【9】
快晴の朝。 悠風の戴冠式の日となった。 正午ちょうどに始められる式典で、漣基は自らの退位を宣言し、その冠を悠風の頭上に譲る。 いや、漣基の心情としては『返す』といった方が正しいだろう。 漣基はただ、『王位は預かっていただけに過ぎない』のだと思っているから。 そして、その直後には立太子式が行われ、翔凛は王太子となる。 「翔凛様、采雲様がお越しになられました」 女官が告げると、その背後から長身の僧が現れる。 「わーい! 采雲、来てくれたんだね!」 翔凛はかつて自分の教育係であった采雲に飛びついた。 「翔凛様、遅くなって申しわけございません」 子供の頃と変わらないその仕草に思わず破顔して、采雲は翔凛を抱きしめる。 「ううん、忙しいのに無理言ってごめんね」 「何を仰います。翔凛様の立太子式ですよ? 間に合わなかったらどうお詫びしようかと肝を冷やしておりました」 僧の采雲は信仰の中心地である『竜瑠の街』の主にして、この国の交易においてもっとも重要な役どころを担っている『薬草』を栽培する『静泉溜の街』の最重要人物であるがため、日々多忙なことこの上なく、こうして翔凛と会うのも実に半年ぶりのことになる。 「先ほど悠風様にもご挨拶して参りましたが、随分とお背が高くご立派になられましたね」 「だろー? どんどん僕と差がついてっちゃってさ、面白くないのー」 ぷうっと膨れる翔凛の、その表情や仕草こそまだまだ『少年』ではあるが、その中身がすでに『統治者』としての様々を十二分に備えていることを采雲は誇りに思っている。 「そうそう。頼んでたことなんだけど」 「はい、心得ております」 采雲が頷いたとき、先触れの声に続いて漣基がやって来た。 「やあ、采雲、久しぶりだな」 「はい、随分とご無沙汰を申し上げました。漣基様にはご機嫌麗しく…」 「ああ、最高に麗しいぞ。何といっても今日限りで自由の身だからな」 そう言って本当にご機嫌な笑い顔を見せるその傍らには小さな朱那の姿があって、采雲と目が合うと、ぺこりとお辞儀をしてくれた。 「やあ、君が朱那だね」 背の高い采雲が、膝を折って朱那の目線を捉える。 それだけで朱那は、見知らぬ人への緊張を解き、ホッとしたように笑顔を見せた。 こうして、小さな自分の目線にまで降りてきてくれる人は、みんな優しい人なのだと経験が知っているからだ。 「采雲、よろしく頼む」 「畏まりましてございます」 漣基の言葉に一礼すると、采雲は朱那の手を引いて明るい窓際の椅子に座らせた。 何事だろうかと、朱那が不安げな顔を漣基に向ける。 「朱那、心配要らない。采雲はこの国一番の薬師なんだ。お前の身体を隅々まで診てくれるから、緊張せずに楽にして」 そう言いながら、朱那の傍らに膝をついて優しくその頬を撫でる漣基に、采雲が軽く目を瞠る。 翔凛から聞いてはいたが、聞きしにまさるベタ惚れ状態のようだ。 微笑ましいことこの上ない。 思わず緩んでしまいそうな自分の頬を引き締めながら、采雲は丁寧に朱那の身体を診ていった。 「問題ないようです。良い健康状態かと思います」 采雲の言葉に、漣基がホッと安堵の息をつく。 「確かに身体の発育は遅れていますが、まだ十五歳ですから、これから追いついてくるでしょう」 そう言って、思わず朱那の頭を『いい子だね』と撫でてしまい、すぐに『しまった』と苦笑いする。 どうも勘が狂う。漣基が誤解をしていたというのも無理からぬことだ。 確かにこうしてみていると、どうにも幼子に見えてしまう。 だが、朱那もまた、頭を撫でられてもニコニコとしているものだから、これはもう致し方ないかと采雲も曖昧に笑ってみせる。 そして、漣基は采雲の言葉に喜びを隠せない。 小さな朱那ももちろん可愛いのだが、もう少し育ってもらわないといつまで経っても罪悪感が拭えなくて困る。 それに、細くて小さな肢体は、ほんの少しの行為にも抱き潰してしまいそうで怖い…ということもある。 ただでさえ、小さな身体で一生懸命に漣基を受け入れてくれるのだ。少しでも早く、楽にしてあげたい。 だがそれもこれも、身体が育つまで我慢をすればいいだけの話ではあるのだが…。 それが出来れば苦労はない…と言ったところか。 「漣基様、大臣方がお待ちかねです」 侍従の声に、そろそろ刻限かと知り、漣基は朱那にまた後でな…と囁くと、名残惜しそうに出ていった。 続いて翔凛にも迎えの侍従がやって来て、広い部屋の中は采雲と朱那の二人きりになる。 参列するだけの采雲への迎えはもう少し後だろう。 采雲は朱那にもう一度向き合った。 小さな鼻と口、透けるように白い肌。 そして、理知的な光を湛える大きな瞳。 …不思議な既視感。 この愛くるしい顔には見覚えがないだろうか。 采雲はその記憶を高速で探る。 何年も前、さらにこの顔が幼くなったとしたら…。 ふと、記憶の一片に行き当たった。 だが、あの子は『金糸雀』で、この子は…。 「朱那?」 采雲の呼びかけに、朱那が口の形だけで『はい』と応え、首を傾げた。 「違っていたら申し訳ないのだけれど、君は、旅の一座にいたことはない?」 その問いに、朱那が目をパチッと見開いて、また『はい』と頷く。 そして朱那もまた、どこかで会ったのだろうか…と、その記憶を巡らせた。 だが、どうにも朧気でわからない。 「私は君に、ずっと西方の、薬草の里で会ったような気がするんだが…」 采雲が水を向けてくれて、朱那は先ほどまで使っていた筆を慌てて取った。 『西方の国、創雲郷の麓の、薬草の里で興行したことがあります。九年くらい前のことです』 その文字を読んで、采雲は『やはり』と手を打った。 「あの時、鈴瑠様に歌を教えたのは君だったんだ」 ――りんりゅ様? 『もしかして、若宮様の教育係だと仰っていたのは』 「そう、鈴瑠様だ。こういう字を書くのだよ」 采雲は朱那の筆を取り、さらさらと漢字を表した。 『とても綺麗なお名前ですね』 朱那がニコッと笑う。そして、また筆を走らせた。 『でも、どうしてご存じなのですか』 「ああ、それはね」 采雲が少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「あの時、鈴瑠様に随行していたのは私なんだよ」 その言葉に朱那は大きく目を見開いた。 『じゃあ、あの時お目に掛かっていたのですね』 「そう言うことだ。初めまして、ではなくて、久しぶり…だったんだよ、私たちは」 そんな風に言ってもらえると、とても嬉しい。 朱那は満面の笑みで喜びを表し、また筆を取った。 『先日、漣基様にもその話を聞いていただいたところなんです』 「漣基様に?」 『はい。ずっと忘れていたのですが、翔凛様にお目に掛かって思い出したんです。翔凛様と、その』 そこで少し考え込み、また筆を走らせる。 『鈴瑠様がとてもよく似ていらっしゃったので』 「そうなんだ。それは漣基様もお喜びだっただろう? 漣基様と鈴瑠様は大層仲が良かったからね」 何気なく発せられたその言葉に、朱那は不思議そうな顔を見せた。 ――漣基様と鈴瑠様が仲良し…って? 漣基はそんなことは一言も言わなかった。知っているとも一言も言わなかったし、『鈴瑠』という名前すら出ていない。 『漣基様と鈴瑠様はお知り合いだったのですか』 そう書いた朱那に、今度は采雲が不思議そうな顔を見せる。 「だって、朱那。鈴瑠様は翔凛様の教育係だったんだよ?」 その言葉に今度こそ朱那は驚いた。 そして、目を見開いたままの朱那に、采雲は『もしかして知らなかったのかい?』とやはり驚いたように尋ね返してくる。 その問いに、こくこくと頷くが、もういったい何がなんだかわからない。 そんな朱那に、采雲は『これは一からちゃんと確認せねば』と、朱那の前に座り直した。 「いい? 朱那」 朱那が頷く。 「漣基様が西方の王国の皇子様だったことは知っている?」 また朱那が頷く。西方の皇子様がこの国を救って下さったということは、誰もが知っていることだ。 「漣基様と翔凛様が叔父と甥の関係であられることも知っているね」 それも知っている。ここへ来てから知ったのではなく、これも民のほとんどが知っている事実だ。 「翔凛様の御父上は漣基様の従兄にあたられる方で、御母上は漣基様の姉上だった。だから叔父と甥なんだ」 それも理解出来るから頷く。 「そして、翔凛様の御父上は創雲郷の本宮様で、翔凛様は若宮様だったんだ」 これはやはり知らなかったようだ。朱那の表情があっと言う間に曇る。 ――漣基様…あの時どうして教えて下さらなかったんだろう…。 そんな朱那の気持ちを、采雲は正しく読みとった。 「漣基様は教えて下さらなかったんだね?」 情けない表情で朱那が頷く。 その表情があまりにも可哀相で、采雲は今にも泣き出しそうな朱那を優しく宥めながら話を始めた。 あの時の創雲郷はもうすでにこの世に存在しないこと。 翔凛はそこから民を連れて逃れてきたのだということ。 その時翔凛の父や、鈴瑠がどうなったのか…ということも、その後の漣基と翔凛の再会も、出来るだけ深刻にならないよう話したつもりなのだが、それでも朱那は涙を浮かべた。 『西方で、災禍の為に王国が一つ滅びたと言う話は聞いたことがあります。ただ、僕もあれっきり西方へは行かなかったので、それが創雲郷のあった国だとは全然知りませんでした』 そして、その滅びた王国こそが漣基の故国であったことも。 『漣基様も、お辛い思いを』 そこまで書いたところで、文字が涙で滲んだ。 いつも太陽のように光り輝いて生命力に溢れた漣基。 絶望の中にいた自分を救い、慈しんでくれる漣基。 そんな漣基も、辛く苦しい思いをしてきたのだと思うと涙が止まらない。 采雲は、声もなくしゃくり上げるその小さな肩をそっとさする。 この子は、なんと優しい子なのだろう。そして、とてもとても、漣基のことを想っているのだろう。 「ねえ、朱那。漣基様がお話にならなかったのは、きっとこんな風に朱那を泣かせたくなかったからではないかな」 優しくそう語りかけられて、朱那が泣き濡れた瞳をあげた。 その目元を柔らかく拭って、采雲は頷いて見せた。 「でも、朱那なら大丈夫だね。漣基様のお心を癒して差し上げられるに違いない」 それはもちろん確信だった。 漣基は持てる力のすべてで朱那を護っている。 だが、朱那はそこに存在しているだけで、漣基の心を包み込み、暖かく護っているに違いないのだ。 だが、朱那は『僕にそんな力はありません』と言わんばかりに弱々しく首を振る。 そんな様子すら微笑ましく思いながら采雲は、漣基と朱那の、この先の『末永い幸い』を強く祈り、そして確信していた。 だが、一つ腑に落ちないことがある。 漣基が朱那に創雲郷や故国のことを話さなかったということは、もしかして彼は、間もなくの旅立ちを朱那に告げていないのではないだろうかと。 これは翔凛に報告しておいた方が良いだろうかと考えながら、同時に別の疑問を解決すべく、優しい薬師の顔で朱那ともう一度向き合った。 朱那は確かにあの『金糸雀』だったのだ。 それはその名に相応しい、とてもとても美しい歌声で、創雲郷へ戻る道中でもずっと鈴瑠と『金糸雀』について語り合っていたくらいだった。 その『金糸雀』が声を失った訳は…。 「ねえ、朱那。君の喉のことを少し聞いてもいいかな?」 包み込むような采雲の暖かさに、朱那は頷いて筆を取った。 |