番外・前世編 「祈りの香、芳る郷」

【5】





 残された翔凛は、おぼつかない足取りで寝台へ向かった。

 思いきり身体を投げ出してみても、もちろん気は晴れない。 


「…鈴瑠…僕は、どうしたらいい…?」

 呟いてみても、答えが返ってこようはずもなく。





 今夜は眠れそうもない。

 幸い、夜になっても風は穏やかだ。

 翔凛は夜着の上に上着を重ね、そっと部屋を出た。

 回廊を巡り階段を下る間も、緩やかな風は薬草園の草々の香を運んでくる。

 しかし、今の翔凛にはそれすらも心落ち着かせる材料にはならず…。





「…芳英」

 翔凛は、月明かりと小振りの松明だけがほんのりと様子を照らし出す中庭に、その忠実な武官の姿を見つけた。

「翔凛様、このような時間にいったい…。何かございましたか?」

 街の中、まして寺院の中は安全だが、翔凛の尋常ならざる表情に、芳英はサッと顔色を変えて駆け寄る。

「…う、ううん、何でもない。ただ、ちょっと風に当たりに来ただけ。…芳英は?」

「私は身体を冷ましております」

「もしかして…」

 武官が身体を冷ますのは、剣や格闘の修練のあと。
 酷使して熱をもった筋肉を冷やすのだ。


「…こんなに遅くまで、やってるんだ…」

 あどけない表情で見上げてくる翔凛を、芳英は思わず抱き上げ、そして膝に乗せて自らも石段に腰を下ろす。

 思えばこんな風に――まるで幼子をあやすように――翔凛を扱うのは久しぶりのことだ。

 特に宰相となってからは、このような触れ合いはほとんどなかった。



「いつもはもう少し早く終わっておりますよ。今日はたまたま…悠風様付きの武官と久しぶりに修練をいたしまして、いつもに増して気合いが入りました」

 楽しそうに言うから、翔凛もつい、つられて微笑みを漏らす。



「さて、翔凛様には不眠の虫でも付きましたか?」

 言いながら、翔凛をすっぽりと腕の中に閉じこめる。

 流浪の頃、緊張や疲労の度が過ぎて眠れない夜、いつも芳英がこうやって抱きしめていてくれた。

 あの頃は、柔らかい寝台で眠ることなど出来なかったが、そんなものよりも、芳英の腕の中は何処よりも居心地良く、安心して眠れる場所だった。


 芳英は、翔凛が自然に自分にもたれかかるように角度を変えて抱き込む。

 翔凛が眠れない理由を、芳英はだいたい察していた。

 昨夜までこのようなことはなかったのだ。

 とすると、原因は今日到着した王太子・悠風。



「…うん…眠れそうもなくて…」


 芳英の腕の中なら、こんなにも素直に心根を吐き出せるのに…。






 芳英はそんな翔凛を暫くふわりと抱きしめていたが、ふと思い出したように、鈴瑠の名を出した。


「…鈴瑠様も…」

「鈴瑠?」

「はい。奥宮殿の中庭で、このように本宮様の膝の上でまどろんでおいでだったな…と、今思い出しました。 深夜の警護中に時折お見かけしたのですが、それは安らかなお顔でいらしたのを今でもはっきりと浮かべることが出来ます」

「そういえば………」


 創雲郷の最後の一年間くらいだったろうか。

 鈴瑠は、創雲郷やその周囲の里で起こるどんな些細なことにも過敏な反応をしていた。

 今思うに、あれは来るべき終焉に向かっての緊張の時期だったのではないだろうか。


 そして、夜半、疲れた様子なのになかなか床につこうとしない鈴瑠。

 そんな鈴瑠が翌朝、前夜の疲れも見せずに晴れやかな顔をしていたのは、きっと父が抱きしめて眠らせていたからなのだろう。


「鈴瑠と父上は、ずっと愛し合ってきたんだね…。最初から…最後まで」


 二人が出会ったのは、まだ子どもの頃だったと聞いてはいたが、父はきっと初めてあった日から鈴瑠に惹かれていたに違いない。

 そして、鈴瑠もまたそんな父を受け入れ、ずっと幸せで…。

 無意識に、現在の自分のあやふやな境遇を、幸せな二人に置き換えて、翔凛は知らず陰鬱なため息を漏らしてしまう。

 芳英はそんな翔凛を柔らかい眼差しで包み…。





「成年式の夜…」

 ポツッと漏れた言葉に、翔凛は芳英を見上げた。

「奥宮殿の祭壇の間に、賊が侵入しました」

 まるで物語のように、

「目的は、側近の誘拐と…本宮の暗殺」

 淡々と、

「賊が目的を達することはありませんでしたが、本宮を助けようとした側近は、賊の大刀に身体を貫かれ、テラスから断崖へ落下。命を落としました」

 それは語られて…。



「…な、何のこと…?」

 いきなり始まった陰惨な物語に動じたのか、尋ねる声が震えている。

 だが、そんな翔凛にかまうことなく、芳英は言葉を綴る。



「私は鈴瑠様が成年される前……鈴瑠様が本宮に入られると正式に決まった時からずっと、鈴瑠様のお側に遣えて参りました。 鈴瑠様は成年式をもって本宮様の第二の側近となり、臣下としては泊双様に次ぐ地位に上がられることになっていましたから、成年式直前には警護の数も増やされ、備えは万全だったはずでした。しかし…」


 遠くを見ていた芳英が、項垂れた。


「あの夜…私は鈴瑠様をお守りすることができなかった…」


 翔凛は、瞳を大きく開いた。

 ではやはり、大刀に身体を貫かれ、命を落とした『側近』というのは鈴瑠のことだと…?

 いつの間にか、震え始めた掌は芳英の衣の裾を掴んでいる。


「…でも…でもっ、鈴瑠は僕の側にずっと…!」

 七年前、創雲郷の大門で別れるまで、鈴瑠はずっと自分の側にいた。

 必死で言い募ろうとする翔凛の肩をそっと抱き、芳英は頷く。


「鈴瑠様が創雲郷にお戻りになったのは、それから三年ほどの後。翔凛様が二歳におなりになった頃でした。 その時は、酷い怪我で下流の国にまで流されてしまったために、帰郷にそのような年月を要したと説明されました…」


 確かに鈴瑠は自分が生まれる前、ほんの一時期創雲郷を離れていたと聞いたことはあったが、まさかそのような理由があったとは夢にも思わなかった。

「私たちは、鈴瑠様のお帰りをそれは喜びました。 ですが、鈴瑠様と本宮様は以前のように視線を交わされることも、微笑み合われることも全くありませんでした。 それどころか、お二人は傍目にもはっきりとわかるほど避け合うようになられ、日に日に憔悴して行かれたのです。…それは、見ている私たちの胸が潰れてしまいそうなほど痛ましい光景でした」

「う…そ」


 あれほどまでに仲睦まじかった二人が?

 時には一人息子と取り合うほど鈴瑠に執着していた父が?

 昼間の教育係の顔など何処にも見つけることの出来ないほど、甘やかに寄り添っていた鈴瑠が?


「…なぜ? 理由はっ?」

 芳英からの答えは簡単に返ってきた。

「鈴瑠様が、天空様の御使いだったからです」

『天の御使い』
 その懐かしい響きに、少し、気持ちが凪いだような気がしたのだが…。


「あれほどまでの深手を負いながら、鈴瑠様が再び創雲郷へ戻ってこられたのは、鈴瑠様が天空様の御使いであったからに他なりません」

「…芳英も知っていたんだ…」

 深く頷く芳英。
 しかし、続く言葉はさらに翔凛に衝撃をもたらせた。

「天空様の御使いには…地上での愛は許されないのだそうです…」

「…え…?」

 許されない?

「鈴瑠が…?…父上と……」

「…そうです。天空人と地上人…お二人の愛は、許されないものだったのです」

「で、でもっ、二人はあんなに仲良くて、あんなに愛し合って…っ」

 翔凛が声を荒げても、芳英は何も言わず、ただその瞳を真っ直ぐに見つめるだけ。


「……じゃあ、鈴瑠と父上は…」

 声が掠れる。

「鈴瑠様は禁を犯すことによって本宮様に災いが及ぶことを恐れ、距離をとられていたのです。しかし本宮様は、すべてを承知の上で、鈴瑠様を求められました。 …お二人は、そのお心のみを深く結ばれたのです」

「…そ、んな……」

 あんなに抱きしめ合っていたのに。
 あんなに口づけを交わし合っていたのに。

 二人は一つになることなく、逝ったというのか…。



 身体が震えだしたのは、もちろん夜風のせいではない。

 そんな翔凛を、芳英は太く暖かい腕でしっかりと抱きしめる。

 その震えすら包み込むように…。


「すべて、創雲郷を発つ前夜、鈴瑠様が私と采雲殿にだけお聞かせ下さったことです。 話し終えて鈴瑠様は…『すべてを託します』と仰いました…。 そして…」

 芳英は翔凛を抱きしめ直した。


「将来、翔凛様が何かに迷うときが来たら、話して聞かせて欲しい…と」



 今、鈴瑠の心は翔凛に届いただろうか?

 翔凛の大きな瞳に涙が盛り上がる。



「…それでも、鈴瑠と父上は…幸せだったの…?」

 芳英が柔らかく微笑んだ。

「深い想いで結ばれた魂ならば、たとえその結末がどうであっても、それは、永遠なのです」

 流れ始めた涙は止めどなく頬を伝う。

「翔凛様。人の想いは真実でも、時として状況はそれを無惨に引き裂きます」

 芳英から微笑みが消え、眼差しが力を帯びる。


「愛することを躊躇ってはいけません」






 芳英に抱かれたまま、翔凛は自室へ戻った。

 おやすみなさいませ…と上掛けを掛けられ素直に目を閉じる。

 真っ暗になった視界に浮かぶのは、悠風の笑顔、そして…初めて見た涙。


 鈴瑠と父は、身体を結べないまま、心だけを深く繋ぎ、若くして世を去った。

 もしも今、自分と悠風に同じ運命が降りかかってきたとしたら…。

 自分は心すら繋げないままに、あの涙だけをこの記憶に抱いて逝くというのか。



 ……こんなに…愛しているのに……。