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その異変は唐突に現れた。
「翔凛さまっ?!」
身支度を整え、執務の間へ向かうべく居室の扉に手をかけた翔凛が、なんの前触れもなく床に崩れ落ちたのだ。
「如何なさいましたっ?翔凛さまっ?」
側付きの女官・華蘭が慌てて駆け寄り、力無く横たわるその頭を両の手で抱え上げる。
だがしかし、翔凛はすでにその瞳を閉じ、唇も薄く開き、その様子が尋常ではないことをはっきりと伝えている。
「女官長をっ、柳蘭さまをお呼びして!」
「はいっ!」
扉を開け放ち、駆けだした女官と入れ替わるように、廊下に控えていた芳英が何事かと駆け込んでくる。
「…翔凛さまっ?」
意志なく華蘭に抱えられている翔凛の姿を目の当たりにし、芳英も滅多にない驚きと緊張を漲らせる。
「華蘭、如何致したというのだ?!」
「わかりませんっ、つい今し方までいつものご様子と変わりなくお過ごしでした。 それが、突然に…」
すでに涙声になる華蘭を芳英が叱責する。
「泣いている場合ではないっ、侍医を呼べっ。それと悠風さまだ。すでに執務の間に向かわれているからすぐにお知らせしろっ」
「は、はいっ」
震える声で返答し、おぼつかなくなりそうな足を自ら一度、二度叩き、華蘭は駆けだしていった。
「翔凛さま、聞こえますか? お気を確かに」
本当は華蘭同様に自分の鼓動も酷く跳ね上がり、今にも心の臓が喉を突いて飛び出しそうなほど脈打っているのだが、それでも芳英は、その堅固な両腕にしっかりと翔凛を抱える。
衣の袖からは十日間ほどの視察の間にほんのりと日焼けした健康そうな…けれどほっそりした腕が、頼りなく垂れている。
意識は、ない。
そんな翔凛の様子に、芳英はある不安を一気に募らせていた。
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翔凛と芳英は、それなりの数の随身たちと共に、五日ほど前まで視察に出かけていた。
そこは、原因が特定できていない熱病が発生し、多くはないといえ、抵抗力の少ない老人や赤ん坊にいくらかの犠牲者が出ている地域であった。
周囲は翔凛自身がそう言う地域に向かうことを強固に反対したのだが、翔凛は『宰相である今のうちにしか出来ないことだから』と聞き入れず、『この目で確かめて対策をとる』と言って、その通り行動に移したのだった。
結果、幼い頃から教え込まれてきた薬学の知識が効を発揮し、翔凛から采雲へと直接状況を伝えることで、症状を抑える薬草の調合が速やかに行われることになったのだ。
あと数ヶ月で、この国は王が代わる。
漸く悠風が王位の継承を了承し、漣基は晴れて『自由の身』となる。
そしてそれは、翔凛の身にも大きな変化をもたらせる。
以前悠風が宣言したとおり、翔凛は悠風の次を担うべく『王太子』となるのだ。
そうなれば、今のように身軽に動き回ることも叶わなくなる。
翔凛は、臣下の身分でいられる間に、出来るだけのことをしておきたいと願っていたのだ。
『僕は若いし、この通り健康そのものだし、それに日頃から色んな薬草で抵抗力もつけてるから』
そう言って、翔凛は悠風の猛反対も押し切ってでかけ、そして無事帰ってきたはずだったのだが…。
例の熱病にまさかこのような潜伏期間があったと言うのだろうか。
芳英の掌に包まれた翔凛の手は、あっという間のその温度を上げていく。
「翔凛っ!」
誰より早く、悠風が飛び込んできた。
すでに翔凛の息は荒い。
「芳英っ、何があったっ」
「わかりません。…が、酷く発熱されています」
つづいて女官長・柳蘭、華蘭と共に侍医も駆けつけてきた。
緊張に包まれる翔凛の居室。
すぐに侍医の指示で翔凛は寝台へと横たえられ、衣をくつろげると日焼けしていない白い肌には汗が噴き出し、玉を作っている。
そのせわしなく上下する胸を、柳蘭が柔らかい布で拭くのだが、汗はあとからあとから、限界を知らぬように流れ落ちる。
「…間違いありません、例の熱病と同じ症状です」
暗い声で侍医が告げる。
「采雲が調合した薬草は?」
せっぱ詰まった声で悠風が問うと、侍医が首を横に振った。
「翔凛さまのご指示ですべて例の地域に回しております。あるとすれば、采雲殿のお手元にだけ」
「では、今すぐ采雲を呼ぶ。…芳英っ」
「はっ」
「一番早い馬で采雲を迎えに行ってくれ」
「すぐに」
緊張した面もちのまま、芳英は居室を走り去った。
「華蘭、今すぐ翔凛に随行した者たちの中に発症しているものがいないか調べてくれ」
「はいっ」
華蘭も駆けていく。
熱病はまだ感染経路が特定されていない。
だが、空気感染にしては近隣地域への飛び火がない。発病は特定の地域から広がっていないのだ。
それが、油断に繋がったのだろうか?
「悠風さま、采雲殿の到着にはどれほどの時を要しますか?」
「竜瑠の街にいるとすれば、最も早い馬でも往復二週間はかかる。静泉溜の街にいてくれれば、一週間だが…」
侍医の問いに悠風が答えると、彼は一度腕組みして何事かを考え、また悠風に告げる。
「翔凛さまの体力ではお命に関わることはないかと存じますが、何分まだわからないことの方が多い病ですので、症状が引いた後の障りがどれほどのものなのかも知れません。とにかく、采雲殿の到着まで万全の体勢でご看護に当たることにいたします」
「頼む」
悲愴な顔の悠風に、侍医は深く一礼をした。
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幸い采雲は、都と竜瑠の街の中間点に当たる静泉溜の街にいた。
ここは国の薬草栽培の拠点となる街であるため、采雲は二つの街を忙しく往復していることが多かった。
最も早い馬で往復一週間。
しかし、芳英は寝食を忘れ、わずか二日で往路を駆け抜け、采雲と二人、わずか三日で復路を戻ってきたのだ。
そうして翔凛の発症から五日目。
采雲が薬草を携えてやって来たときには、翔凛は寝台に身を起こせるほどに快復していた。
しかし、三日続いた高熱で体力を消耗しきっており、微熱はまだ残ったままで身体がだるいことこの上ない。
「うえっ…苦ぃ…っ」
采雲の薬草の煎じ汁は、それは不味そうな色をしていたが、味の方もそれに負けてはいなかった。
一口飲んで顔をしかめる翔凛。
だが、悠風にとってはそんな表情すら嬉しい。
ただ采雲の到着を待つだけだった間、高熱にうなされる翔凛の側にいて、生きた心地がしなかったのだから。
「文句を言わずにほら飲んで」
「ふぇぇぇん」
翔凛もいつになく悠風に甘えているようで、端で見ている采雲としても微笑ましい限りだ。
そうしてしばらくは、二人がさりげなくじゃれているのを穏やかに見守っていたのだが…。
「おくつろぎのところを恐れ入りますが」
重要な報告がある。
目の前の睦まじい恋人たちは、この国の責任者なのだ。
可哀相だが、責務も思い出してもらわねばならない。
「どうした?」
目の前でつい甘ったるい顔を見せてしまったことに対する羞恥のせいか、ほんの少しばつの悪そうな顔をして、悠風が言う。
「今回の熱病ですが」
そういうと、二人はきゅっと表情を引き締めた。
まるで人格ごと入れ替わったかのような変貌ぶりだ。
見事に『王太子』と『宰相』になっている。
ただ、その引き締まった表情と『寝台の上』という状況の差が可笑しいのだが。
☆ .。.:*・゜
「経口感染?」
采雲が告げた聞き慣れない言葉に、悠風は問い返す。
「はい、平たく言いますと、唾液による感染です。例えば母親が赤ん坊と同じ匙で食事をするなどいたしますと感染する…ということです」
熱病の感染経路が采雲によって報告された。
「…なるほど。それなら特定の相手にしか感染しないし、爆発的に広がらないわけだ」
「でも、ホッとしたよ。それなら防ぐ手だてはあるわけだから」
翔凛がそう言って安心したような表情を向けると、悠風もにっこりと笑って見せた…のだが。
「待てよ…。だとしたら、どうして翔凛がそれで…」
いきなり名前を出されて翔凛は寝台の上できょとんとした顔をしている。
「そこです」
采雲が妙に作ったような声音で言った。
「…王太子さまには非常に申し上げにくいのですが」
「かまわない、言ってくれ」
「…はい。もっとも感染の危険が高いのは、直接口を合わせることです」
「それはそうだろう、唾液で感染するというのなら、口づけなど交わし…」
『コトン』
翔凛の手から、空になった薬湯の器が落ちた。
それは膝の上の小さな盆にあたってクルクルと回る。
「……翔凛…」
「……翔凛さま…」
細めて見下ろしてくる四つの瞳が冷たい。
「ええっと…」
視線に負けないくらい冷ややかな空気が寝台の上を流れて行く。
「…まさかと思うが、心当たりでもあると?」
「…えっ、ま、まさか…」
慌てて拾い上げた器を持つ手が震えている。
「すまない、采雲。外してくれないか?」
「はい。失礼いたします」
何もかも心得たような顔をして一礼した采雲は、再びその顔を上げる時に咎めるような瞳でちらっと翔凛を見ると、また何事もなかったような表情に戻って居室を後にした。
「さて、翔凛」
「な、なんだよっ」
悠風は殊更乱暴に、翔凛の寝台に…翔凛の肩を抱くように腰を下ろした。
「どういうことか説明してもらおうか」
言葉が冷たい。
こんな悠風は見たことがない。
翔凛が抱かれた肩に動揺を走らせる。
それは、見知らぬものに対する本能的な怯えだったのだが、悠風は違う意味に取った。
「言葉で説明できないなら仕方ないな」
「…なっ…」
「覚悟しろ、翔凛…」
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←この間の色々は、こちらからv |
「十歳〜?!」
「はい。母親と幼い妹が酷い熱に苦しんでいる家庭を翔凛さまが直々に見舞われたのですが…」
昨夜の無茶がたたって、また発熱してしまった翔凛は、今は采雲が煎じた薬湯でぐっすりと眠っている。
そして、結局翔凛の口から聞きたいことが聞き出せなかった悠風は、朝も早くから芳英を呼んで、視察中の仔細を聞き出しているのだ。
「これが、相手が成年男子で翔凛さまに邪な思いを抱いての所行ならば、当然その場で斬って捨てるのですが、何しろ相手はまだ子ども。 国一番の人気者であられる若き宰相の君さまと直接お話出来たことが嬉しくて堪らず、思わず飛びついて口づけしてしまった…というような状況だったものですから、我らとしてもどうにも…」
弱ったように頭を掻いた芳英に、悠風はぐったりと力を落とす。
「…翔凛のヤツ、それならそうと言えばいいのに…」
いったい何を強情を張ったのか。
最初から正直に話してくれたのなら、あんな無理はさせなかったものを。
「それは…やはり翔凛さまにも成年男子としての自尊心がお有りですから…」
芳英は言いにくそうに主君の弁護をする。
「十歳ばかりの男の子に押し倒されたなどと、自ら弁解など出来ないと言うわけか…。 翔凛らしいというか、なんというか…」
「はあ…」
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「ばか」
「あ、ひどい〜」
何度冷たい水を汲み直してきても、悠風の額を冷ます布はすぐに湯につけたように熱くなる。
『ざま〜みろ』
そう言って舌を出した翔凛だったが、それでも執務の合間を縫ってはこうして悠風の寝室を訪れて、甲斐甲斐しく世話を焼く。
まだ治りきっていなかった翔凛を、訳の分からない嫉妬に任せて思うさま抱いた悠風は、当然の如く、しっかりと熱病に感染してしまったのだ。
「…ったく、仕方のないヤツらだな」
見舞いに訪れた漣基は腕組みをし、呆れた声で二人を見下ろした。
「ちょっと待ってよ、『ヤツら』はないだろ〜。僕は被害者だよ」
慌てて言い募る翔凛。
だがそれも、王はばっさりと切り捨てる。
「お前もお前だ、翔凛。そもそもお前が安易に襲われて感染してくるからこういうことになるんだ」
「あ〜、酷いっ、襲われたわけじゃないよ!」
翔凛は更にジタバタと抗議するのだが、漣基はこれも、ちらっと視線をくれただけで流してしまう。
「ともかく、王太子の不在は視察の旅にでも出たことにしないと仕方がないな」
「どうして〜」
高熱の荒い息の下で、悠風が不服そうに唸る。
「馬鹿者っ。国中に『経口感染』だと触れを出した後に王太子が感染したなどと、恥ずかしくて発表出来るかっ。そもそも王宮内で発症したのはお前たちだけなんだぞ? 誰から感染したかまるわかりじゃないかっ」
「「…う…」」
同じように絶句するが、悠風はその視線を拠り所なく漂わせ、翔凛は悠風を恨めしそうに睨む。
「ともかく、完全に治るまで寝室から出ることは許さんぞ。 もっともお前たちの場合は二人で移しあってるだけだろうがな」
わざと呆れた顔を保ちつつ、漣基は悠風の額を冷やす布を冷たいものに取り替え、翔凛の額を優しい仕草で一つ小突くと、肩を竦めて出ていった。
「…悠風のばか」
「あ〜。またそうやって人のせいにする〜」
「悠風のせいだろっ」
また始まった『王宮名物・王太子と宰相の痴話喧嘩』に、いつもなら女官たちも笑いを堪えて見守るのだが、今回ばかりはそうもいかない。
「翔凛様。悠風様はまだお熱が高うこざいますから」
女官長の柳蘭に優しく宥められ、翔凛はちょっと不服そうに口を尖らせたが『仕方ない。柳蘭に免じて許してやる』などと臣下にあるまじき言葉を不遜な態度で悠風に告げ、執務に戻っていった。
それからしばらくの後。
病の癒えた王太子は、宰相の君のご機嫌を取るのに奔走したとかしないとか…。
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お・わ・り |