憧れのこっち側

前編




「おはよう、なーちゃん」
「おはよ、清文」

 いつもの時間、いつもの電車、いつもの車両。
 そこでいつものように俺たちは朝の挨拶を交わし合う。

 この春、3年ぶりに再会した幼なじみの清文と俺は、あれ以来ずっと同じように通学を共にしている。

 時々、どちらかに学校で急用が出来たときも、専用携帯電話で連絡を取り合って…やっぱり同じ電車で帰っているんだ。


『ガタン』

「うわっ」
「おっと」

 今日もきっちりと混んだ車内。でも、電車が揺れても俺には何の心配もいらない状態なんだ。

 それは…清文が支えてくれているから。

 もちろん、俺だってこの状況を容認しているわけではない。

 だって、俺だって男なんだぞ。
 しかも、3年前までは俺がこんな風に清文を守ってやっていたってのに、今やすっかり立場は逆転。

 俺はまるであつらえたかのようにすっぽりと清文の腕の中に収まって、これでもかってくらいきっちりと守られているんだ。

 それに…。

「あ、あのさ、清文」
「ん? なに? なーちゃん」

 見下ろしてくる瞳は、そりゃあ優しげに微笑んで、嬉しそうで…。

「ちょっと、暑いんだけど…」

 ここ数日、すっかり大人しくなっていた梅雨前線が今日はまた急に活発に動き出したのか、どんよりと曇った空同様に、身体にまとわりつく空気はみっしりと湿り気を帯びていて、冷房が入った車内でも不快指数はかなり上がっている。

 だから密着した体温はさらにそれを助長するわけで…。

「…あ、ああ、ごめん」

 少し困ったような顔をして、清文が俺の背中に回していた腕を緩める。

 さっき電車が揺れた時に支えてくれたそのまま、清文は俺をギュッと抱きしめていたんだ。

 緩んだ腕にホッとするのは、暑さから解放されたから…ばかりではないことに、俺はもうとっくに気がついている。


 あの日…遊びに行った清文の家で、一気に3年間の空白を埋めて以来、身体に回される腕も、送られる視線も、清文から感じる何もかもが熱を帯びていて、俺は戸惑うばかり。

 けれど…。


「なーちゃん、8月になったらうちで合宿しない?」

 俯いてしまった俺の耳元で、清文は囁くように言った。

「は?合宿ぅ?」

 何のことだと顔を上げた俺の目をジッと見て、清文は小さく頷いた。

「そう、合宿。…っていっても、実は俺が一人っきりになって寂しいからなーちゃんに泊まりに来て欲しいだけ…なんだけど」

「一人っきりって…。おばさんたちは?」

 清文のうちは、お母さんと、それから今年の始めに再婚したばかりの義理のお父さんの3人暮らしだ。

「1週間ほど旅行だってさ」
「清文は?行かないのか?」

 おじさんとはまだ3回くらいしかあってないけど、あの感じだと『清文も一緒に行こう』って言いそうなんだけどな。

「一緒に行こうとは言われてるけどな」

 やっぱり。

「じゃあ…」
「勘弁してくれよ。あの二人、事実上の新婚旅行だぞ」

 あ、そうなんだ。…って、俺が照れることはないんだけど。

「いい年して、そんなお邪魔虫出来るわけないだろ?」

 清文は小さく笑いを漏らす。

 清文の両親が離婚した理由ってのは、はっきり聞いたことはないんだけど、ともかく新しいお父さんとはすごく円満で、その点では何にも心配がない…っていってたっけ。

「そりゃそうだよな」

 つられて俺も笑ってしまう。

「でも、まあその前にもいろいろと計画たてなきゃな」
「計画?」
「そう、楽しい夏休みの計画だよ」


 期末テストを無事に終えて、あと数日で待ちに待った夏休み。

 大学受験に備えて早くも予備校へ通う同級生もいるにはいるけれど、さすがにまだ1年生だから、進学校とはいえ俺の周りはおおむねのんびりムードだ。

 それに、去年の夏休みは高校受験の勉強でほとんど遊んでいないから、その鬱憤晴らしもあるし。

 しかも俺が通う華南学園も、清文が通う等綾院高校もバイトは禁止。

 これはもう『1年生の間くらい存分に遊びなさい』っていう天のお告げに違いない。


「泳ぎにいったり映画に行ったり…」

 頭の中でシミュレーションでもしているのか、思わずその頭を撫でてやりたくなるような夢見がちの表情で清文は次から次へと計画を並べ立てる。

 でも、それって、ほとんどデートコースじゃないか。

「き、清文…」
「ん?」
「その計画じゃ、小遣いがもたないぞ」

 デートコースだな…なんてこと言えないから、そう言ってみる。

「…あ〜、そうか」

 たしかにちょっと無謀かな…なんて、清文は暫くぶつぶつ言ってたんだけど…。

「そうだ!毎日どっちかの家で遊んでればいいんだよ」
「へ?」
「そうすれば、必要なのは電車代だけだし」

 我ながら良いアイディアだと言わんばかりに清文は俺に同意を求めてくる。

「ま、毎日?」

 そう尋ね返すと、清文は表情を曇らせた。

「…俺は毎日でもなーちゃんに会いたい。でも、なーちゃんは…」

 その傷ついたような表情に、俺は酷く戸惑う。


『なーちゃんが好き』


 はっきりとそう言う清文。

 もちろん、俺だって清文のことは好きだ。誰よりも大切な友達だから。

 でも、清文が言う『なーちゃんが好き』っていう言葉の響きの中に、俺はなんだか俺と違う思いを感じてしまって、気楽に『うん、俺も』って返せない雰囲気なんだ。

 そんなこんなで、戸惑いながら、それでも楽しいには違いない毎日の通学なんだけれど…。



 …ん…。こ、これは…。

 俺の背後で妙な動きをする手…。

 こんな手の動きに俺は情けないながらも覚えがある。

 通学電車で清文に再会するまで、毎日俺を憂鬱にしていた『あの手』と同じだ!

 目の前には俺を見つめる清文。

 …どうしよう…。

 狼狽えている間にも、後ろの手はもぞもぞと腰から下を目指していて…。


「…なーちゃん?」

 清文が不審気に眉を寄せた。

「…き、清文…」

 我ながら情けないと思いつつ、やっぱり俺は目の前に清文に助けを求めてしまう。

 俺の声の尋常でない様子に、清文はグッと俺を抱き寄せると、背後に手を回した。


「あんた、何してるんだ」

 俺と話しているときにはついぞ聞かれない低い声。

「うわっ…と」

 でも、手を捻りあげられたと思しきヤツの声は、俺にとって思いっきり覚えのある声だった。 

「…おい…」

 混雑の中、首だけ捻って振り返ってみれば、そこにいたのはなんと、クラスメートの池田だった。

「理〜、これ何とかしてくれよう〜」

 捻りあげられた手を涙目で見上げながら池田が言う。

「…何、知り合い?」

 清文は眉間の皺を一層深くして聞いてくる。

「うん、クラスメートの池田。…って、ほら、小学校も一緒だったって」

 確か清文と同じクラスになったこともあるはずだ。

「だから、手、離してやって」
「でも…」
「いいから。どうせただの悪ふざけだって」
「ただの悪ふざけで同級生に痴漢行為ってかっ」
「きよふみっ」

 っちゃー。いくら女子高生が多くてめっちゃうるさい車内とは言え、今の清文の一言で、周囲のいくらかの人が『何事』って顔で振り向いた。

「いい加減にしろって。ほら、覚えてるだろ、池田だよ」
「…覚えてない」

 ぶすっと言い放って、渋々の様子で清文は捻っていた池田の手を離した。

「ごめん、ちょっとふざけただけなんだけどさ」

 清文の大魔人顔に恐れをなしたか、言われもしないうちから池田は謝ってきた。

「いいけどさ、大概にしてくれよ、こんな悪趣味な悪ふざけ」
「…うん、ごめん。理が可愛いからさぁ、ついフラフラッと…」

 …って、また余計な事を言う〜。

 見ろよ、ほら、清文の顔。眉間の皺が彫り込まれちゃって、ハンサム台無しじゃん。

「…にしても、きよふみって…」

 懲りてないのか天然なのか、池田が清文の顔を見上げる。

 池田もそこそこに長身なんだけど、清文には及ばない。

「覚えてるだろ? 矢野清文。今は有本清文だけどさ」

 俺がそう言うと、池田は考え込んだ。きっと、記憶の中の清文を捜してるに違いない。

「…え?…えええ?! あの、チビスケの清文っ?」

 うわっちゃー。池田〜、お前また地雷踏んだよ…。

「嘘だ〜! 清文って、誰よりもちっこくて誰よりも細っこくて、いっつも苛められてめそめそ泣いてたじゃん!」

 …俺、知らないっと。

「悪かったな。そう言うお前は俺のこと苛めてた池田だろう」

なんだ、ちゃんと覚えてるんじゃん。

「う。」

 …なんて言ってる場合じゃないか。さすがに天然の池田も、清文の氷点下の声で我に返ったようだ。

「…ええと、その節はすみませんでした」

 ほんとにバツが悪そうに謝る。

「…ふんっ、どうでもいいけどな。昔のことなんて」

 どうしようもないくらい不機嫌な声の清文。

「だがな、池田。俺の事なんてどうでもいいけど、この先こいつになんかしたら、俺、マジでキレるからな。覚えとけよ」

 恐ろしい声で脅しつけると、池田はブンブンと首を縦に振って『わっ、わかりましたっ』って、マジで怯えてた。可哀相に。

 それから俺と池田が先に電車を降りるまで、そりゃあ大変だった。

 俺と池田が言葉を交わすたびに、清文はこれ見よがしに俺を抱きしめてきて、池田は池田で目を泳がせていて…。

 そして、帰りの電車で俺は清文に釘を刺されたんだ。

『友達だからって信用するな。なーちゃんを狙ってるヤツは多いんだから』って。

 そんなはずないって。

 だいたい、清文の通う文武両道の男子校・等綾院ならともかく、俺の通う華南学園は歴とした共学校だ。まあ、かなり男子の方が多いけど。

 けど、可愛い女子も結構いるから、俺を見てどうこう思うような輩は絶対にいない。いてもらっちゃ困る。

 そんなことより、この頃はそういう清文の方がよっぽど危険のような気がするんだけどな。

 この先清文がどうしたいのか…俺は今のままで十分に楽しいんだけれど、どうも清文はそうでもないらしくて、エスカレートしてくる清文のスキンシップと妙に生々しくて熱い視線に俺は戸惑うばかり。

 初めて清文のうちに行ったときにキスまでされちゃったけど、そのあとは何とか逃れている。

 一度床に押さえつけられちゃったときには、情けないことに、怖くて涙が滲んでしまった。

 もちろん清文は慌てて謝ってきて、その後はまた元通りだったんだけど。




「なーちゃん」

 もうすぐ俺が降りる駅。

「明日の帰り、俺んちおいでよ。夏の計画、一緒に立てよう」

 ニッコリを微笑む清文は、そりゃあほれぼれするくらい格好良くて。

 曖昧に頷く俺に、ちょっと困ったような笑いを見せながらも、清文は『何処へ行こう』とか『家で遊ぶときは何をしよう』とか『あ、夏の課題も一緒にやろうな』とか、すっかり心は夏休みモードで浮かれてる。

 俺だって清文と一緒にいるのは好き。
 清文の事だって好き。

 どうして今のままじゃダメなんだろう…。

 そして、あれ以来清文に恐れをなしたのか、池田が同じ車両に乗ってくることはなかったけれど、その代わり俺たちにはまた新しい出会いが待っていた。




 それは終業式の日のこと。

 ホームルームが長引いてしまった俺を、清文はいつものように俺の乗る駅でわざわざ途中下車してホームで待ってくれていて、そうして二人で乗った電車はやっぱり中途半端な時間のせいでとても空いていて…。


「見つけた、理」


 並んで座っていた俺たちの前に立ちはだかったのは、それは背の高い美人…じゃなくてハンサムだった。


後編へ続く

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