幼子だと思いこんでいた朱那が、すでに成年と見なされる十五歳だったとは…。
自分の思いこみにいっそ呆れながら私室へ戻ってみると、すでに朱那は目覚めていて、一生懸命に自分が寝ていた長椅子を整えている。
くるまれていた肌触りのいい上掛けを綺麗にたたみ、頭を預けていた枕のへこみを丁寧に直し、髪の毛が残っていないだろうかなど、細かいところまで必死で確かめている姿が可愛らしい。
「朱那…」
そんな朱那を柔らかい声で呼んでみれば、朱那は弾かれたように顔をあげ、漣基の姿を認めると大喜びで走り寄ってきた。
本当に、まるで子犬だ。こんなに可愛い仕草を見せるから見誤っていたのではないか…と。
だがそう思った端からその考えを否定する。
朱那の所為にしてはいけない。
見誤ったのは自分の目の曇りなのだ…と。
自分の思いこみで朱那の本当の姿を見てやれていなかったのだ。
護ってさえやればいい。そう思いこんで朱那をちゃんと一人の人間として尊重していなかったのだ。
漣基は駆け寄ってきた朱那を抱き上げた。
軽くて小さい。そしてその瞳は本当に幼子のように純粋で…。
「朱那、話をしようか。今日はちょっと…ではなく、たくさん…だ」
漣基の言葉に朱那はちょこんと首を傾げ、やがて満面の笑顔で頷く。
漣基がどんなつもりでそう言ったのかはわからないが、とにかく朱那には漣基と過ごせる時間が最高に幸せな時なのだ。
それに、一緒にいられるだけでも十分なのに『話をしよう』と言ってもらえて、朱那は嬉しくて堪らない。
漣基は朱那を抱いたまま机に向かい、大きな椅子に腰かけるとそのまま朱那を膝に置く。
そして、書き物を一式用意すると、朱那に細い筆を握らせる。
「さあ、何から話そうかな。まずは朱那の好きなものから聞こうか」
そんな風に始まった二人の『言葉と筆』による会話は、その日の深夜まで続いた。
いくら話しても話したりないくらい、二人の会話は尽きない。
朱那の好きなこと、好きな色、好きな食べ物。そして、どんなことに興味を持っていて、今までどんなことに感動したか。
辛いことも多かっただろうが、漣基は敢えて聞かなかった。
それはまた追々聞いていくことにして、今はただ、朱那が進んで話したいであろうこと自由に話させてやりたいし、聞きたい。
朱那と話していて特に驚いたのは、その知識の広さだった。
物心ついたときからずっと旅の空にあったわけだから、それもあろう話だが、それにしても朱那は色々な経験の一つ一つを実に良く覚えていて、そして身につけている。
漣基も十代の頃から諸国を旅してさまざまなものを見聞きして身につけてきたが、それに劣らぬほどのものを朱那は備えているのだ。
それに、歌っていた頃に知った歌詞に限られはするけれど、朱那は異国の言葉も数多く知っていた。
その数は漣基のそれをかなり上回るもので、漣基は驚きを隠せない。
そして、さらに驚くべき話がまだあった。
朱那が、ここへ来て思い出したことがある…というので、漣基が『聞かせてくれ』と促したところ、朱那は頷いて筆を走らせた。
『漣基様は、ずっと西方にある創雲郷と言う祈りの郷をご存じですか』
知っているも何も、故国の信仰の中心地だ。統治していたのは従兄で、その妃は姉だった。そして翔凛が生まれ、鈴瑠に出会い…。
だがそんなことは言わずに、漣基はただ『知っているよ』と頷いた。朱那の話の腰を折りたくない。
『六歳くらいの頃、その創雲郷の麓にある薬草の里で興行したことがありました。 その時に、創雲郷の本宮様の側近の方がちょうどお越しになられていて、僕の歌をとても誉めて下さいました。 中でも一つ、とてもお気に召した歌があったので、それをお教えしましたら、郷に帰ったら若宮様にお聞かせしますと喜んで下さったんです。 後で聞いたんですが、その方は若宮様の教育係の方だったそうです』
朱那が六歳の頃と言えば、翔凛は八歳。創雲郷の若宮で、その教育係と言えば鈴瑠だ。
よもやそのような接点があったとは俄に信じ難く、漣基がその側近の名を問うたのだが、朱那は『お名前は伺わなかったのです』と目を伏せた。
しかしまたすぐに筆を走らせた。
『ですが、ここへ来て思い出したんです』
書いて漣基の瞳を見ると、漣基は『教えて』と頷いた。
『翔凛様が、その方にとてもよく似ていらっしゃるのです』
漣基は目を閉じた。
やはり、鈴瑠だ。鈴瑠と朱那に、出会いがあったなんて…。
なんて偶然だろう…と、思った瞬間、ふと意識の端で思いついた。
もしかしたら、鈴瑠が朱那に引き会わせてくれたのではないだろうか…と。
そして、その考えは、朱那が次に書いた言葉で確信に変わった。
『その方、お帰りになるときにこう仰ったんです。『君はきっと、幸せになれるよ』って』
それはもう、紛れもない鈴瑠の『予言』。
彼は、天の遣い人だったのだから。
『でも僕、辛いことの方が多くて、その言葉をずっと忘れてました。でも』
朱那が漣基の瞳を見て微笑んだ。
『本当だったんですね』
漣基は思わず朱那を抱きしめた。そして、己の中の『想い』をはっきりと認める。
こんなにも、愛おしい。
「朱那。私はお前に謝らなくてはいけない」
朱那が慌てて顔を上げた。
「ただ護ってやればいいと思い、お前の本当の姿を見ようとしなかった。許してくれ…」
漣基の言葉に、朱那は目を見開き、そして漣基の両腕を掴むと一生懸命の頭を振って否定を示した。
そして、もどかしげに筆を取り、こう書いた。
『とんでもないです。僕の方こそ、このように口の利けない身の上では、お役に立つこともできなくて、ただそれが哀しいです』…と。
そんな朱那を、漣基は切なげに見つめ、ゆるゆると首を振る。
「違うんだ…。役に立つとか立たないとか、そんな…そんなことではないんだ、朱那」
朱那の小さくて細い身体をすべて、腕の中に閉じこめる。
「私はお前を…愛しているんだ」
想いの丈をすべて込めた、熱い告白。
だが、朱那はその告白に、身じろぎすらしない。
しかしやがて…。
「…朱那…?」
漣基の衣を掴んでいた朱那の手が細かく震え始め、小さな頭が収まっていた漣基の胸元が熱く濡れ始めた。
声にはならない、ただ、息がひゅ…っと鳴るだけの小さな嗚咽。
「朱那?…朱那っ!」
見れば朱那はあの日以来見せなかった大粒の涙をぼろぼろと零しているではないか。
「朱那、すまない。驚かせたか?」
その問いに、朱那はうんうんと頷くと、また漣基にしがみついてきた。
漣基はもちろん、そんな朱那をずっと抱きしめていて…。
どれくらい経っただろうか。朱那がそっと顔を上げ、泣きはらした瞼を隠すかのように俯いたまま、筆を取った。
漣基は一言も落とすまいと、それをしっかりと見つめる。
そして、目を見開いた。
朱那は、『身売りをさせられるとわかったとき、死んでしまおうと思いました』…と告白したのだ。
『死』という不吉な文字に、漣基の胸がきつく痛む。
だが、その痛みはすぐに別の痛みに変わった。
『でも、僕の前に立っていたのは漣基様で、僕はその時、最後にこの人に抱かれてから、それを思い出に死のうと思いました』
胸の痛みの正体は、これ以上なく甘い『疼き』。
『愛している』
漣基が告げたこの言葉にどれほどの力があったろうか。
朱那の告白こそが、漣基のそれよりももっと、この心を捉えて離さない。
「朱那…!」
心の枷が外れた瞬間。漣基はもう何も考えられなくなって、ただ、朱那の小さな唇に夢中で口づけていた。
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