【6】




「漣基ー。もうちょっと静かに入ってこられない?」

「そうそう、朱那は今目が覚めたばかりで、熱もまだ引いてないんだよ?」


 年下の二人に窘められ、漣基はウッと言葉に詰まったが、『それは悪かったな…』と素直に謝ると、今度は打って変わった静かな足取りでそっと朱那に近寄ってきた。


「…朱那…」

 優しい声で呼んでみるが、朱那は大きく目を見開いたまま固まっている。

 それはまるで、気を失う直前のあの状態を思い起こさせるもので、漣基は不安に駆られた。

 そして、その『硬直』は翔凛や悠風にも伝わった。


「朱那、どうしたの? 漣基だよ? 覚えてるでしょ?」

 優しく問われても、頷くことができない。

 覚えている。忘れるはずがない。もう一度でいいから会いたいと願った人。この人になら、身を任せてもいいとさえ思った人。

 けれど、この人は…。


 そう思った瞬間、朱那の両目からボロボロと涙が溢れ出した。


「朱那っ?!」

 慌てたのはその場にいた全員だ。


「漣基…もしかして、朱那を苛めてたんじゃないだろうね…」

 漣基を見た途端の朱那の変容に、悠風と翔凛は不審な顔を漣基に向けてくる。


「なっ、なんでそう言うことになるんだっ」

 漣基が慌てると、朱那は翔凛の腕を掴んで必死で違うのだと首を振っている。


「ああ、わかった。わかったから、朱那。そんなに頭振っちゃダメだよ」

 これでもかというくらい優しい声で宥め、肉付きのない背中をゆるゆる撫でると、朱那は少し落ち着いたのか、小さく頷いて息を吐いた。


「漣基、なんか行き違いがありそうな気がするんだけど」

「うん、私もそう思うな」


 二人の言葉に、漣基も『そうかもしれない』とポツッと呟く。

 天幕の中で、腕に抱き上げている時に突然暴れ出したのにも驚いたが、今見せられた大粒の涙にも、漣基はかなり衝撃を受けているのだ。

 泣かせるようなことをした覚えはない。
 それどころか、誰よりも何よりも、大切に護ってやりたいと思っているのに。

 もし何か行き違いがあるのなら、その点はきちんと正しておかねばならない。

 朱那が嫌でないのなら、きちんと手続きを踏んで、王宮に引き取ろうと思っているのだから。



「それにさ、漣基ってば、どうせちゃんと自己紹介もしてないんでしょ」

「自己紹介?」

「そうだよ。朱那は漣基のことなんにも知らないんじゃないの?」


 頭上で交わされる会話に、朱那は一生懸命耳を傾けている。

 飲ませてもらった薬湯の効果は絶大で、熱感は去らないまでも、身体も思考もさほど辛くはない。


「ね、朱那」

 同意を求められて、朱那は遠慮がちに頷く。

 確かにそうなのだ。朱那は漣基のことを何も知らない。

 一度目は怪我をしたところを助けてもらって、二度目は身売りさせられそうになっていたところに現れて……あれも結局助けてもらったことになるのだろう。

 目的は『違反行為の摘発』でも、結果的に自分は牢屋にも入れられず、こんなに良くしてもらっているのだから。

 そして、そんな漣基の本当の姿は…。


「あのね、朱那。漣基はこの国の王さまだから、朱那はもう、なんにも心配しなくていいんだからね」


 ――……やっぱり…。


 薬湯が効いているはずなのに頭がくらくらした。

 身分の高そうな人だとは思ったし、座長が捕まった時の状況を思えば、政の世界でも地位のある人なのだとは思えた。

 けれどまさか、『王さま』だったとは…。


 知らず、ため息が漏れた。

 そんな朱那の様子に、翔凛と悠風は顔を見合わせる。

 そして、悠風が言った。

「漣基、二人きりにしてあげるからさ、ちゃんと話した方がいいよ」

「…わかった」

 その返事を受けて、今度は翔凛が朱那に穏やかに言った。

「朱那。漣基の話、聞いてあげてね。漣基ってばちょっと言葉が足りないけど、朱那のこととっても心配してるから」


 ――いったいどういう言われ方だ…。


 すっかり蚊帳の外で話を進められて、漣基がブスッと膨れている。

 十五の時に執り行った成年式と宰相就任式から二年。
 すっかり大人になってしまった――中身だけだけれど――甥っ子に好き放題言われて、叔父の威厳も王の威厳もあったもんじゃない。


 だが朱那は翔凛の言葉を真に受けているようで、真剣な表情で頷いているではないか。

 これはやはり、きちんと話をしておかねばならないだろう。


「…朱那。聞いてくれるか? 私の話を」

 朱那は小さく頷いた。

 その頬がほんのり染まったのを、悠風と翔凛はもちろん見逃さなかった。



                     



「さて…どこから話そうか」


 漣基は寝台の上で朱那を抱きかかえてそう言った。

 衰弱している身体を柔らかい布で優しくくるみ、楽に呼吸が出来る体勢にしてやると、朱那はやっと身体の力を抜いてくれる。


 二人きりにされた後、朱那は突然慌てたように寝台から飛び降りて、床にひれ伏した。

 その動作が、まさに『王』に対するものだと知れて、漣基は慌ててその小さな――まだ熱の残る――身体を抱き上げて、そのまま有無を言わさず抱き込んだのだ。


「いいか、朱那。最初に言っておくが、私のことを『王』だと思わなくていい。最初に会ったとき、お前はそんなことを知らなかっただろう?」

 問いかけに、朱那はこくりと頷く。

「あの時のままでいいんだ。何も案ずることはない」

 優しくて、そしてほんの少し低い声でそう言われてしまうと、本当にそれでいいんだと思ってしまえるから不思議だ。

 だが、漣基の言葉はそのまま信じていいのだろうと、朱那は思った。

 この人はきっと、嘘はつかない。澄んだ瞳を見ると、それは容易に確信できる。



「では、まずお前と出会ったときのことから話そう」

 そう言って漣基は、ゆっくりとわかりやすく、あの日から今日までのことを語って聞かせた。

 小さな身体を傷だらけにしている朱那が気になって、梨舜に様子を見に行かせたこと。

 朱那の受けている仕打ちを知って、どうしても、朱那を助けたかったのだと。

 そのために一座は解散せざるを得なくなったが、他の者たちのことはきちんと善処してあるから心配しなくてもいい…とも言ってくれた。


 そして朱那は、そんな漣基の言葉を聞いてまた大粒の涙を流し始めた。

 その涙に、漣基はまた慌てたのだが、それはすぐに愛おしさに変わった。

 今までのように、身を固くして流す怯えた涙ではなく、細い腕で漣基の大きな身体にしっかりとしがみつきながら流した涙だったからだ。



 信じられなかった。

 てっきり『ついで』に助けられたものだと思いこんでいたのに、漣基は自分を助けに来たのだと言い切ったのだ。

 気になって仕方がなかったと。どうしてもこの腕の中で護ってやりたかったのだと。

 はっきりとした言葉でそう伝えてくれたのだ。



 嬉しい涙を散々流したあと、朱那は涙を拭ってくれた漣基の手をそっと取り、その掌に『ありがとうございます』と書いた。

 どうしても伝えたいと思っていた言葉が漸く伝えられてまた涙が出そうになったが、まだまだ言いたいことがあるから、それをグッと我慢する。

 掌を見つめて嬉しそうに笑った漣基に、朱那もまた、はにかみながら笑いかけ、そして続きを書いた。

 もう一度逢いたかったのだと。あってお礼を言いたかったのだと。

 そして、今、自分がどれだけ嬉しくて幸せなのか。


 だがそれを伝えるのに良い言葉が見つからなくて、なかなか上手く綴れない。

 けれど漣基は辛抱強く付き合ってくれて、朱那の気持ちが伝わったときには痛いほど強く抱きしめてくれた。


 漣基は朱那を王宮に引き取ってくれると言う。

 もうなんの価値もない、ただの役立たずなのに。

 ならば一生懸命働いて、漣基様のお世話をさせていただこう。


 朱那はそう決めた。



                      



 その日から朱那は急速に元気を取り戻していった。

 薬湯や滋養のつく食物はもちろんそのことに大きな役割を果たしたが、何より周囲の人々――漣基はもちろん、翔凛・悠風、そして女官や侍従たち――の優しさに包まれていたことが何よりも朱那の回復を促したのだろう。

 相変わらず華奢で肉付きは薄く、肌も透き通るような白さだが、それでも頬は健康的に色づいていて、輝くばかりの美しさだ。

 翔凛付きの女官・華蘭などは、『悔しいくらいに綺麗』と笑うほどだ。

 もっとも彼女自身、数多い女官の中でも三本の指に入ると言われるくらいに美しい容貌をしているのだが。


 そして身体の傷が癒えると、『そんなために引き取ったんじゃないぞ』と言う漣基に頼み倒して、漣基の身の回りの世話を手伝うようになった。

 もちろん王には侍従や女官たちがいて、彼らにはそれぞれきちんとした役割分担があるのだが、良く気がついて小回りの利く朱那は何かと重宝され、その上に、決して出過ぎはせずにいつも控えめな質の故か、あっと言う間に王宮内で人気者になりつつあった。


『可哀相にね、あれで口が利ければ、王宮内での出世も望めるのにね』


 そんな声も聞かれはしたが、そもそも朱那にそんなつもりはこれっぽっちもない。

 漣基の側にさえいられれば、それでいいのだから。


 ――漣基様はもうすぐ退位されて、悠風様が王さまになられるけれど、でも、僕はずっと漣基様のお側に置いていただくんだ。



 朱那はまだ知らない。

 漣基が退位の後、遠い旅に出ることを。