プロローグ





「ちょっと待ったっ」
「どうして?」

 待てと言ったのは、東堂歩19歳。
 大学の考古学研究室にいる2年生。
 名前は可愛らしいが、性別はれっきとした男だ。

 なのに、散乱した荷物の中、床に押さえつけられるという、哀れな姿をさらしている。

 のしかかり、押さえつけているのは、宮原龍也20歳。
 歩と同じ研究室の3年生。歩の1年先輩だ。
 焦る歩をものともせず、顔を近づけていく。

「だからっ、龍也って…」

 言葉は途中で吸い取られた。
 いきなりこんな濃厚なキスをお見舞いされることは少ない。
 たいがい、ついばむような優しいキスから始まって、次第に…というパターンだ。

 なのに今日はどうだ。
 歩が目眩を起こしているうちに、着々とその着衣が剥がされてこうとしている。

 その事実に気づいた歩は、必死の抵抗を試みる。

 しかし、手をバタつかせれば押さえ込まれる、足を蹴り上げてみても、逆に足を絡ませられてしまう。
 この体格差はどうしようもないのか。


 龍也は長身でしっかりとした体躯。
 スポーツマンと言うほどではないが、プロポーションは抜群だ。

 ついでに言うなら、モデルにスカウトされたことも一度や二度ではない、どことなくエキゾチックなそのルックス。
 学内でも女性陣の人気は異様に高い。

 なのに、なぜ、わざわざ男である歩を組み敷いているのか。



 組み敷かれている歩は小柄で華奢。
 身長は160をほんの数cm越えているだけで、さらに華奢な身体つきと小さな顔のおかげで、実際よりも相当若く見られてしまう。
 男性と言うよりは、まだまだ『男の子』。

 こちらもモデルにスカウトされたことは一度や二度ではない。
 ただし、女の子としてだ。

 名前のせいもあるのか、女の子に間違われた経験なら数知れない。
 ご丁寧に、混んだ電車の中でもよく間違えていただくのだ。
 だからわざと低い声で反撃し、相手をビビらせたことも数知れない。






「お、ねが…いだか…ら」

 ついに歩は涙声になってしまう。
 ここでいつもならば、龍也が慌てて謝罪するのだ……が。

 龍也は何も言わず、黙々と『こと』をこなしていく。
 シャツのボタンがすべて外され、ジーンズのボタンにまで手がかかった時…。

「やだっ!!」

 最後の声を振り絞って、歩が激しく首を振る。

 ついに龍也はその動きを止めた。
 しかし、身体の上から降りようという気はないようだ。
 のしかかったまま、歩をきつく抱きしめて、深いため息をつく。

「歩…お前、俺のこと嫌いなのか…?」

 耳元で聞こえた龍也の声に、歩は慌ててその顔を見ようとするが、拘束されている力が強くて、動くことすらままならない。

「でもな…歩。俺、お前に嫌われても、お前のこと、離せないんだ…」

 それは、何度も聞いた言葉だった。





 二人が初めて出会ったのは、1年半ほど前のことだ。
 大学の研究室が出会いの場だった。

 二人が通う大学では、1年の間は『基礎研究期間』とされ、2年になって初めて、正式にそれぞれの研究室に入ることを許される。

 しかし、歩は中学生の頃、その著作を読んだことから考古学を志すきっかけとなった『憧れの教授』の研究室に、入学当初から入り浸っていたのだ。

 そこにいたのが、1年先輩の宮原龍也だった。

 歩はその時のことを鮮明に覚えている。
 かなり異常な事態だったからだ。






「あれ…?」

 研究室のドアを開け、身体が半分だけ入ったところで、龍也は動きを止めた。

 目に入ったのは可愛い女の子。
 ボーイッシュな彼女は、こっちを向いてにこっと笑った。
 少し、首をかしげて。

「お邪魔してます」

 少女にしては、ちょっとハスキーな声だ。
 その後ろから、この研究室の主、阪本教授の声がかかる。

「ああ、新入生の東堂歩くんだ。2年になるまで、見習いさんだがよろしくな」

『見習いさん』なんていう制度は聞いたことがなかったが、それはこの際いいだろう。

 なにしろ目の前のこの子。
 龍也は一目で気に入ってしまったのだ。

 室内にいる数人の上級生が、ニヤニヤ笑いながら見ていることに、龍也が気づこうはずがない。
 それほど、目の前の子に見惚れていたのだ。

「…俺、宮原龍也…」

 ズズッと間合いを詰めてきた龍也に、歩は思わず後ずさった。

「あ…あの…」
「俺とつき合ってくれ」

 部屋中を奇妙な沈黙が覆った。




「ぎゃははははははははははは―――――――― 」

 上級生たちが、ある者は腹を抱え、ある者は机を叩きながら、涙を流して笑い始めた。

 そして、告白を受けた当の歩は、顔を真っ赤にして拳を握っている。

「僕は男だっ!!!」

 その叫びに、上級生たちの笑いはますます煽られる。

「…お、と、こ…?」

 まん丸に見開かれた龍也の目が、瞬きを忘れたまま歩を見つめる。

 歩はそんな龍也を、ギロッと睨み上げ、
「失礼しますっ」
 と、言い放つと、目の前の邪魔な男、龍也を押しのけて出ていってしまった。


「バカだなぁ、龍也ぁ。いくら何でも、見てわかんなかったか」

 涙を拭きながら、上級生の一人がいう。

 わからなかった。
 確かにわからなかったが…。

「そんなこと………どうでもいいっ!」

 そう叫んで、龍也は歩の後を追った。



「待って…! ………待ってくれっ!」

 歩は立ち止まり、力を込めて振り返った。
 過去の経験からすると、ここで甘い顔をするとつけあがられるのだ。

 目一杯睨みつける。
 だが…。

「ご、めん…。その…悪気はなかったんだ」

 予想と反する龍也の様子に、歩はほんの少しだけ、表情を緩める。

「お詫びに奢るよ」

 龍也はそう言うなり、歩の腕を掴み、歩き出した。
 呆気にとられた歩は、引きずられるままになってしまったのだが…。



 



 今思うに、アレがまずかったのだ。
 あの時、あの腕を振り解いて、走って逃げていれば…。



 散乱する荷物の中、龍也は『くぅくぅ』と寝息をたてている。

(龍也ぁ…どうすんだよ。明日の夕方には出発だってのに、なーんにも用意ができやしない…)

 龍也は歩にのしかかったまま、散々愛の言葉を吐いて、寝てしまったのだ。





 龍也の告白は、出会ったその日だった。

「俺、お前が好きだ。お前に会いたかった。お前を探してた。もう、離さない」

 歩が怯えたのは言うまでもない。

(こ、この人…。アタマ、変だ…)

 とにかく逃げなくては…。
 混んだ電車の中のややこしいオジサマ方よりも、もっとたちが悪そうだと感じ、歩は目の端で退路を探した。

 自分の迂闊さに腹が立つ。
 何を考えたのか、誘われるままに、一人暮らしの龍也の部屋に上がり込んでいたのだ。

(くっそう…)

 そう。つい、話がおもしろくて、続きが聞きたくなったのだ。
 共通の話題と言えば、『考古学』。
 阪本教授が研究している大陸の遺跡について、龍也が教えてくれるあれこれを、夢中になって聞いていたのだ。

 その意識の隙間を突いて…。

(え……っ)

 ほんの一瞬の間に、事態は抜き差しならない状態にまで陥っていた。

 自分が見ているのは…天井。
 身体に感じる重さは…だ、れ、の…?

(うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!)

 心で絶叫してみたが、恐怖のあまり、声になってくれなかった。

「離さない。もう、離さない」

 うわごとのように繰り返す龍也。

 龍也としてはただ、なくしたものを見つけた喜びに浸っているだけだったのだが。

 何をなくしていたのか…。
 そんなこと、本人にもわかるはずはなかった。

 だから、あまりの恐ろしさに、歩が『考えること』を放棄してしまったとしても、誰が責められるだろう。






 あれから1年と半年。

 龍也の猛烈な求愛に、いつしか歩は諦めにも似た感情で、この異常事態を処理するようになっていた。

 いつの間にか、抱擁を受け入れるようになり、いつの間にか、キスを受け入れるようになり…。

 しかし、それ以上はごめんだ。
 とんでもない。


 一度先輩に言われたことがある。

『龍也がかわいそうじゃんか。好きな子に手も出せないなんて。あいつ、きっと遊びじゃないから、許してやれよ』

 歩はその日のうちに、龍也に言い渡した。

『欲望の処理に困るんなら、常識的に女の子とつき合うんだね。龍也なら不自由ないだろっ』

 自分で言った言葉にむかついて、むかついたという事実にまた、むかついて…。

 だが、言われた龍也は、涙を零して歩を抱きしめた。

『違う…。身体が欲しいんじゃない。もう、離れていたくないだけなんだ…』


 不安で不安でしょうがない……。


 そのつぶやきを聞いたとき、歩は何故か、胸の奥に刺さったもの…微かな痛みを覚えたのだが、その正体がなんであるかなどとは、今の歩にわかろうはずもなかった。





 しかし、その日を境に、歩の想いは少しずつ、確実に目覚め始めた。

 が、イヤなものは、イヤなのだ。

 龍也の腕の中は、確かに気持ちがいい…と最近は思う。
 でも、それ以上は……。

『絶対、ダメっ!』


 歩は二つのスーツケースを前に、盛大にため息をついた。