分の声で『ありがとう』と言いたいけれど、それも叶わないのだから、せめてこの身体だけでも好きにしてもらって、それを『ありがとう』の代わりにしよう。


 そう決めて朱那は――それでもまったく慣れないことだから――おずおずと漣基に近寄っていった。

 漣基が大きな掌を朱那に向かって差し出した。

 朱那を見つめてニコッと笑ってくれた。


 朱那はまた、泣きたいくらい嬉しくなって、それでも泣いてはいけないのだと自らを戒めて、ゆっくりとその掌に自分の小さな手を重ねる。

 大きくて温かい手がギュッと朱那の手を握り込む。

 そして、もう片方の手で、握った部分をポンポンと叩いた。
 まるで、『大丈夫だから』とでも言っているように。

 その、これから始められようとしている行為の前触れとしては、あまりに優しくて健全な仕草に朱那が一瞬気を取られたとき。

 あっと言う間に朱那の身体は漣基に抱き上げられた。

 長身のため、怖いほどの高さまで持ち上げられたが、それでもがっしりと安定した腕の中では恐怖はまったく感じない。むしろ心地よい。


 少し離れたところで、座長の『ごゆっくり』という下卑た含み笑いが聞こえた。

 その言葉に、朱那が緊張の所為かキュッと震えた。
 そんな朱那を漣基はギュッと抱きしめ、そして。


「ちょっと待て」

 出ていこうとした座長を呼び止めたのは、今までにない低く冷たい声。

 朱那が驚いて目を丸くする。


「は? 何か。 おお、そうでした。酒でもお持ちせねばなりますまいな」

 座長は調子よく両手をポンと打ち鳴らした。


「いや、そんなものはいいから、お前の持つ興行許可書を見せて見ろ」

「…は?」

 何のことだと呆気に取られる座長に、漣基はたたみかけた。

「この一座には奇術や芸の興行許可しか出ていないはずだ。こういう商売はまずいだろう? しかもこの子はまだ子供だ」

 その言葉に、座長は漸く状況を悟った。

「…あ、あんた、まさか役人かっ?」

「厳密には違うが、まあ、そんなものだな」

 漣基は朱那を抱いたままで器用に肩を竦めたが、その腕の中で朱那は硬直した。


「…く、っそう〜。だましやがって!」

 座長は顔を真っ赤にし、ぶるぶると見苦しく震えると、意味不明のわめき声をあげながら漣基に飛びかかってきた。
 朱那を取り返そうと言うのだろう。

 だがあっさりと漣基に足蹴りをくらい、もんどり打ったところで、天幕のあちこちが跳ね上げられ、梨舜や側近の武官たちがなだれ込んできた。


「大人しくしろっ。興行許可違反で拘束する!」

 抵抗もなにもあったものではない。

 ひっくり返ってただの肉の塊になり果てていた座長は呆気なく拘束され、座長に協力していたと見られる座員が数名、同じように拘束されて連行され始める。

 その騒ぎに、事情を知らない座員や、裏の天幕の店主らが何事かと騒ぎ出した。

 そんな野次馬たちに、警備団の兵士たちが状況を説明し、事態の収拾を図っている。


 せっかく賑わうバザールをつまらないことで白けさせたくない。

 漣基はそう言って、後始末を善処するようにと梨舜に言い置いて、天幕を出た。

 もちろんその腕の中には、朱那をしっかりと抱いたまま。



                     



 夕刻。この天幕を質素な輿で訪れたとき、護蓬が漣基に告げたのは思いも寄らないことだった。


『あの子は今夜、身売りをさせられるようです』


 そう聞いた瞬間、頭の中が沸騰した。


 ――あんなに愛らしくていたいけない子供を、どこかのクソじじいの餌食にしようとしているのか!


 そんな沸騰中の漣基に、護蓬は冷静に耳打ちをした。


『これはとても良い機会です。漣基様、あの子を買ってやって下さい』


 その言葉に、『何だと?』…と鬼の形相で聞き返した漣基に、護蓬はニヤリと笑った。


『この一座は奇術や芸の興行許可しか得ていません。春をひさぐ商売は御法度です。しかも対象は子供。 叩きつぶす材料は揃っています。 あとは漣基様が現場を押さえて下されば…』


 己の知恵一つで長年諸国を渡り歩いて来た剛胆な男の不敵な笑みに、一瞬漣基が呑まれる。

 隙のない情報収集と緻密な計算。そしてそれらを一つにまとめ上げる能力。

 漣基自身も決して武力だけで旅の空を送ってきたわけではないが、だが護蓬の知恵には叶わない。 
 
 漣基は降参だ…とばかりに息をつき、護蓬の作戦に従ったのだった。




 朱那の『初めての客』として、中へ上がり込むのは簡単なことだった。

 漣基の服装と物腰を見て、座長は『これは上客だ』と判断したのだ。
 もし朱那を気に入ってもらえたら、この都で天幕を出している限り、搾り取れる。

 この辺りも護蓬の作戦が見事に当たったと言っていいだろう。
 そしてその後も予定通りに事を運んだ。



 漣基は改めて護蓬の手腕に感心し、そうして、腕の中の朱那を見た。

 顔色をなくし、小さく震えている。
 思いもかけない事態に、怯えているのだろう。
 昨日もそうだった。

 こちらの胸が痛くなるほどの怯えを見せたこの子――朱那…というのは本名だろうか――を、もう二度と怯えさせたくないと願ったのに、あんな現場を目の当たりにして、昨日よりその状態は悪いようだ。

 それも致し方ない。目の前で座長が掴まったのだ。自分にも咎めがあると怯えているのだろう。


「…すまない。驚かせてしまったな。こんなつもりではなかったんだが」


 耳元にそっと、埋め込むように囁いてやると、固まっていた朱那が驚いたように目を瞠った。
 朱那は、まさか謝罪の言葉を聞くとは思わなかったのだ。



 そして、漣基の危惧はその時の朱那の気持ちを正確には捉えていなかった。

 朱那は、自身への咎めに怯えていたのではなく、漣基の目的が自分ではなかったことへの悲しさから震えていたのだ。

 金で買われたのだとは言え、この優しい人が自分を欲してくれていたのなら、本当に嬉しいと思っていたから。

 だが、この人の目的は別の所――座長の悪事の摘発――にあったのだと知ってしまった。


 多分、一座はこの地を追われるだろう。座長がどうなってしまうかなんて知ったことではない。

 自分がこの先どうして生きていけばいいか、そんなものにももう興味はない。


 ただ、哀しかった。自分はもう、本当に『用無し』なのだ。

 もう、この腕の中にはいられない。


 朱那は漣基の腕から逃れようと、激しく暴れ始めた。