番外・前世編 「祈りの香、芳る郷」

【4】





「翔凛…そんなに私のことが嫌いか」


 …嫌いだなんて言ってない!

 だがそんな翔凛の声は、彼の内からは漏れてこない。

 二人の間には、翔凛が突き飛ばしたままの、中途半端な空間が横たわる。

 その気になれば手を伸ばせるのに、しかしそれをあっさりと拒んで身を翻すことの出来る距離……。




「よいか、翔凛」

 悠風が、表情を変えないままに話し始める。

「私はお前しか愛さない。お前しか欲しくない。 それは、たとえお前が私を受け入れようが受け入れまいが、変わらないことだ。 お前が私を生涯拒絶して受け入れないと言うのなら、私は側で思い続けるだけだ。 受け入れられないからと言って、お前を諦めて妃を娶るようなことはしない」

「悠風…」


 考えてみれば、面と向かって妃を娶らないと宣言されたのは初めてだ。

 遠回しに告げられたことは、あったような気がしないでもないが。


「それと、もう一つはっきりと言っておく。 私が妃を娶らないからと言って、お前に文句は言わせない。 例えそれが宰相の意見であってもだ。 愛してもいない者を抱くなどと、お前には許せないことなのだろう? ましてやそれが、世継ぎを儲ける為だけだなどと、以ての外なのだろう?」

「でも…!」

 悠風は自分の言っている事の意味が分かっているのだろうか?
 そして、己がいる、その立場の意味も…。

「私はただ『愛する者しか抱かない』と言っているだけだ。 それこそお前が理想とする愛の形とやらだろう? それならば、私はお前に誉められこそすれ、文句を言われる筋合いなど全くないはずだ」


 相変わらず硬い表情のままの悠風。
 だが今の翔凛に、そんな悠風の言葉ははまるで『駄々』をこねているようにしか聞こえない。


「この国はどうするつもりなんだよっ。跡を継ぐ者がいなければ…」

 悠風は王太子なのだ。
 それは今更どうすることもできない、厳然たる事実。


「翔凛」

 しかし、その口調が激しさを増していく翔凛に反するように、悠風の言葉はさらに冷静さを帯びていく。

「国は、本当に力があるものが治めればいい。 誰よりも逞しく力強く、そして優しい者。 血筋のみに頼っていれば、やがて国は滅ぶ。 だから王に世継ぎがないのであれば、臣下の者の中…あるいは国中の民の中から次の王に相応しいものを探せばよいのだ」


 それは確かに正論だ。

 だから、統治者の家系に連なるものは、そのための教育を受ける。

 翔凛が、いずれ本宮となる『若宮』として、厳しく育てられてきたように。

 だが…。


「それとも何か? 翔凛は人を見る目に自信がないか? 自身の目で、そのような者を見極める力はないというか?」


 王太子の立場から諭すように言われても、宰相…即ち臣下である身に振られるべき話ではないはずだ。

「ど、どうして僕が…。 それを見極めるのは、いずれ王になる悠風の役目だろうっ?」

「私はもう、世継ぎを決めている」

「…え?」

 思いもかけない返答に、翔凛は狼狽えた。

 世継ぎがいる…。

 正妃はおろか、寵妃もいないはずの悠風。
 なのに、いったい何処にそんな存在が…。


「ま、まさか悠風…。 もう、どこかに…」

 自分の知らないどこかで…。
 自分が知らない悠風を知っている者がいる…?

 思ったことをそのまま口にしてしまった翔凛の顔が、見る間に青ざめていく。


「翔凛…。その反応はなんだ?」

 いつの間にか半歩だけ間合いを縮めてきた悠風に、頬をスッと撫でられ、翔凛は身を震わせる。

「私は愛する者しか抱かないと、先ほど言ったばかりだろう」

 悠風の手はそのまま翔凛の肩を滑り、背に回り、そしてその腕の中に抱き寄せる。

「私は世継ぎをお前に決めている。 だから、その次を決めるのはお前の役目だ。 生涯私を拒絶し、他に女性を愛して正妃に迎え、血の繋がったものに王位を譲るというのなら、それも、良し…」

 言葉は、軽く触れあわせた悠風の胸から翔凛の耳へと直に伝わる。
 そして翔凛はその言葉に、もう一度身を震わせた。


 自分が誰かを愛して…。

 誰を? 悠風でない誰か…を?


 翔凛の思考はすでに、先に告げられた『王位の継承』という重大事項を綺麗に飛ばしている。

 それよりも、その後の言葉の方が心に残っていると言う事自体が何を意味するのか、気付くほどの余裕もない。



「いい…の?」

「翔凛?」

「それで…いいの?」

 何もかもが理不尽に思えた。


「僕が、悠風以外の誰かを愛しても、悠風はかまわないのっ?! 平気でいられるのっ?!」


 抱き寄せられたまま詰め寄る翔凛。


「お前、言っていることが滅茶苦茶だぞ」

 見上げてくる瞳が、何かに縋ろうとしているように見えるのは、己の都合のいい解釈なのだろうか。


「お前に拒絶された私が、お前をいったいどうすることが出来る? 他の誰かを愛することを禁ずるか? お前が私以外の誰も見ないようにその目を潰し、鎖で繋ぎ、この腕の中にずっと閉じこめるか?」

 だが、何もかもを理不尽に感じたのは、悠風も同じだった。


「それでお前の愛が得られるというのなら、……とっくにやっている」

 吐き捨てるように落ちた言葉は、音をたてて翔凛に食い込んだ。


「……じゃあ、いつまでも待つって言うの?」

 その答えは当然『肯定』のはずだった。
 しかし。

「待つとは言っていない」

 あっさりと吐かれた否定の言葉は、それもまた、深く翔凛に食い込む。

「待つと言う言葉を吐いて、お前を縛るつもりは毛頭ないからな。 だいたい、何度も言うように、待つとか待たないと言う問題ではない。 私はお前を、お前だけを愛している。 生涯ただ一人と決めている。 それだけだ。 それ以外に何もない」

「そんなの…」

 ずるい…。


 それは十分に束縛ではないのか。

 それも、『自由』という仮面を被った『束縛』。

『待つ』と言われたのなら、いつまでも待たせてやると言い返せる。

 だが、今自分は何と言い返せばいいのだ。

 勝手にしろ…とでも言うのか?
 そして、ずっと背を向けていればいいのか?



「翔凛」

 いつしか力を込めて抱きしめていた悠風の拘束が、緩む。

「お前が悩むことなどなにもない。 私はただ、お前の愛を生涯得られないと言うのなら、せめて側で見つめることくらいは許せといっているだけだ」


 あくまでも、これは己の気持ち、己の愛。


「お前が他の誰かを愛しても、私は耐えてみせる…から」

 そう言った悠風の頬を、本人の自覚なく涙が伝って…落ちた。

「ゆ…ふ…」

 初めてみる悠風の涙。

 信じがたい光景に呆然と立ちすくんでしまった翔凛に、悠風は儚げに微笑んで見せ、背を向けた。


「すまなかった、翔凛。 追いつめるつもりはなかったのだが…」

 いつも姿勢の良い長身が、今夜は何故か小さく見えて…。


「おやすみ…」

 扉は静かに閉じられた。