番外・現世編 「古の瑠璃の珠」
【2】
『りゅう……』 ――え? 何かが聞こえたような気がする。 歩の声のような気がしたのだが、今、歩は側にいない。隣の部屋へ資料を取りに行っているからだ。 それに、声が聞こえたように感じたのは、その部屋の方向ではない。 どちらかというと、刀の納められたガラスケースの方向から…のような気がする。 あり得ないが。 調査開始より1時間ほど前。 歩と龍也は他の面子より先に研究室に到着して、調査の準備を始めていた。 「よいしょ」 大きな段ボールを抱えて歩が戻ってきた。 「あ、ごめんな。重かったろ?」 「ううん、たいしたことないよ」 今日の調査のメインは『刀』。 見事な装飾が彫り込まれている瑠璃の飾り玉が付いたそれは、武器と言うには小振りで華奢な造りであることから、『儀式用』または『護身用』ではないかと推察されている。 だがもちろん、歩は知っている。 その刀は創雲郷の統治者である竜翔の持ち物で、外出の時のみに携行する『武器である大刀』と違い、常に身につけ、就寝時には枕元に置くことと定められていた、郷の僧たちの祈りが籠もる『守り刀』であることを。 そして、飾りの瑠璃の珠は、初めて出会った日に歩――いや、鈴瑠が竜翔に贈ったもの。 もちろん儀式の時にも用いるのだが、それよりは『分身』といった意味合いの大きいもので、鈴瑠も成年して本宮に仕えることになったあの日――『終世誓約』の時に竜翔から贈られたものをずっと身につけていた。 竜翔の目の前で自分の喉を突いて見せた時に使ったのも、その刀だ。 ――あれ、何処にいったんだろう…。 鈴瑠のそれは、竜翔のものよりもさらに少し小振りのもので、紅水晶の飾り玉がついていた。 創雲郷が崩壊したあの日も確かに身につけていたはずだ。 けれど、あの後の記憶は全くないからわからない。 ――今度行ったとき、探してみようかな…。 最早、歩にとっての『発掘作業』は、『学術調査』ではなく『思い出探し』の意味合いを深くしていて、そのこともまた歩の胸を締め付ける結果となるのだ。 ただ一人、帰らぬ思い出を追いかけているようで……。 『…ゅうか…』 ――あれ? また…。 龍也が覗き込んでいたガラスケースから顔を上げる。 「……歩、呼んだ?」 「え? 呼んでないよ」 物思いには耽っていたけれど。 「変だな…」 「やだ、空耳?」 クスクス笑う歩に、龍也も苦笑を返すしかない。 だが、なんと聞こえたのかも定かでないその言葉の響きは、何故だか暖かくて…。 不思議な懐かしさに満たされて、龍也はまた首を傾げて刀を見る。 いったい何なのだろう…と。 そして、ジッと守り刀に見入り、何事かに思いを巡らせているような龍也の横顔を、歩もまた見つめる。 先ほどの『空耳』のことを真剣に考えてでもいるのだろうか。 ――これの持ち主、龍也だったんだよ…なんて言ったら、きっと『歩、お前知恵熱でも出たか?』なんて笑われちゃうんだろうなあ。 内心で寂しく笑い、歩はふと目を伏せる。 髪の色も瞳の色も違うけれど、刀の前に立つ龍也は竜翔そのもので、もしかしたら、ふと振り返った瞬間に『鈴瑠』と優しく微笑んでくれるのではないだろうか…そんな埒もない事を考えてしまう。 けれど…。 自分たちが出会い、別れ、悩み、そして深く愛し合っていたあの創雲郷の日々の記憶を、今はもう自分しか持っていないことがたまらなく寂しい。 思い出せなくてもいいから、一度だけでいいからその声が『鈴瑠』と呼ぶのを聞いてみたい。 そう願ってしまう自分が確かにいることを、歩は自覚し始めていた。 ――でも、それって……。 ふと思い至る。 『龍也』に『竜翔』を求める。 それは、今、目の前に生きている『龍也』を否定することになりはしないか…と。 龍也も竜翔も同じ人間。それは、側にいて、痛いほど心に感じていることなのに。 そして同時に、『鈴瑠』と呼ばれない『歩』――自分自身をも、否定しているのではないか…と。 そう思いついてしまうと、歩は自分が酷く自分勝手になり果てたような気がして深く落ち込んだ。 「どうした? 歩。難しい顔して」 身体がふわりと暖かく包まれる。 自分より少し高い龍也の体温。 ――こんなところまで一緒なんだから…。 竜翔だった頃も、こんな風にこの身体は熱かった。 目を閉じて、しがみつく。こうしていると、何もかも忘れていられそうな気がして…。 「お。感心に早いお出ましだと思っていたら、こういうことか?」 ドアが開く音と同時に、明らかに笑いを含んだ声を掛けてきたのは彼らの指導教授である阪本だ。 「うわっ」 慌てて身体を離すものの、現場はしっかりと押さえられてしまったようでばつが悪い。 「ああ、気にしなくていいぞ。やっとラブラブになったんだからな、遠慮しないでやってくれ」 「先生っ!」 だが、焦る歩の声もなんのその。阪本はウィンクを一発繰り出すと、さっさとガラスケースの鍵を開けて準備を始める。 「さて。いよいよこれの調査だな」 出土した刀は学術的にも優先度の高い遺物だ。 見事な細工に精錬度の高い刃。文明の高さの証だ。 遺物を前に、瞳を輝かせる阪本の横顔を見つめ、歩はまた、遠い過去の記憶に思いを馳せる。 竜翔が生まれたときから側に仕えてきた泊双。 公私に渡って竜翔の支えだった人。 創雲郷の発掘によって世界の第一人者になった考古学者である阪本と泊双は、姿形だけでなく、物言いや物腰までもがそっくりだ。 龍也が竜翔であるのと同じように。 恐らく、彼――阪本もまた、泊双が転生した姿なのだろう。 あの頃と同じように、歩を暖かく包んでくれて、自分たちの仲を後押しして、応援してくれている。 そして、遙か昔に土に埋もれてしまった創雲郷を見つけたのだ。 それが何よりの証拠。 「それにしても、何度見ても見事な細工だな」 「そうですね。特にこのラピスラズリの玉の彫刻は精密機械で彫ったかのような緻密さですからね」 ――そういえば、石の細工は麓の里でやってたっけ。細工職人ばかりの里があって、切り傷なんかに使う薬草をたくさん伝えたなあ…。 「それに、柄の部分に埋められた石も…。あ、先生、計測結果は出ましたか?」 「ああ、出たぞ。思った通りだった」 「やっぱり」 「丸い玉はほぼ真円。半球のものも、表面のなだらかさは真円の数値を示していた。今の技術ならともかく、当時どうやってラピスや水晶を真円に磨き上げていたのか…」 ――そっか…里へ下りたときにちゃんと見ておけばよかった…。 その時は、その技術がいかに高いものかと言うことを知らなかったから、歩――鈴瑠は実際の作業現場を見たことはなかったのだ。 でも、もしかしたら何か残っているかも知れない。 創雲郷本体であれほどの遺物や遺構が見つかっているのだ。麓にも何かが眠っている可能性は十分にある。 「あのー、先生」 「ん? なんだ、歩」 刀から目を転じ、いつもと同じ優しい瞳で見つめてくる阪本に、歩は思いつきを口にしてみる。 「いずれ周辺地域も調査してみてはどうでしょうか?」 「周辺地域?」 「はい。あれほどの規模の遺構ではあっても、そのほとんどが宗教関連のようで、今回新たに発掘されたのも宮殿様式の遺構ですよね」 「ああ。そうだな」 「あの遺構の規模に見合った人が暮らしていたとしたら、かなり多くの人がいたはずです。たくさんの人がいたのなら、その人たちの生活とか、いろんなことを支える人もまた必要で…」 「あ、そうか」 龍也が手を叩いた。 「日本の城下町のようになってたんじゃないか…ってこと、だよな? 歩」 「そうそう」 「なるほど。現在我々が発掘している部分を中心に、さまざまな文化が集っていた可能性がある…ということか」 「はい。もしかしたらその中に、こういう技術をもった集団が存在したかも知れませんし」 「先生」 龍也が期待に満ちた瞳で阪本を見る。 「やってみる価値は多いにありそうだな」 不敵に笑う阪本を見て、龍也が『やったな』とばかりに歩の頭を撫でると、阪本もまた、歩の頭をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。 「何といってもお前は私たちの幸運の女神だからな」 「…は? なんですか、それ」 歩がくちゃくちゃにされた頭のまま、ぽやんと見上げると、阪本は今度は嬉しそうに笑って見せた。 「おや、自覚がないのか、この子猫ちゃんは」 「せんせっ、誰が子猫ですかっ」 「そうやって逆毛を立ててみせるところがまったく子猫なんだけど?」 龍也にまで言われて歩はさらに逆毛を立てる。いや、実際髪をくちゃくちゃにしたのは龍也と阪本なのだが。 「ともかくだ」 その瞳にいつもの知的な光を宿し、阪本は発掘した竜翔の守り刀にそっと触れる。 「遥か昔に埋もれ、忘れ去られた場所であっても、そこには確かに人が生き、笑い、泣き、愛し合っていたはずだ」 龍也がそっと歩の肩を抱いてきた。優しい手つきで髪を直してくれる。 「歩はそんな人々の『過去』と我々とを結びつけてくれる『何か』をもっているのだと、私は感じている」 「…先生…」 「私たちは、発掘屋ではない。遺物や遺構を探り当てたら終わり…なのではなく、そこから先へと踏み出さねばならん」 その言葉に龍也も力強く頷く。 「かつて、確かにそこに生きていたはずの人々に、私たちの手で光を当てようじゃないか」 ――そうか…。ずっと彼方に埋もれてしまった創雲郷が発掘されて、その色々が明らかになれば、そこに生きてきた竜翔たちの存在の証になるんだよね…。 阪本教授が『創雲郷』を発掘したこと。 それに惹かれて自分や龍也がこの研究室に集ったこと。 そう。これこそが、自分たちの魂がずっと以前から結ばれてきたことの何よりの証なのだ。 だから、一人で寂しがることなどなにも…ない。 歩は目を閉じ、静かに『はい』…と頷いた。 |