【5】




「お、おいっ!」

 突然激しく暴れ始めた朱那に、漣基は危うくその軽い身体を取り落としそうになった。


「こら、どうしたんだ、急に! 暴れるなって! 何もしないから!」


 ――だったら離して! お願いだから、離して!


 朱那の叫びは声にはならない。

 何もしないと言うのなら、離して欲しい。
 このままここへ捨て置いて欲しい。

 そう思った。

 だが、よくよく考えてみると、自分は咎を受けなくてはいけないのだ。

 知らなかった事とは言え、座長の悪事に荷担したことには違いないのだから。


 そのことに気がついた瞬間、朱那の意識はぷつりと途切れた。
 体力も気力も、とうに限界を超えていたのだ。


「…朱那?」

 突然意識を手放した朱那に、漣基は一瞬呆然とし、そして慌てて息と脈を確認する。

 どうやらそれらは失われていないようだ。

 そのことに僅かに安堵したが、鼓動は弱々しく、首筋は酷く熱を持っている。

 漣基は朱那をしっかりと抱いたまま、王宮へ急ぎ戻った。



                     



 その日のうちに、一座は興行の許可を取り消され、座長は幾ばくかの禁固と仕置きのあと、都から追放されることと決まった。

 だが、一座の中には何も事情を知らず、ただ真面目にやってきただけの者も大勢いる。そんな面々の今後を、漣基は護蓬に託した。

 護蓬もちゃんと『表向きの仕事』を持っているのだ。
 その一座に入るも良し、また護蓬の広い人脈で余所の一座を紹介してもらうも良し。
 とにかく彼に任せておけば間違いはない。



 意識を失った朱那を抱いて戻ってきた漣基に、驚いたのは悠風と翔凛だ。

 それらしい話も何も聞いていなかったから、いきなり現れた美しい子供に唖然としたり見惚れたりと大忙しで、翔凛などは『漣基がお嫁さんを連れてきた!』と大喜びで漣基を慌てさせたりしたのだが、ともかく意識が戻らないでは話にも何もなりはしないし、心配で仕方がない。


 そうこうしている間に侍医が駆けつけて、朱那の診察を始めた。

 とろりとした絹地を開いてみれば、壊れそうなほど細い肢体が現れ、青白い肌にはあちこちに傷がついている。


 侍医が、これは何事でしょうかと漣基を見上げた。

 その視線に漣基は『保護してきたんだ』と告げ、侍医はその言葉に痛ましそうに眉を寄せて頷いた。
 そして、丁寧に体中を検分すると、重いため息をついた。


「全身状態が非常に悪いです。身体の傷はそうは深くないのですが、この身体の状態では治るものも治りません。まずは熱を下げ、滋養のあるもので体力を回復させてあげるのが第一でしょう。 それと、采雲さまからお預かりしている薬草がありますから、それらを調合して一番身体に合ったものを作ってみましょう」


 侍医の言葉に漣基は『頼む』と告げ、その視線を朱那に戻す。

 時折荒い息を吐き、苦しげに薄い胸が上下する。
 当然、安らいだ顔はしていない。

 まだ小さい子にこんな化粧をするなんて…と、女官長が静かに憤りながら、香油とぬるま湯で清めた朱那の顔。

 あの妖しい空気が満ちた天幕の中でも清らかな空気を纏っていた朱那だが、やはり素顔の方が何倍も愛らしい。



 朱那が突然暴れ出したのは何故だったのだろうか。

『おいで』と呼んだときには、戸惑いながらもすんなりと腕に収まってくれたのに。


 もう何も心配はいらないのだから、せめて良い夢を見て欲しい…と願って、漣基はその白い額をそっと撫でた。



 それからの漣基はまた大変だった。
 まず悠風と翔凛に弁解をしなくてはならない。

 顛末を話すと案の定、『何の相談もなかった、水くさい』…とふてられた。

 女官長や侍従長にも成り行きを説明をしたのだが、こちらは『漣基様のお客人としておもてなしいたします』とにこやかに受けてもらえて胸をなで下ろした。



「なかなか目が覚めないね。大丈夫かな」

 翔凛は小さな朱那が気になって仕方がないらしく、枕元から離れようとしない。

 もちろん悠風も同様で、二人してあれやこれやと世話を焼き、女官たちから仕事を取り上げているといった状態だ。

 どうやら二人して、小さな弟を持ったような気分になっているらしい。
 悠風は末子であったし、翔凛も一人子であったから、それも致し方ないといったところだろう。

 やがて、事後処理を一段落させた護蓬がやって来た。


「まだ目覚めませんか」

 さすがに護蓬も心配そうな色を隠さない。

「とにかく目覚めてくれないことには、滋養のつけさせようもないからな…」

 漣基の返答も暗く沈んでいる。


「ねえ、漣基。この子、なんて名前?」

 翔凛が静かな声で聞いた。

「ああ、朱那…と言うのだが」

 そう言って翔凛の手を取り、その掌に、護蓬から聞いていた文字を表記してみせる。

「護蓬、これは本当の名だろうか」

 気になっていたことだ。旅芸人の中には『通り名』として別の名を使う者も多くいるから。

「はい、本当の名のようです。ですが…」

 言葉を切った護蓬は、『翔凛様』…と、小さく呼んだ。

「なに? 護蓬」

「この子は半年ほど前まで『金糸雀』と呼ばれていました」

 翔凛の瞳が驚きに見開かれる。

「この子が、翔凛様が捜されていた『金糸雀の声を持つ少年』です」

 その言葉に、漣基が『嘘だろう…?』と反応した。

 そして、その反論の意味がわからず翔凛がどうして?…と聞き返したのだが、その返答は更に驚くべきものだった。


「どうして…って、この子は喋れないんだぞ?」

「喋れない…って?」

 思いも寄らなかった言葉を聞いて、恐る恐る尋ね返した翔凛に応えたのは漣基ではなく護蓬。

 彼が、拘束した座長から聞き出したのはこんな話だった。


『変声を迎えて使い物にならなくなったから下男に落として下働きをさせていた。そうしているうちに、だんだん声が出なくなり、いつの間にかまったく話せなくなってしまった』


 その話に、暫く誰も何も言わなかった。

 ただ、深い眠りに沈む朱那をジッと見つめるだけで。


 やがて翔凛が、その小さな頭をそっと抱いた。

「可哀相に…辛かっただろうね…」



                     



 それからまた丸一日経った頃、漸く朱那は目を覚ました。

 身体が酷く熱い。
 その不快感で目覚めたようなものだったから、寝覚めはとても悪く、目覚めたと言っても半ばぼんやりとしたもので、自分が横たわっている場所がどこなのか、まったくわからない。

 ただ、今までこんな柔らかい所で眠ったことがないというくらい、ふかふかの寝具に包まれていて、なんだかいい匂いがする。

 花…だろうか。
 身体は辛いけれど、その涼やかな香りに気分はちょっと楽になったかも知れない。


 そんな風に思って視線を巡らしてみると、少年の姿が目に入った。

 自分とあまり違わない年の頃であろう、可愛らしい顔をした少年が、こちらを向いた。


 ――誰、だろう…。ここ、どこだっけ…。僕、何してたんだっけ…。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、少年は何か言いながら、朱那の方へと駆け寄ってきた。


「よかった。目が覚めたんだね」

 満面の笑みを浮かべて、少年は朱那の頭に触れた。どうやら濡れた布が額に当てられていたらしい。

「…熱、下がらないね。でももう大丈夫だよ。目が覚めたら薬湯も飲めるし食事もできるからね」

 その言葉に、朧気ながら誰かが助けてくれたのだと知った。
 だが、いったい何から助けられたのか。


 ――ああ…そうか。 僕、座長に殴られたり蹴られたりしてたっけ…。


 きっとあの暴力から助けてもらえたのだ。

 そう思った。だが疑問はまだ残る。

 いったい誰が。何のために。
 声をなくした自分には、もう何の価値もないのに。


「翔凛様、薬湯をお持ちしました」

「ああ、華蘭(ふぁらん)、ありがとう」


 いつの間にか、枕元に女の子がいた。

 華蘭と呼ばれたその綺麗な女の子もまた、朱那を見て『よかったね』と笑ってくれる。

 ここはどこなんだろう。
 男の子も女の子も、どちらもとても綺麗で、そしてなんだかものすごく上等そうな服を着ているように見える。


「さ、朱那。薬湯飲もうね」


 ――…あれ? どうして僕の名前…。


 翔凛と呼ばれた少年が寝台に片膝を乗り上げてきて、朱那の頭をゆっくりと抱き起こした。

 動かされると鈍い痛みが走って思わず顔をしかめてしまう。その痛みの所為で、浮かんだ疑問はあっと言う間に散逸してしまった。


「…大丈夫? 辛そうだね、可哀相に…。でもちょっと辛抱してこれ飲んでね。そうしたら随分楽になるはずだから」

 考えなきゃいけないことはたくさんあるけれど、抗う力も起こらない朱那は、ただ小さく頷いて少年に身を預けた。


「翔凛様、お椀は私が支えますから」

 華蘭がそう言うと、翔凛が『ありがと』と応える。


 ――しょうりん…って、どこかで聞いたことがある名前…かも。


 ぼんやりと思っていると、口に甘ったるい液体が触った。


「ゆっくり飲んでごらん」

 言われたままに、少し飲み下す。


 ――そうだ…。しょうりんって、宰相様と同じ名前なんだ…。


 この国の宰相がまだ年若いというのは、国内はもちろん近隣諸国にも知れていることだが、いくらなんでも自分と同じくらいのはずはないし、こんなに可愛らしい人がやり手の宰相だとは思えない…と、朱那は『同じ名前の人なんだ』と一人納得して、また一口、薬湯を飲み下す。


 なんだか一口ごとに、気分が…そして思考が晴れていくような気がする。


「わー、偉いね。全部飲めたよ。良くできました」

 翔凛がそう言って頭を撫でてくれたとき、『おはよう、朱那』…と、優しいけれど聞き覚えのない声がまた聞こえた。

 見ると、翔凛の肩を抱いて、随分と綺麗な男の人が立っている。
 この人もまた、その見栄えに見合った衣を纏っていて、並んでいる二人はまるで絵のようだ。


「気分はどう? 朱那。ちょっと話しても大丈夫?」

 そう聞いてくれた声の柔らかさに安心して、朱那が小さく頷くと、二人は顔を見合わせてホッとしたように笑った。

 そして。


「じゃあ、自己紹介ね。初めまして、朱那。僕は翔凛」

 薬湯を飲ませてくれた可愛らしい少年が言う。

「私は悠風。ここは私たちの家だから、ゆっくりと休むといいよ」

 ニコッと微笑んでそう言ってくれた人の名前に、朱那はまた内心で首を傾げた。


 ――ゆふ…って…。王太子様と同じ名前だ…。なんで?


 だが、宰相はともかく、王太子は確かにこれくらいの年齢――確か二十歳になられたと聞いた――の人だと聞いている。
 とても美しい人だという評判も何度も耳にしているが、いくら何でも…。


 そう思ったとき、翔凛が朱那をそっと横たえながら言った。


「もうすぐ漣基が来るからね。朱那が目を覚ますの、ここでずっと待ってたんだけど、どうしても外せない執務が出来てね、ちょっと席を外してるんだ」

「残念だろうね、漣基。朱那が目覚めたら最初に会いたかっただろうに」

「あはは、それは天罰ってもんでしょー。朱那のこと、僕らに内緒にしてた罰」

「なるほどね。その通りだ」


 会話を弾ませながら笑いあう『翔凛』と『悠風』に、朱那は半ば恐慌状態に陥っていた。


 二人は今、『漣基』と言った。

 それはこの国の人間ならもちろん誰でも知っている、この国を救った『偉大なる王』の名前だからだ。


『王』と『王太子』と『宰相』。


 飛び出しそうな程打っている心臓を必死で宥めながら辺りをそっと見回すと、確かにここは王さまたちが暮らすに相応しいような、とても広くて美しい部屋だ。
 
 それなりに身分の高い人の館で興行したこともあるけれど、こんなすごい場所には来たことがない。

 だが、確かに自分は『王宮』が見下ろすバザールにいたけれど、こんな雲の上の人たちとはなんにも接点はない。


 もし、万一、彼らがそうだとして、どうして自分がこんな所にいるのか。

 どうしてその『王さま』が自分が目覚めるのを待っていたのか。
 いくら考えてもわからない。


 朱那が内心で頭を抱え込んだ。
 その時。


「朱那が目覚めたって?!」


 扉を開け放して飛び込んできた人を見た瞬間、朱那は意識を無くす前の出来事を漸く思い出し、そしてまた硬直してしまった。