番外・前世編 「祈りの香、芳る郷」

【2】




 
「翔凛、会いたかった! 元気そうだな」

 これでもかというくらい満面に笑顔を溢れさせて悠風が言う。

「会いたかったって…。たった一ヶ月じゃないか」

 そのあまりに嬉しげな表情を目の当たりにして、翔凛はつい『ぷいっ』っとそっぽを向いてしまい、挙げ句の果てに『僕は悠風のいない『ここ』でのんびり楽しんでいたんだ』とまで言い放ってしまう。 

 決してそんな言葉を吐きたい訳ではないのに。

 だがその頬が紅潮しているのを、もちろん悠風も采雲も見逃してはいない。

「お前なぁ…。一ヶ月と言えば一年の十二分の一だぞ。そんな長い期間を翔凛と離ればなれだなんて、私には耐え難いことだがな」

 だからこそ、年長の余裕でかわしてもやれる。



「王太子様、お久しゅうございます」

 采雲が膝を折った。

「采雲、久しぶりだな。息災そうでなによりだ」

「有り難う存じます。王太子様にもご機嫌麗しく…」

「せっかくだが固い挨拶はなしにしよう。都の作法はこの穏やかな街には似合わないからな」

 いっそ美人ともいえる笑みをその容に乗せて、悠風は采雲の言葉を遮った。

「そうおっしゃっていただけますと、嬉しゅうございます」

 采雲はわずかに衣擦れの音を残し、立ち上がる。立つと二人は同じくらいの背格好だ。
 心持ち采雲の方がしっかりとした体躯だが。



「翔凛をなかなか帰してやれず、すまないな」

 視線を合わせ、悠風が心底申し訳なさそうに言う。

「だがすでに都では、翔凛なくては立ち行かない事柄も多くてな」


 しかし、それは采雲にとっては嬉しいこと。

 鈴瑠の元を離れたときから、翔凛の教育係は采雲になった。

 厳しい流浪の途中でも、折に触れ、様々なことを話して聞かせ『自ら考える』と言うことの大切さを繰り返し教え、そして実践させてきた。

 それが今の翔凛にとって、少しでも糧となっていたことならば、こんなに嬉しいことはない。



「お心遣い有り難う存じます。ですが、翔凛様のご活躍はわれらにとって何よりの喜びでございますので」

 穏やかにそう告げる采雲。

「そうであったな」

 そんな采雲に、悠風もまた、穏やかに微笑む。

「采雲、数日だが世話になる。よろしく頼む」

「何もない里ではございますが、どうぞごゆるりとお過ごし下さいませ」

「そなたには相談したい話もたくさんあるのだが、それはまた夕餉の時にでもしよう」

「はい。畏まりました」

「翔凛、薬草園を散策に参ろう」

「え〜」

 翔凛は不服を声に露わにするが、采雲にはどうも本気で嫌がっているようには見えない。

「え〜、じゃない。嬉しそうな顔してそんなこと言うな」

 それはやはり、悠風にもわかっているようで、嬉しそうに額を小突くさまは楽しんでいるように見える。

「だ、誰が嬉しそうなんだよっ」
「さ、行くぞ」

 有無を言わさぬ調子で、悠風は翔凛の腰を抱き寄せた。

 こうしてみると、采雲が以前二人を見たときよりも、体格の差は大きくなっているようだ。

「あ、こらっ、悠風っ、離せってばっ」

 暴れながらも引きずられていく翔凛。

「どうぞごゆっくり」

 采雲の声に、悠風が後ろ手を振って答えた。






 翔凛は相変わらず鈴瑠に瓜二つだ。

 創雲郷にいたころは、同じ年頃の少年僧よりも体格がよく、これは父親譲りだと思われていたのだが、創雲郷を出てからの成長はあまり芳しくなく、成年式以降は体つきまで鈴瑠に似てきたような気がする。

 違う点を強いて上げるとすれば、身長だろうか。
 鈴瑠よりも少し、翔凛の方が背が高いかもしれない。
 あとは、髪の色くらいか。

 鈴瑠は漆黒の髪を持っていたが、翔凛のそれは濃い茶色をしている。

 だが、それも強いてあげれば…と言う程度のものでしかない。



 そう言えば、鈴瑠もよく竜翔にからかわれ、頬を染めて抵抗していた。

 そのすべては、恋人同士の睦言であるのだが。


 采雲はふと、遠ざかる二人の背中に、今は亡き恋人たちの姿を重ねてしまう。

 翔凛の愛はきっと父親譲りだ。

 最愛の人に出会ったならば、最後までその愛を貫き通す。

 いや、だがそれは、母譲りでもあり、鈴瑠譲りでもあろう。

 案外その時は近いかもしれぬ…と、采雲はなんとも複雑な心境に胸を押さえた。


 
 


 寺院裏手にある広大な薬草園を抜けるとやがて灌木の茂みへと入る。

 灌木とは言っても、かろうじて日差しを遮る程度の高さがあるので、真昼でも涼しい散歩道だ。

 そしてその道は緩やかに上り、暫く行くと、小高い丘へ出る。 

 そこは『石窟』。

 堅固な岩石の洞窟はいくつも口を開けており、遙か昔に人間が居住していた痕跡をあちらこちらに残している。



「悠風…どうしてここを?」

 悠風がこの場所を知っているとは思わなかった。

 ここは、翔凛たちが初めてこの地に立った頃、雨風や夜露を凌いだ場所なのだ。 

 そして、彼らはここを拠点に、今の街を創った。



「…ああ、以前ここへ立ち寄ったとき、采雲に教えてもらったんだ」

 言いながら、むき出しの岩を背もたれに、地面へ座り込む。

 悠風は翔凛が宰相になる少し前に、視察と称してここを訪れている。



「おいで、翔凛」
「…え?」

 反射的に抗う姿勢に入ったが、その前に繋いだ手を引かれた。 

 そしてそのまま、悠風の身体を背もたれにして座らされる。


 身体をまるごと悠風の手足に囲まれ、翔凛は慌てるのだが、悠風は長い手足を使って翔凛をがっちりと閉じこめた。

「暴れるな、翔凛。何もしない」

 そう告げた声は、穏やかで…。


 翔凛とて、そう言われてしまえばそれ以上抗うのもかえって気恥ずかしく、少し身を固くしながらも大人しく腕の中に収まった。

 悠風はやんわりと翔凛を閉じこめたまま、何も言わない。

 街のざわめきも届かないここでは、話すものがいなければその静寂は増すばかりで、翔凛の耳にはもう、わずかな悠風の息づかいと、少しずつ早まってくる自分の鼓動しか聞こえない。

 やがて陽が濃い橙色に変化し始める。





「…丸い」

 ポツンと悠風が言った。

「え?」

 何のことだろうかと、翔凛はその視線を巡らせる。

「以前見たときも思ったが、ここの夕陽は都で見るものと形が違う」

 と言うことは、『丸い』のは夕陽のことだろうか?

 しかし、翔凛が知る限り、都で見る夕陽が角張っていることなどない。



 天にある陽は唯一のもの。

 この地上の生きとし生けるものは皆、同じ陽を見ているのだと教えてくれたのは鈴瑠だ。



 内心で首を傾げている翔凛に、背後からまた、悠風の言葉がぽつり、ぽつりと響いてくる。

「都で見る夕陽は、少し歪んで見える」

 そう言えば、初めてあった頃に比べると、悠風の声は随分と艶やかに、そして少し低くなっている様な気がする。

「だがここから見る夕陽は見事な円を描いている」

 見事な円…といわれた夕陽は、静かにその道行きを山向こうへと取っている。

「そう言われてみれば…」

 そう言う目で見たことがないために、気がつかなかったのだろう。

 今見る夕陽が全くの円を描いていると言うよりも、確かに都の夕陽は落ちるときに歪んでいるような気がする。  


「でも、どうして…?」

 問うても答えは期待できない。

 そう思いつつも口にした翔凛に、悠風は一度『さぁ…』といい、しかしまたすぐに口を開いた。

「都はここよりも空気が湿っているからな…」

 それが定かな理由かどうかは、もちろん、翔凛にも悠風にもわからない。

「ここの空気は透き通っている…」

 誰に言うでもない様子で落ちる言葉。

 その透き通った空気を突き抜けて、眩しいほどに二人は照らされる。



「悠風…」
「何だ?」
「どうして迎えに来たの?」

 ここでこんな風に過ごす時間は悪くない。
 いや、むしろ、穏やかに心地よい。


「そりゃあ早く翔凛に会いたかったからに決まってるじゃないか」

 何だ今更…と続ける悠風の言葉を、翔凛は遮った。

「けれど、さっき采雲に相談があるからって」

 悠風の一番大切な用件はなんなのか。
 そんな些細なことが気になる。

「ああ、そうだな。確かに采雲には大事な相談がある」
「なんだ…。じゃあ、ついでじゃないか…」

 ついポツンと零した言葉を、もちろん悠風が聞き逃すはずがない。

「ああ、ついでだな」

 そして、そう言った途端、ギュッと身を固くした翔凛の反応は、もう悠風にとっては予想の中の事だ。

「そ、それだったら『迎えに来た』ことになんかならないじゃないか!」

「どうして?」

「だって、采雲と相談があるから来ただけで…っ」

「あのな、翔凛」

 悠風が後ろからギュッと、固くなった翔凛を抱きしめる。

 降ろした黒髪が、さらりと頬を撫で、何故かそこが熱を孕む。

「ここはお前の里だ。采雲との相談事だけならば、お前に任せればそれですむことだろう? なぁ、宰相の君」

 私的な時間……しかも、こんなに身体が密着した状態で『宰相』などと呼ばれると、内に積もった『羞恥』が一気に燻り始める。

「ついで…は、相談事の方だ。私はお前を迎えに来た。大事な大事な、お前を…」

 固くなった心と身体を解すように、悠風の掌はゆっくりと、暖かく翔凛の腕や肩を撫でさする。



 本当ならば、最初から同行したかったのだ。

 だが、政務の都合もあり、また、翔凛自身を休ませると言う意味からも、それは断念したのだ。

 だからしばしの時を待った。
 そして追いかけてきた。

 帰りを待つのではなく、この地で逢いたかったのだ。

 それは、こんな風に、この愛しい身体を抱いて、石窟からの夕陽を眺めてみたかったから。

 そうすることで、少しでも翔凛の過去に近づいてみたかったから。

 自分が知らない翔凛の過去。その過去の記憶を少しでも共有したい。

 叶うことなら、創雲郷の記憶も、父母の記憶も、そして……鈴瑠の記憶も……。



「翔凛……」


 首筋に顔を埋め、名前を呼んでみる。

 続く言葉は、今は飲み込む。

 できることならば、二人の新しい関係をこの場所で築きたい。 

 これから先の、翔凛の記憶のすべてに、自分が在るように。