番外・前世編 「祈りの香、芳る郷」

【1】





 ………さま。
 ……翔凛さま。

「翔凛様?」

 いきなり側近くで呼ばれ、翔凛はびくっと肩を震わせた。

「うわっ……なんだ、采雲か。びっくりするじゃないか」

 そう言われても、困る。何度も呼びかけたのに、翔凛はぼんやりと窓から外を眺めたままだったのだから。


 少し乾いた心地よい風を多く取り入れるため、扉も窓も大きく開け放してある部屋は、遅い午後の日差しを存分に受け入れて、柔らかく暖かい。

 そんな部屋の、日よけ付きのテラスにしつらえた寝椅子に身体を預け、厚みのある織物で仕上げた抱き枕を抱えたまま、翔凛はまた一つ、ため息を零す。


「翔凛様、やはりお疲れなのではありませんか? 都では宰相として日々忙しくお過ごしと伺っております。 せめてこちらにおいでの時は、お里帰りと思し召してのんびりしていただきたかったのですが…」





 ここは、翔凛が災禍を逃れてきた民と共に造った『竜瑠』の街。

 すでに中心には寺院が建ち、采雲たちが大切に携えてきた薬草の苗や種をもとに広大な薬草園が作られ、街道からは若干離れているというのに、いつしか「祈りと癒しの郷」として、旅行く者たちが必ず立ち寄る街となっていた。

 そして『天空信仰』もまた采雲と民たちによって守られている。



 幸いな事に、ここ、東方の国はもともとこれと言った『教え』を持ってはいなかった。

 それが為に、先の宰相は当時横行していた呪術師もどきの占い師にそそのかされ、内乱を起こしたのだが。

 だから、王の漣基から法令が発せられたわけでもないのに『天空信仰』は民の意志で手厚く保護され、都からも何ら異論は聞こえてこない。

 祈りの声と祭壇に捧げられる香の芳り。
 ゆったりと流れる時間。
 穏やかな表情。

 そんな竜瑠の街は、創雲郷なき今、翔凛にとって『里』と言える場所である。

 だからみな、里帰り中の翔凛を放ってはおかない。

 特に流浪の一年間を共に送った民たちは、何かと用をつくっては翔凛の顔を見にやってくるのだ。

 だからこその采雲の言葉ではあるのだが、実際翔凛の気鬱はそんなところにあるわけではない。



「ううん、疲れてなんかないよ。ごめんね、采雲、心配かけて」

「それならば、よろしいのですが…、薬湯をお持ちいたしましょうか?」

 だがどうあっても、采雲には翔凛の微笑みに無理がある様な気がするのだ。



 宰相になってちょうど一年。

 相変わらず優しげで可愛らしい外見に反し、翔凛は十六歳にしてすでに名宰相と呼ばれ、国の内外に、父親譲りの統率力を発揮している。

 国情は安定しており、外交も円満。

 だからこそ、采雲には翔凛の気鬱が今ひとつ掴めない。

 もしかすると…と思うことは、一つだけあるのだが。




「大丈夫。あ、でも後でいいから薄荷湯を持ってきてもらえるかな」

 摘み立ての薄荷に熱湯を注いだものは、創雲郷にいた頃からの翔凛のお気に入りだ。

 鈴瑠とも、奥の宮殿の中庭でよく飲んだ。

 そのすっきりとした爽快な風味は、気分を落ち着けたい時…胸の奥に溜まった何かを一掃したい時にはもってこいなのである。


「承知いたしました。ちょうどよい頃合いに育った薄荷がありますので、それを持って参りましょう」

 一礼して采雲が退出すると、翔凛はまたぼんやりとテラスの外に視線を移す。

 その視線の遙か先、このあたりにしてはさほど高くないあの山を、一つ越えた向こうには都がある。





 ここへ来て二週間。

 いわば、休暇のような形で『里帰り』してきたのだが、翔凛はここ数日のうちに都へ帰る予定でいる。

 気鬱の原因は実はそこにあった。

 宰相としての公の日々は充実している。

 私的な時間も、年の近い側近や母のように慈しんでくれる女官長・柳蘭、バザールで出会って以来の仲良しの女官・華蘭たちに囲まれて申し分ない。

 だが、ただ一人、若干十六歳の名宰相の気を塞いでしまうような人物が王宮にいる。


「ゆ…」


 知らずその名を口から零しそうになって、翔凛は慌てて自分の口を塞ぐ。

 そして、誰もいないというのに辺りを見回して。

 翔凛はまた、抱き枕をギュッと抱きしめて寝転がる。




 こんな風に、気を張らずに過ごせた日々は本当に久しぶりなのだ。


 一年前、宰相に就任した日の夕暮れ、漣基と出かけた海岸への遠乗りから帰ってみると、自分の居室が移されていた。

 それまでは王の甥と言うことで、王宮内に部屋があったのだが、それがいつの間にか隣の王太子宮に、しかも、悠風の居室の隣に移されていたのだ。

 悠風は『王宮には公の部屋ばかりで、私室に使うには手狭な部屋しかなかったからな。ここなら『宰相の君』らしい設えのいい部屋が確保できる』と、言い張ったのだが。


 それ以来、翔凛は何かと気を張って生活を送ってきた。

 もちろん、宰相としての公の時間のことではない。
 公の時間に気を張っているのは当然の事なのだから。

 そうではなくて、本来なら気を抜いて良いはずの時間に更に気を張っているから疲れるのだ。

 その原因はやはり、悠風。

 出会った日から示されていた親愛の情はもはや、親愛の域を超え、翔凛は真面目に貞操の危機を感じているのだ。


 悠風が冗談や悪戯でやっているのではないのはよくわかる。
 だが、冗談や悪戯ならばまだ、笑ってすまされるのだ。

 翔凛にとってはむしろその方がありがたいかもしれない。


 むろん、悠風のことは好きだし、王太子として尊敬もしている。

 過剰な触れ合いにも、決して不快なものは感じないし、むしろ『親愛』程度の触れ合いならば気持ちがいいくらいだ。

 だが。

 悠風が求めているものの正体を知るのが怖い。

 もし、悠風が自分に求めているものが、本当に『親愛』や『友愛』ではない類の『愛』だとしたら…。
 

 どうしようもない身体の奥底の疼きを持て余し、ここのところ、翔凛は悠風のことばかりを考えている。

 それがどういう意味を持つのかに気付くこともなく。






「翔凛様、お待たせいたしました」
「あ、ありがとう…」

 必要以上に枕を抱きしめている翔凛に、采雲はやはり不安を覚えながらも、薄荷湯の注がれた椀を小振りの円卓にそっと置いて翔凛にすすめる。


「都が気にかかられますか?」

 二週間などあっと言う間だった。

 だが、国の重責を担う翔凛をあまり引き留めてもおけない。

「ん…」

 気にかかると言えばかかるし、かからないと言えばかからない。

 そして、それが本来あるべき姿からまったく公私逆転していることに気付くと、余計に気鬱が増す。

 だがここでそれを見せては采雲に心配をかけるばかりだ。
 そう思い、翔凛は笑顔を見せる。

 なかなか帰ってこられないことを采雲が寂しがってくれるのが、嬉しくて、切ない。


「ね、采雲」
「はい」
「これからは、たびたび帰れるようにするよ」


 都には王太子である悠風がいる。

 漣基は相変わらず国中を走り回っているが、それでも都を空けっぱなしという訳ではない。

 だから、翔凛とて帰ろうと思って帰れないわけはないのだ。

 ただ、往復に一ヶ月弱を要してしまうのが難点だが。

 しかしその道すがらも、街道や町々の視察も兼ねているのから決して無益な道のりではない。


「ですが、それは王太子様がなかなかお許しにならないのでは?」
「え…?」

 思いも掛けず、采雲の口から飛び出たその名に、危うく翔凛は椀を取り落としそうになる。

 そんな様子に、采雲は『たった一つの心当たり』が、あながち外れてはいないのではと思い至る。 

「いえ、その…翔凛様をお迎えにいらっしゃるほどですから…」

 今、采雲は何と言った?

「采雲…」
「はい」
「…迎えって…何?」

 自分の聞き間違いか、采雲の言い間違いを、翔凛は期待していたのだが…。

「王太子様は今夕にはご到着かと」

 その言葉に、翔凛は枕を抱えたまま寝椅子から飛び起きた。

「…ちょ、ちょっと待った。 どうして悠風が? いつそんな話が? だいたい僕は何にも聞いてない!」 

 翔凛が何も知らないと言うのは、采雲としても意外な言葉ではあった。


「二週間前、翔凛様ご到着の折りにいただきました王太子様からの親書にそうありましたが?」

「し、親書に?」

「はい。親書の最後に『二週間経ったら私が迎えに行くので、それまで翔凛をよろしくお願いする』と」

 何でしたらお目にかけますが…と続けられたが、まさか采雲が冗談だの嘘だのを言うわけもなく、翔凛はそれには黙って首を振った。


「迎えに来るだって…?」

 悠風の考えていることがわからない。


 だいたい、翔凛自身にも警護だの何だのと人が付いていて、宰相の君の里帰りの一行は絞りに絞っても十人もいるのだ。

 しかも芳英を始めとする精鋭ばかり。
 なのになぜこの上ご丁寧に『お迎え』まで来るというのだ。

 それに、王太子の旅ともなれば、宰相である翔凛よりもさらに随行の人数は多いはず。

 そんなものと一緒に帰り道を行くだなんて…。


「冗談じゃない!」

 翔凛がそう声を上げた時…。

「翔凛様! 采雲様!」

 駆け込んできたのは、若き僧・栄雲。幼き日からの翔凛の遊び相手だ。

「どうした? 栄雲」

 穏やかに尋ねる采雲と、正面に立つ翔凛を交互に見、栄雲は大きく息を整えると一気に言った。

「王太子様が、ご到着です!」

「確かに冗談ではなかったようですね」

 飄々と言う采雲が少し憎らしい。

 だが、そんな翔凛の、尖らせた可愛い唇が「ぽわん」と開かれた。

 大きく開け放たれた扉の向こう、真っ直ぐに延びる回廊の向こうからやってくるのは…。


「ゆ、悠風…」


 街道沿いに時折起こる砂風を避けるために、旅人が必ず纏う外布を翻し、その名の通り悠然と風のように軽やかにやってくる、王太子。

 相変わらず細身で長身の美人だが、この一年で急に大人びたような気が、翔凛にはする。

 …視線が絡んだ。

 翔凛の胸が一つ、大きく音を打つ。


「翔凛!」


 悠風が駆けてくる。