番外・前世編 「祈りの香、芳る郷」

【7】





 いつもより早く目が覚めた。

 こんなに満ち足りた気分で迎えた朝は、初めてだ。

 悠風はその腕の中で安らいだ寝息をたてている翔凛を、起こさないようにそっと寝台から抜け出た。

 手早く身支度を整え部屋を出る。

 回廊から中庭を見下ろすと、すでに采雲と芳英の姿があった。
 何事か話をしているようだ。


 やがて回廊を巡り中庭へ降りてきた悠風に、二人が気付く。


「おはようございます、王太子様」
「ゆっくりお休みになられましたか? 悠風様」

 その言葉には含みがあるような、ないような…。

「…おはよう、采雲、芳英」

 誰はばかることはないのだが、それでも初めての夜が明けた朝は何だか気恥ずかしい。


「芳英」
「はっ」
「明日の出立予定を2〜3日伸ばしたいのだが、なにか不都合があるだろうか」
「いえ、特に何もございませんが」
「そうか。ならばお前たちも休暇と思ってゆっくりしてくれ」
「…はい、ありがとうございます」


 きちんと胸を張って、王太子らしく言ったつもりなのだが、気のせいか芳英の瞳は微笑んでいるように見える。


「采雲」
「はい」
「すまないが、もう数日世話になる」
「かしこまりました。悠風様も休暇と思し召してごゆっくりお過ごし下さいませ」
「…ああ、そうだな。そうさせてもらおう」


 采雲の微笑みもやっぱり意味深だ。
 別に後ろめたさを感じる必要は無いのだが。



「そうだ」
「はい」
「翔凛に薬湯を頼む」
「…翔凛様、どこかお加減でも?」

 采雲も芳英もキュッと眉を寄せた。


「いや、そうではなくて…その、疲労が和らぐような…だな」

「酷くお疲れでいらっしゃるのですか?」

 その言葉に咎めるような響きを感じるのは、やはり、翔凛の育て親二人を前にしての、己の後ろめたさか。

「…二晩続けて眠っていないんだ。今日はゆっくり眠らせてやりたいのでな」

「…昨夜も眠っておいでではないのですか?」

 一昨夜、翔凛の不眠につき合った芳英が、少し呆れたような口調で言う。


「…ま、まあな。では頼んだぞ」

 悠風はそう言い置いて、逃げるようにまた階段を駆け上がっていった。

 その後ろ姿を見送り、心優しい強面の武官と、いかなる時も冷静な導き手である穏やかな僧が、ほうっ…とため息をつく。


「采雲殿。やはりこれは素直に喜ぶべきなのだろうか」
「いざとなると複雑な心境になりますね、芳英殿」

 いずれにしても自分たちの主君は、本当の意味で自分たちの庇護の元を巣立ったようだ。


「…ともあれ、きっと鈴瑠様はお喜びでしょう」







 あれ以上あの場にいたら、自分はどうなっていたかわからない。

 悠風は翔凛の部屋へ戻って、ホッと息をついた。

 からかわれているような、呆れられているような。

 だが、いずれにしてもあの二人は翔凛にとっては親代わり。

 特に采雲には今夜にでもきちんと告げねばならないだろう。
 二人が生涯の誓約を交わしたと。

 芳英には都への帰り道で機をみて話そう。

 そう考えながら、悠風はまだ深い眠りの中にある翔凛の枕元に寄り、そっと腰を下ろして柔らかい髪を優しく梳く。


 そして、明け方の夢現をもう一度反芻した。






 悠風は明け方に不思議なものを見た。

 窓を閉ざす扉の、わずかな隙間が薄桃色になるころ。

 翔凛の部屋の寝台の上、二人で眠るには少し狭いそこで、それでも柔らかい寝具に包まれ、何よりずっと思い続けた愛しい者を、初めてその腕に抱いた夜が明け始め…。

 満たされた気分の中で、ふと目を開けると、目の前に翔凛がいた。
 寝台に浅く腰をかけ、こちらへ視線を落としているようだ。

 部屋の中はまだ暗い。

 どうした…? と、問おうとしたのだが、何かがおかしい。

 翔凛は内側から零れるように光を湛えているのだ…。

 そして…。

 確かめるように腕に力を込めると、そこにも確かに翔凛がいた。

 自分の胸に顔を埋め、昨夜愛したそのままの姿で、安らかに寝息をついて…。

 では、目の前で腰かけている翔凛は…。

 綺麗な弧を描く優しげな眉も、筋の通った小振りの鼻も、朱を入れたように艶やかな薄い唇も…腕の中の翔凛と同じ。

 ただ、見開くときっと大きいのであろうその瞳は、今は愛おしげに細められていて。



 ふと、光が揺らいだ。

 片手をあげ、そっとこちらへ手をやる。
 そこには…眠る翔凛。

 透き通る指が、翔凛の頬をゆっくりと、何度も何度も、往復する。
 それはまるで、母が子をあやすような仕草にも似て。



 悠風はふと気付いた。

 髪が漆黒…。腕の中の翔凛とは、髪の色が少し違う。

 そして、その華奢な体つき。

 翔凛も決してよい体格とは言い難いが、それでも体中から生命力を溢れさせている。

 だが、もう一人の翔凛は、いっそ儚げとも言えるほど繊細で…。



“翔凛”



 自分以外の誰かが翔凛を呼んだ。

 その声は、深く優しく…。

 じっと見つめていると、光の中の翔凛が、ふと視線をあげた。

 悠風のそれとぶつかる。

 漆黒の髪に縁取られたほっそりと優しげな面差し。

 ……もしや。

 悠風の思考が一つの可能性に達したとき、黒髪の翔凛は、悠風に向かって小さく頷き、にこっと微笑んだ。

 そして…そのまま光と共に溶けていった。




 後に残ったのは、元通りの静かな部屋。

 少しだけ、陽の光が差し始めて……。

 悠風は、いつしか暖かい涙をこぼしていた。

 あれはきっと…。






「それでは、道中くれぐれもお気をつけて」

「うん。いろいろとありがとう」

「何をおっしゃいます。ここは翔凛様のお里。私たちはいつでも翔凛様のお帰りをお待ちしているのですから」

 二十日ほど前、ここへ里帰りしてきた時とは比べようもないほどに明るい笑顔を見せる翔凛に、采雲もそれは柔らかい笑みを返す。

 だが悠風はむくれているらしい。

「なあ、翔凛。どうしても同乗はいやか?」

 どうやら一つの馬に同乗しようと誘っているようだ。


「あのねっ、どこの世界に王太子の馬に同乗する宰相がいるんだよっ。悠風の王太子としての威厳なんてもう地の底かも知れないけど、僕にだって宰相としての『示し』ってものがあるんだからねっ」

「今更そんなもの…」
 ぶつぶつと何かしら呟く悠風の言葉の中に『寝台の中では…』などという不穏当な単語を拾い、翔凛がまた剣呑に悠風を睨む。 

「何っ、何か言った?!」

「いや、別に〜」

 王宮の中と変わらぬ二人のやりとりに、随身たちは相変わらず笑いを堪えるのに四苦八苦の様子だ。

 だが、これなら帰りの道のりも退屈知らずになりそうだ。
 


 出立の朝は晴れ渡り、拓けた視界は都へ至る道を彼方まで見せる。

「翔凛様」

 愛馬・秀空にまたがった翔凛の足下から、采雲がもう一度声をかけた。

「采雲…」

 見下ろす翔凛の瞳を真っ直ぐに捉え、采雲は静かに胸の前で手を合わせる。
 
「…御身、限りなくお幸せであらせられますよう…」

 祈りの口調で紡がれたその言葉に、翔凛は神妙に口元を引き結び、やがて綻ぶように笑った。

 そして。

「竜瑠の街に、永久の安寧を…!」

 手をかざし、冴え渡る声で翔凛が告げると、見送る僧や民が一斉にひれ伏した。




「出立!!」

 芳英の声を受け、一行が静かに動き出す。

 半歩遅れるように王太子の馬の後につける宰相を、王太子が静かに招いた。

「翔凛、隣へ」
「…はいっ」

 仲良く馬を並べて若き統治者たちが行く。
 それは、新しき時代への第一歩。






いずれこの街を創雲郷のようにしたい。
優しい気持ちと、芳しい祈りの香に満ちた郷に。
そして、この国の人々の、心の拠り所となる郷に。



 
 やがて竜瑠の街には寺院が建ち並び、優しい眼差しの僧たちが集い、学び、芳しい香の中で祈りを捧げ、穏やかな信仰の郷はその時の流れを連綿と繋いでゆく。


 王国はほどなくして少年王の治世となり、薬草や植物の交易の成功で更に国家の礎を盤石なものと成し、その繁栄は数世紀に及ぶこととなった。




 そして時は流れ、人は輪廻を辿り、結ばれし魂は、また巡り会う…。



END
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