番外・現世編 「古の瑠璃の珠」

【3】


「なんかすごいことになってきたなあ…」


 研究室の窓から暗い空を見上げてみるものの、激しく窓を叩く雨粒がその視界を遮って、外の様子などまったく知れない。

「こんな予報だけはちゃっかり当たるんだよね…」

 歩もまた、龍也の隣に立ち、空を見上げてみる。


『守り刀』の実測値や材質調査、撮影などを行い、医学部の協力でX線撮影を実施する段取りなどを整えて、阪本や他の研究員や学生が帰宅した後、歩と龍也は急に激しくなった早春の嵐に、研究室に足止めを食らっていた。


「こんなことならみんなと一緒に帰りゃよかったな」

 ガラス窓に手をつき、龍也が憂鬱そうに言う。

「ほんとだね」

 だが、応える歩はそう深刻な声ではない。

 たとえ今夜ここに泊まるはめになっても別に何ら困ることはないからだ。

 特に今夜の予定はないし、そもそもここでは何度も寝泊まりをしている。

 前回の発掘調査の準備段階では、阪本を始め10人以上の研究員や上級生と何日も泊まり込んだ。

 研究室の一角には簡易のキッチンもあるし、誰となく買い込んでくる食料の備蓄もかなりある。

 枕や毛布なども常備されていて、『地震が来ても、ここなら当分快適な避難生活を送れるな』と冗談ではなく言える程度のものは揃っているのだ。

 一人で泊まれ…と言われたら、それはちょっと心細いかも知れないが、龍也が一緒なのだから、歩はこの展開にも何ら不安を感じていない。



「この雨だと駅に着くまでに溺れちゃいそうだねー」

 傘など最早役に立たないであろう雨足を見て、冗談めかして言う歩に応える声は普段より少し低い。

「…ああ…」

「仕方ないね。今夜はここに泊まろうよ、龍也」

「……そう、だな」

 いつも快活な龍也の、妙に間の空いた返事を不審に思い、歩が顔を覗き込む。

「…龍也、どうしたの?」

「え?」

 問われて龍也が顔を上げると、窓を叩いていた雨足が一段と激しくなった。

 鉄筋の建物の中にいてさえ、足元を掬われそうな錯覚を与えるほどの、まるで瀑布のような水の音。

 普段の声ではその水音にかき消されてしまいそうで、歩はいつもより少し声を大きくした。


「顔色悪いよ。もしかして、風邪でもひいたんじゃない? ほら、昨日シャワーのあと、いつまで経ってもシャツ着なかったから…」

 言いながら、その手を伸ばして額に触れてみるが熱はなさそうだ。

「熱はないね」

 だがそう言って引っ込めようとした掌は、龍也にギュッと握りしめられた。

「龍也?」

 握りしめる手が、細かく震えている。

 暗かったはずの空が一瞬弱い光を帯びた。

 かなり遅れてやってくる、遠雷の響き。


「あゆみ…っ」

 もうこれ以上はないだろうと思われていた雨の強さが、また少し強くなったと感じられた瞬間、歩の身体は強く龍也の腕の中に抱き込まれた。

 歩は抱きしめられたまま、小さく笑みを漏らす。


『もしかして雷が怖いの? 龍也ったら大きな身体してるくせに』


 そう言って龍也を冷やかそうと思った。

 のだが…。


 自分を抱きしめる身体の意外な冷たさに、歩は口にしようとしていた冗談を引っ込めた。

 おかしい。

 こんな龍也はみたことがない。

 いつも悠然としていて、歩のこと意外には冷静で、そして何より龍也の身体はいつでも熱くて、時には抱きしめられている歩がのぼせてしまいそうなほどなのに。

 自分の熱まで吸い込んでしまいそうなほど冷えている龍也を慌てて抱きしめ返し、歩は小さな掌でその大きな背を一生懸命に撫でた。


 明らかに普通ではない龍也の様子。

 だが、なんとなく、体調不良とかそういう類のものとは違うことを歩は感じていた。


『落ち着きを無くしている』


 熱があるだとか、頭が痛いだとか、そんな明白な症状が見えた方がいくらかましなのではないかと思えるほどの、尋常でない龍也の様子に、得体の知れない不安が歩の中で一気に募る。

 龍也の中で、いったい何が起こったのか。

 抱きしめ返していた腕を緩め、龍也の表情を伺おうとしたのだが、龍也の腕が緩まない。


「龍也…」

 出来うる限りの優しい声でその名を耳元に吹き込んでみれば、震える声で返事があった。


「…変、だろ? …俺、ガキの頃からこういう雨がダメなんだ」 

 無理におどけた口調を作ってはいるが、その顔が笑っていないであろうことは、見なくてもわかる。


「こういう、雨?」

 視線を窓に転じれば、ガラス窓の向こうは滝になっていた。
 まるで、滝の裏側に閉じこめられたかのようだ。


「…ああ、なんかこう、地面ごと根こそぎ持って行かれちまいそうな、そんな感じの雨ってあるじゃないか。ちょうど、今……」

 また空が光を帯びた。

 今度はさっきのよりも明るいな…と感じた瞬間、先ほどよりもずっと早く雷鳴がやって来た。

 確実に、近づいている。


「何か大切なものを、この手から奪われそうな気が、して…」

「…龍也…」


 歩の呼びかけは、さらに轟音となった雨音にかき消された。

 次の瞬間。

 窓から飛び込んできた真っ白な光に歩が目を眩ませたのと同時に、辺りの空気を引き裂くような振動が走った。


 突然訪れる暗闇。

 落雷の音は、大きすぎて咄嗟に判別出来なかった。

 鼓膜がジンジンと痺れている。




「…び、びっくりした…」

 喉を突いて飛び出してしまいそうだった鼓動がちょっと落ちついたところで、歩は小さく呟いた。

 そして気付く。

 抱きしめられたままではあるけれど、背中には冷たい床の感触がある。

 いつの間に転がってしまったのか、覆い被さっているのは龍也の大きな身体だ。


「龍也っ? 大丈夫っ?!」

 まさか意識でも失ったかと慌てたが、自分の身体が押しつぶされていないところとみると、龍也は恐らく自分の身体を支えてはいるのだろう。

「…あゆみ…」

 落ちてくる声に涙が混じっている。

「ど、どうしたの?」

「…あゆみ…あゆみ……」


 喉から無理矢理に絞り出したような、苦しそうな声。

 こんな声には、覚えがある。


 ――四年前、お前がここから落ちたとき、私も後を追えばよかった…。


 数えることができないほどの昔々、竜翔の『来世』を守るため、その愛を全身で拒み続けていた鈴瑠の背に投げられた、竜翔の言葉。

 苦渋に満ちた魂の嘆きの声を、あの時の自分はどんな思いで聞き取ったのか。

 そして、今、何故龍也が『あの時』を思い起こさせるような変化を起こしたのか。

 灯りの戻らない真の暗闇の中、一瞬弱まったように見せかけて再び容赦なく降り出した雨の、ただの雨とは思えない、災いを予感させるような激しさに歩の記憶が解ける。


 覚えていても、思い出したくなかった、創雲郷をこの地上から消し去った、あの時の、雨。

 本宮が押し流され始めた時の、あの音は、こんな感じではなかったろうか。


「…何処へも行くな!」

 龍也の腕の拘束がきつくなる。

「たつや…」

「お前は私のものだ…!」


 明らかに普段の龍也のものではないその口調に、歩の全身が震えた。

 再び空が光り、同時に雷鳴が地響きまでも伴って落ちてくる。


「りん……ゅ…」

 だから、その呟きは落雷にかき消され、ほんのわずか、歩の耳を掠めただけだったのだが…。

「…りゅう……か?」

 そして、目を見開いた歩の呟きも、続く3度目の落雷に、かき消され…。


 歩の首筋に埋められていた龍也の頭が、ぐらり…と傾いだ。


「竜翔!」


 ありったけの声で呼んだ瞬間、今度は『あゆみ…』と小さく呻いて、龍也の身体が意志を無くし、歩の上に崩れ落ちた。

 自分よりも遙かに大きく逞しい身体に圧迫され、歩の胸が詰まる。

 息が、苦しい。

 唐突に涙が溢れ出る。

 歩は思い切り腕を突っ張って龍也の身体を返し、その身体の下から抜け出した。

 けれど涙は収まらない。苦しいのも収まらない。

 呼吸は自由を取り戻したけれど、胸が、痛い。

 暗闇の中、龍也の身体に触れてみる。
 いつもより少し早めの鼓動。


「……竜翔…」

 厚い胸に小振りの頭をそっと乗せ、その鼓動を聞く。

 それは、今、確かにこの世に生きている、証。


「…りゅう……たつ、や…」

 ずっと彼方の名ではなく、今ここで力強く生きている人間の名を呼び直して、歩はそっとその頬を撫でる。


「…龍也…ごめんね。龍也も、辛かったんだね…」

 何もかもを思い出した自分とは違い、龍也が自覚のないままに苦しんでいたのであろうことに歩は漸く気付いた。


 ――僕は、あの時も、あんなに竜翔を追いつめたのに…。


 生まれたときから統治者になるべく教育を受け、誰よりも『自分を律する』ということを知っていた竜翔を、断崖へ身を投げさせてしまうほど追いつめたのは自分…だった。

 あの時も、そこにあったのは何よりも深い、愛、だったのに。

 だから、何も思い悩むことなどなかったのだ。
 竜翔も龍也も、鈴瑠を、そして歩をこんなにも愛してくれているのだから。



 雷鳴が次第に遠くなる。

 耳障りだった雨音も、いつの間にか、遠い昔に竜翔と通った名もない泉に湧く水音のような優しさに変わっていた。


「龍也…、もう大丈夫、だよ」

 横たわる龍也を、暗闇の中、抱きしめながら歩はそっと唇を寄せる。 

 触れた唇はいつもと同じ温もりで、歩は小さく安堵の息を吐く。


「龍也はね、もう何も思い出さなくていいんだよ。だから安心して…」


 このまま、過去も今も、そして未来も、龍也は自分が抱きしめて離さないから。

 ゆっくり髪を梳くと、龍也が小さく吐息を漏らした。

 愛しさが、募る。



「ずっと、一緒だよ。だから、僕だけを見つめていて…ね、龍也」