【7】
朱那を王宮に連れてきてから半月が経った。 今では朱那の姿が側にあるのが当たり前で、ほんの少し姿が見えなくなればすぐに『朱那は何処へ行った?』と尋ねる王を、周囲の者たちは微笑ましい思いで見ている。 この国の王になって六年。 その間、周囲は漣基に妃を持つよう幾度となく勧めてきた。 それとなく大臣の娘や近隣諸国の王女を引き合わせたりもしたのだが、女性の方が夢中になるばかりで漣基がまったく『そう言う気』を起こさない。 問えば『いずれ悠風が王位を継ぐのだから、私が妃を娶って余計な火種を残すことはなかろう?』と真顔で返されてしまう有様だ。 だがその悠風までもが『妃は娶らない』と公言して憚らないのだから、漣基が妃を娶って世嗣を残してもなんら問題はないのだ。 いや、むしろその方が国の為にはありがたい。 しかし、漣基は周囲の思惑を余所に、今まで誰にも執着しないで生きてきたのだ。 それがどうだ。 くるくるとよく働く小さな朱那に、漣基は骨抜き状態だ。 さすがに寝室は別にしてあるが、執務と就寝時間以外は片時も離そうとしない。 昨日などは遠乗りにも連れていったようで、朱那は初めて乗った馬に興奮して眠れなかったくらいだ。 そして、そんな朱那を寝かしつけたのがまた漣基で…。 「ね、どう思う? 悠風」 「何? 漣基のあれ?」 「そう、漣基のあれ」 三日ぶりにちょっとしたお茶の時間を持つことが出来た翔凛と悠風は、柔らかい光に溢れた気持ちのいい中庭で杯を片手に密談の真っ最中だ。 側に控えるのは、何もかも心得ている華蘭一人きり。 「あれって絶対やせ我慢だよね」 「朱那がまだ子供だからって?」 「うん」 この国で成人と見なされるのは十五歳。 それまでは『護るべき国の宝』として手厚く保護され、いかなる立場にあるものもそれを虐げたり蹂躙したりしてはならない。 もちろん例えそれが『王』という立場であっても…だ。 本当にただ慈しんでいるだけの子供であれば、自分の寝台で一緒に寝かせても構わないわけなのだが、漣基はそれをしない。 そんな漣基の行動を、悠風と翔凛は『やせ我慢』と取ったのだ。 成人に満たない者に、『そう言う思い』を抱かないよう…いや、抱いているからこそではないかと。 「だってさ、漣基ってばこの前もテラスの長椅子で、お膝抱っこで朱那を昼寝させてたんだけど、その朱那を見つめる目がさあ…」 「朱那が欲しい…って言ってる?」 「その通り」 翔凛が笑いながら頷く。 「しかし昼寝って…漣基は朱那をいくつだと思ってるんだろう?」 「…十前後ってとこじゃないかなあ。『朱那はまだ子供で体力も十分じゃないからこうして午睡をさせてやらないとな』って真剣な顔で言ってたよ」 「まあ、確かにまだ体力が十分じゃないって所は本当だけどね」 「どうする? 朱那に聞いたあの話、漣基に教える?」 「そうだな。もう暫くやせ我慢を見てるのも楽しそうだけど」 「酷いんだ、悠風ってば」 クスクス笑う翔凛の額を、悠風は『それを笑ってるのは誰だ?』と茶化しながら小突く。 「ま、でも教えてあげるとするか」 「そうだよ。それに朱那も漣基が大好きなんだし」 「見てて可愛いよなあ。全身で『漣基様、大好き!』って言ってるもんな」 そんな朱那の愛らしい仕草のあれこれを思い出して、二人で顔を見合わせて――それこそ唇まで触れそうな距離で――思わず『うふふ』と色づいた笑いを漏らすと、側に控えた華蘭が『コホン』と一つ咳払いをした。 こう言うときは…。 「これはこれは、王太子様、宰相の君、ご休憩中でいらっしゃいましたか」 式展省の大臣・陽明が大きなお腹を揺すりながら現れた。 「ああ、なにかご用ですか?」 今し方とは打って変わって大人びた声で悠風が応対すると、陽明は『いえいえ』とまた腹を揺すって豪快に笑った。 「急ぎの用ではございませんので、ご休憩が終わられましたらまたお話させていただくといたしましょう」 「そうですか。ではお言葉に甘えてもう暫く休ませていただきます」 いつも悠風はこんな風に、臣下であっても、年上の者には丁寧な言葉を使う。なのに『王』相手にはそうではないところが可笑しいのだが。 翔凛は、執務中でこそ悠風と同じような言葉遣いであるのだが、公の時間以外は大臣相手でも友達のように接しているから、『王太子になったら言葉遣いも丁寧なのに変えないといけないのかなあ…』とちょっと憂鬱になっているところだ。 「では、ごゆっくりと」 また『わはは』と笑いながら去っていく陽明を見送ると、悠風は華蘭に『ありがとう、いつも助かるよ』と声を掛ける。 こんな風に、大臣たちの不意の襲来を、華蘭はいつも助けてくれるのだ。 「とんでもございません」 悠風の言葉にニコッと笑い、深々と一礼すると、華蘭はほとんどなくなりかけていた二人のお茶を新しいものに取り替えてくれる。 これを飲み干すまではゆっくりと休めるということだ。 本当に気が利く。 「そうそう、あの陽明だけど、朱那のこと凄く可愛がってるね」 翔凛が言うと、悠風が『へえ〜』と暢気な声をあげる。 「そうなんだ」 王太子という立場よりは、翔凛の『宰相』という立場の方が大臣の私的な情報は得やすい。 「うん。珍しいお菓子持ってきたりしてる。ほんとは可愛い衣とかも見立ててあげたいらしいんだけど、一応漣基に遠慮してるみたい。なんでも静泉溜の街にいる孫が朱那と同じくらいの歳なんだって」 「十歳くらいって?」 「そうそう」 そうして二人、また顔を見合わせて笑いあう。 「そうか、確か陽明の息子は静泉溜へ赴任していたな」 「うん。年に一回くらいしか会えなくて寂しいらしいよ」 「だから、朱那…ってわけか」 「そうそう。それに梨舜も」 「梨舜も?」 「一番下の妹がね、朱那くらいなんだって。あそこも父上が家族を連れて遠方へ赴任してるからね、可愛い盛りなのに会えないんだって。だから朱那を見てると妹を思い出すって」 「妹って…」 ぷぷっと悠風が吹き出した。 「おまけにその妹、まだ八歳だって」 「それ、朱那が聞いたらまた『酷いですー』って怒るだろうなあ」 そうしてまたまた二人して笑いあう。 背後では華蘭が『本当に仲のおよろしいこと』とにこにこ顔で見守っている。 「それにしても漣基があんなにわかりやすいとは思わなかったよね」 妃を勧められても頑として受け入れてこなかった漣基。 世継ぎ問題の火種にしたくないというのも嘘ではないだろうが、実はずっと鈴瑠のことを忘れていないのだろうと翔凛は思っていた。 けれど鈴瑠はもうすでにこの世にいないのだ。 いたとしてもその心は父・竜翔のもので…。 だから漣基が朱那に執着を見せてくれることは、翔凛にとっても喜ばしいことに違いはない。 「漣基には絶対幸せになって欲しいもんね」 その言葉に悠風も深く頷く。 今、自分がここにこうしていられるのは漣基のおかげなのだ。 彼がいなければ、あの時自分は為す術もなく命を落としていただろうし、この国は恐らく、荒廃し果てていたに違いない。 酷い怪我を負って動けなくなった自分を助け、自らの危険を省みずこの国を救ってくれた人。 長らくここへ引き留めてしまったけれど、間もなく彼は自由を得て旅立つ。 少し長くなるであろう別れにはもちろん寂しさを感じるが、不安はない。 ここはすでに漣基の第二の故郷なのだ。だからいつか、彼はここへ帰ってくる。 そう信じているから、長の別れも笑って見送れる。 ただ。 その傍らには朱那の姿があって欲しい。そう強く願う。 地上から消え去ったという故国を確かめに行く漣基。 そんな辛い旅の中でも、漣基がいつでも笑顔でいられるように。 「十五歳だって?!」 今日も恒例の『朱那の午睡』が行われ、朱那は漣基の私室にある大きな長椅子ですやすやと――漸く、なのだが――眠っている。 ここのところ、王位の移譲に伴う色々で漣基が忙しなくしている所為か、朱那は漣基の膝に抱かれると、まるで子犬が尻尾を振っているかのような喜びようを見せてくれるから――それは、言葉に表せない分、余計にその表情や仕草に現れるのだろうが――寝かしつけるのも一苦労だ。 しかも最近では、眠くない・寝てしまいたくない…と瞳で訴えるようになっていて、漣基は『ちゃんと眠って身体を休めないとダメだよ』と諭さねばならない有様だ。 そんな朱那を漸く寝かしつけて、その寝顔をゆっくりと堪能しているときに、翔凛と悠風が『話があるんだけど』と言ってきたのだ。 そこで、朱那を部屋に残して出てきてみれば、告げられたのは思いも寄らない一言だったと言うわけだ。 「朱那が…十五歳って…」 よほど衝撃だったのだろう。漣基が呆けているところなど滅多に拝めるものではない。 「そうなんだ。朱那と筆談した時に、僕のことを『よもや宰相の翔凛様が、僕と同じくらいの年だとは思ってなかったのでびっくりしました』って書くからさー、『いくら僕が子供っぽく見えるからって酷いよー。僕はこれでももう十七歳なんだけど!』って怒って見せたら、『二つしか違わないじゃないですか』って書いて、にこにこ笑うんだもん。びっくりしちゃったよ。でさ、『朱那は十歳くらいかと思ってた』って言ったら、『翔凛様の方が酷いです』って書いて見せてきて、大笑い」 ――大笑いじゃないだろうが…。 漣基は翔凛の説明を唖然と聞くばかり。 「それにしてはしっかりしてるなあと思ってたんだけどねー」 「そうそう。答えがしっかりしてるし、字もたくさん知ってて綺麗だしね」 翔凛と悠風の話を聞いていたのかいないのか、漣基がポツッと呟いた。 「…てっきり十くらいだとばかり…」 「小さくて細いからねえ」 「ま、子供子供してるのは外見だけで、ああ見えても中身はもうちゃんと成年なんだよねえ。まるで翔凛みたい」 「あっ、それを言うのは反則だって言ったろ!」 じゃれる二人を余所に、漣基はまた呆然と呟いた。 「…大人、なのか…朱那…」 その呟きに、じゃれる動きをぴたりと止め、悠風と翔凛がにやりと笑いあう。 もちろん『ああ見えても中身はもう…』という台詞は計算ずくのものだ。 できるだけ朱那の中身が大人であることを漣基に印象付けたい。 もちろん、それははったりでもなんでもなく、翔凛も悠風も実際に感じていることだ。 朱那は話すことが出来ないから、滑らかな対話は難しい。 その上仕草が幼げで可愛らしいから、周囲の大人たちは皆、勝手な思いこみで『朱那は幼子だ』と決め付けてしまうのだ。 だがじっくりと筆談で話を交わしてみれば、朱那はちゃんと十五歳だと…いや、それ以上にしっかりしているとわかる。 旅芸人たちの中には読み書きの出来ない者も多いが、朱那は一座の中にいた博学の老人にずっと読み書きを習っていたのだという。 そして、諸国を渡り歩いてきた所為か、知識も豊富で見聞も広い。 何より、頭の回転が速い。 今までの働きぶりを見ていればそれも自ずと知れようことなのだが、周囲はそれを『朱那は身体で覚えているのだ』と思いこんでいる節がある。 だが朱那は、ちゃんと頭で考えて、一つ一つを知識として自分の中に蓄えていっているのだ。 『この子は漣基にふさわしい』 悠風と翔凛は、朱那こそが漣基を幸福にする人だと確信していた。 |