番外・前世編　「祈りの香、芳る郷」

【６】

目を閉じたものの、ほぼ一睡も出来なかったと言っていい朝。 　だが、身体に疲れは残っていても、翔凛の心は温もっている。 　眠れなかったついでに、夜明けと共に石窟に上がってきた。 　今日も天気は良さそうだ。 　しばし空を眺めていると、見下ろす街のそこここから細い煙が上がり始める。 　朝餉の支度と、祈りの香。 　竜瑠の街の一日が始まる。 「翔凛」 　いつの間にやってきたのか。 　だが、かけられた声は、やはり少し小さくて。 「悠風…おはよう」 「…あ、ああ、おはよう」 　昨夜、別れ際の様子からは思いもつかないほど明るく優しい挨拶の声に、悠風は戸惑う。 「…朝の香は、夕べの香とはまた違うんだな」 　だから、漂ってくる芳りに、気まずい思いの片棒を担がせてみる。 　だが、やはり翔凛はいつになく明るい声で答える。 「うん。朝の香は、夕べの香より爽やかな芳りに調合してあるって聞いてる。一日の始まりだからね」 　こんな翔凛は久しぶりだ。 　悠風がことあるごとにその想いをぶつけるようになってから、翔凛はいつもどこかに緊張を漂わせていたから…。 「ねえ、悠風」 　そしてにこっと笑う翔凛は、やはりとんでもなく可愛くて…。 「今日、夕べの祈りの時間に誘ってもいい？」　 「え？」 「祭壇に、夕べの香を捧げる時に、悠風にもいて欲しいんだけど」 「…あ、ああ。もちろんだ」 　悠風が翔凛の誘いを断るはずもない。 　まして、この地の人々にとって、もっとも聖域とされている寺院の中の祭壇の間に誘われたのだ。 「じゃ、夕方にまたね」 　その態度の真意を計りかねて立ちつくしている悠風に小さく手を振ると、翔凛はあっという間に岩の道を下り、灌木の中へと姿を消してしまった。 「…おいっ、翔凛っ！」

翔凛が姿を消した。 　朝、石窟で『じゃ、夕方にまたね』といって一人で帰ってしまってから姿が見えないのだ。 　悠風は、朝餉もそこそこに翔凛を探し回った。 　翔凛は朝餉に席に現れなかったのだ。 　そして、そのことについて采雲も何も言わない。 　もう一度石窟にも行ってみた。 　翔凛の部屋は何度も訪ねた。 　薬草園にも中庭にもいない。 　街中を武官たちに探させたがやはりいない。 　芳英に聞いても知らないと言うし、いないと聞いて慌てる様子もみせない。 　必ず側にいるのが己の役目だというのに。 　悠風は昼過ぎ、やはり昼餉にも現れなかった翔凛に耐えかねて、采雲に問いただした。 「翔凛は何処へ行った？　これだけ探しても見つからないとは…」 　だが、采雲は両手にたくさんの苗を抱えたまま首を傾げる。 「さぁ、どちらへおいででしょうか」 　とぼけているのは手に取るようにわかる。 　翔凛はこの国の宰相だが、采雲たちにとっては主君。 　その主君が朝餉にも昼餉にも姿を見せないと言う事態を、のほほんと見逃すわけはないのだ。 「采雲…何を隠している？」 　はぐらかされて、やや剣呑になった悠風の様子に、采雲は穏やかに微笑んで見せた。 「夕べの祈りの時間にお約束なさったのでしょう？」 　…ほら。采雲は知っているのだ。 「その時お会いになられるではありませんか」 　それはそうなのだが。 「信じてお待ちになればよろしいのですよ」 　僧というものは、やはりその語り口に何か秘密があるのだろうか。 　側近や武官に同じ事を言われても、きっと納得できなかったに違いない。 　だが、采雲の口調には思いもよらないほどの説得力があり、そう言いきられてしまうと、もはや悠風には返す言葉がなかった。 　そして、その頃翔凛はすでに祭壇の間にいた。 　その場所こそ、今は無き創雲郷の精神が息づく場所。 　特にその最奥。 　数段高い祭壇前は、翔凛と采雲しか立ち入れない彼らの聖域…。

夕刻。 　今日も限りなく真円に近い夕陽が落ちていく。 　結局悠風は、その後ずっと滞在している客間にいた。 　翔凛に何か考えがあるのなら、自分も心落ち着けてその時を待とうと思ったのだ。 　しかし、翔凛はいったい何をしようと言うのだ。 　昨夜、自分は心にもないことを言い放った。 『お前が他の誰かを愛しても、私は耐えてみせるから』 　そんなこと、出来ようはずがない。 　もし、翔凛が他の誰かを心底愛したら、自分はきっとその場で息絶えるだろう。 　もはや自分の中には翔凛への愛しかない。 　誠心誠意告げたつもりのこの想いは、伝わったのだろうか。 　それとも、拒絶されるのだろうか。　 　落ち着こうとすればするほど、掌にはじわりと汗を感じる。 　情けないと言われようが、正直な気持ちを吐露するならば、前宰相に寝入りばなを襲われた『あの時』に匹敵する恐怖すら感じているのだ。 　己の存在の根幹に関わる出来事として。 「…悠風様」 　閉めずに開け放していた扉の前。 　いつの間にか采雲の姿があった。 　相変わらず柔らかい表情だ。 「参りましょう」 　何処へ…とは聞かなかった。 　促されるままに回廊を巡り、階段を上る。 　思えば、ここより上の階へ行ったことはない。 　祭壇の間は、最上にあるのだろうか。 　やがて一際大きな両開きの扉の前へ来た。 　他の扉とは明らかに違う、質素ながらも重厚な作り。 　そこには、中へ入るに相応しくないものであれば、容赦なく拒絶してしまいそうな、そんな威圧感がある。　 　だが、采雲がそっと押すだけで、扉は音もなく開いた。 　僅かに芳るのは、祈りの香の残り香か。 　部屋の片隅からは、落ちていく陽が細く差し込んでいる。 　だが、翔凛の姿はない。 「どうぞ」 　促され、一歩進める。 　廊下と違う空気がひんやりと足下にまとわりついた。 「それでは」 　それだけ言うと、悠風が振り返る間も与えずに、采雲が静かに扉を閉じた。 　廊下からの光が遮られると、室内は少しほの暗くなる。 　目を凝らせば、祭壇には燭台が掲げられていて…。 　ふと、白いものが揺れた。 　それに誘われるようにまた歩を進めると、祭壇は三重ほどになって奥へ続いているようだ。 　それぞれに燭台がたてられ、仄かな炎をゆらしている。 　やがて、ふわっと芳りが立った。 　これは…夕べの香。 　今度は香に誘われて、また歩を進める。 　すると…。 「悠風？」 　翔凛の声だ。 「翔凛…」 　奥でまた、白いものが揺れ、そしてそれはやってきた。 　全身を白い衣に包んだ翔凛。 　急速に落ちていく夕陽と、燭台の火の力関係がやがて逆転を始め、室内は暗くなり始める。 　スルッと衣擦れの音がした。 　翔凛の手には、香が二つ。 　芳しい煙を燻らせながら、翔凛は悠風の前に立った。 　その姿は、光の乏しい中にあっても神々しいまでに美しい。 「鈴瑠は父上に終世誓約をたてた夜、真っ白な衣で祈りを捧げていたんだって」 「翔凛…」 　それがこの、純白の衣の意味なのだろうか。 　そうならば…。 　悠風の鼓動が早くなる。 「たとえ何があっても、二人は生涯一緒と誓った」 　そう言って手にした香を一つ、差し出す。 「僕も誰かを愛したときはそうでありたいとずっと願ってきた」 　悠風はそれをそっと受け取る。 「悠風はそれでもいいの？」 　悠風が口を開こうとしたが、翔凛はすぐに次の言葉でそれを遮った。 「僕が生涯を誓ったら、もう、離れられないんだよ。それでもいいの？」 　真っ直ぐに射抜いてくる瞳に、悠風はこの日初めての微笑みを、浮かべた。 「鈴瑠と翔凛の父上はどんな誓いの言葉を交わしたんだ？」 「悠風…」 「創雲郷で永遠を誓うときの言葉を、教えてくれ、翔凛」 　そう言うと、翔凛は朱色の唇をキュッと引き結び、頷いた。 　そして香を持たない方の手で、同じように悠風の空いている方の手を取った。 「来て…」 　促され、悠風は翔凛と共に、更に奥の祭壇へ足を進める。 　そこにあるのは、小さな香炉と燭台のみ。 　呆気ないほど飾りも何も無い空間。 　横たわるのは静けさだけで、それこそが、ここが純粋に祈りの場であることを知らしめる。 　翔凛は跪き、その手の香を、香炉へと移した。 　視線で促され、悠風もそれに倣う。 　やがて、芳りが祭壇中に満ちる。 　言葉はなくても、不安は感じない。 　あるのはただ、この穏やかな祈りの時を慈しむ気持ちだけで…。 　並んで跪く祭壇の前、やがて翔凛の右手が、そっと悠風の左手を取った。 　僅かに身じろいで、二人は視線を絡ませる。 「この生涯を…」 　誓いの言葉は出来るだけ静かに告げようと決めていた。 「あなたと共にあると…」 　でも、この瞬間が、こんなにも胸を熱くするなんて…。 「誓う…！」 　瞬間、きつく握りしめられる、繋いだ手。 　悠風の右の瞳から雫が落ちた。 「この生涯を」　 　左の瞳からも雫が落ちた。 「あなたと共にあると」 　握りしめられていた手が離れ、その両腕が、翔凛の肩に触れ…。 「誓う」 　言葉の終わりは涙で震えそうになった。 　しかし、翔凛の瞳からもまた、溢れ出たものを見た悠風は、そのまま突き動かされるようにその身体を抱きしめた。 「翔凛…生涯、共にあろう」 「はい…悠風」　 　二人は誓いの言葉を繰り返し、その最後を、熱い口づけで封じ込めた。

長い祈りを捧げ、二人が祭壇の間を後にした時には、あたりはすでに夜の帷に覆われていた。 　静まり返った回廊も、二人はしっかりと手を繋いで行く。 　そして、何も言わなくとも二人はごく当たり前のように、翔凛の居室へと入った。 「翔凛…」 　呼んだだけで、翔凛はギュッとしがみついてきた。 　それだけで、悠風の鼓動は跳ね上がる。 「…抱いて…いい、か？」 　腕に閉じこめたまま尋ねると、翔凛は耳まで紅く染めて悠風を見上げてきた。 「そっ、そんなこと、いちいち口にして聞くなっ」 　漸く出た翔凛らしい口調に、悠風はふわっと笑うとそのまま翔凛を抱き上げた。 　抱いて寝台へ運ばれるなど、翔凛にとってとんでもなく恥ずかしい行為ではあったが、もう抗う気はない。 　心が囚われてしまったのだ。 　身体が逃げられようはずはない。 　寝台に横たえられ、そのひんやりした感触に思わず身を竦ませたが、覆い被さってくる悠風の熱がすぐにそれを忘れさせる。 「…愛してる」 　初めての行為に身を固くする翔凛に、悠風は絶え間なく愛の言葉を埋め込んで、そのしなやかな身体をゆっくりと拓いていく。 「…愛してる」 　体中を溶かしてしまう愛撫の時も。 「…愛してる」 　一つになるための準備の時も。 「…愛してる」 　例えそれが痛みを伴う行為であっても、生涯を誓った人が囁いてくれる、どこまでも甘い言葉がすべてを包んでくれる。 　そして…。 「…ゆ、ふ…っ」 「…翔凛…っ」 　高みへと導いてくれる。 　二人だけの…場所へ……。 　尽きることなく、愛の言葉を紡ぎながら。