恋・爛漫
〜冬の章〜
2
![]() |
「いっただっきま〜す」 一番元気な声が行利。 その次が、ちょっと恥ずかしいけれど、俺。 いつもこんなに美味しいものを食べているせいか、余裕なのが笠永くん。 お母さんはニコニコを笑って見ていて、楽しい夕食タイムの始まりだ。 「あ、そう言えば行範、今朝、行正からメールが入ってたんだけどね」 「へえ、珍しいね。あのメール無精が」 ゆきまさ…? 誰だろう? 笠永くんのお父さんは、彼が小さいときに亡くなっているらしいし…。 ゆきのり、ゆきとし、ゆきまさ…。 きっと親戚だな。うん。 「あちらでの研究にケリが付いたから帰ってくるって」 「へ〜。そうなんだ。こっちの教授も矢の催促だったからな。 僕の顔を見ると『行正はまだ帰ってくる気はないのか』って、この3年間いちいちうるさくて。僕に聞いても知らないってのに」 「早ければ明日の飛行機で帰って来られるみたい」 そう言ってにこっと笑ったお母さんに、行利が聞いた。 「行正兄ちゃん、帰って来るんだ」 「そうなの。行利は、もう何年も会ってないから覚えてないんじゃない?」 「うん、そうかも」 そして、そんなやり取りをキョロキョロ見渡していた俺に、笠永くんが言った。 「僕の兄なんです」 は? 「お兄さんって…。笠永くん、一人っ子じゃなかったんだ!」 びっくりだ。 笠永くんと知り合って、約半年。 このうちにお邪魔するようになったのもそう大差ない時期だけど、彼にお兄さんがいたなんてこれっぽっちも知らなかった。 「アメリカの大学に行ってたのよ」 「え?じゃあ学生さんですか?」 「ううん、違うの。こちらの大学から派遣されて、研究に行っていたのよ」 ってことは、先生? 「悔しいことに、僕がいる研究室の助教授なんですよ」 助教授〜? しかも、笠永くんのって…、バリバリの国立じゃないか〜。 「あ、あの、おいくつなんですか?お兄さんって」 俺は、思わずお母さんに縋るように聞いてしまう。 「行範の10歳上なの。私が20歳の時の子よ」 ニコッと綻ぶように笑って、お母さんはすごいことを言った。 笠永くんの10歳上ってことは、お兄さんは30歳。 そのお兄さんを20歳の時に産んだお母さんって…、今…、50歳っ?! 嘘だろ〜!! 「あ、千里さん、今おばちゃんの歳、計算したでしょ?」 絶句している俺の、痛いところを行利が突く。 「あう〜」 「大丈夫、母さん慣れてるから」 笠永くんもお母さん譲りの綺麗な顔でにこっと笑った。 「うふ。驚いてもらえるのが快感なのよね〜。ちさとちゃん、ナイスな反応、あ・り・が・と」 その日お母さんは、いつもにまして上機嫌で、なかなか俺を離してくれなかった…。 |
☆.。.:*・゜ |
「はぁぁぁぁぁ…」 俺は盛大にため息をつく。 ここは『あの』紫雲院前。 竹林を抜けた先にあって、幹線道路からはかなり離れている。 途中から車道はなくなるので、俺は車を降りたところからここまで15分の緩い山道を上がってきたんだ。 まあ、寒い中、いい運動にはなったけど…。 ちなみに俺一人。 支店長命令で社章も外してきた。 姑息な手だなあと思わないでもないけれど、だいたい、支店で一番ぺーぺーの俺一人に行かせて同情を引こうってやり方そのものがすでに腐ってるよな。 ただ、ここに至るまでの調査は支店をあげての大騒動だった。 総出で集めた情報によると、先日10年に及ぶ交渉をうち切った某業界最大手は、実は交渉はおろか、アポを取る段階で10年足踏みをしたらしい。 さらに、紫雲院には電話がなく、連絡先に住職は不在。 不在どころかここ何年も住職の姿は目撃されていないらしい。 って、ことはもしかして紫雲院はすでに捨てられた荒れ寺か…とも危惧されたんだけど、どうやらそうではないらしい。 高い土塀越しに覗く木々は、いつも、いつの間にか綺麗に整えられているということだ。 なるほどこうして門前に来ても、荒れた感じは全くない。 それどころか、深い緑に守られながら、清冽な空気を放っているように感じられる。 俺はこの空気を感じると、無性に中が見たくなった。 今でも記憶に焼き付くあの風景を、この目で見たい…! 俺は、そっと門に近寄った。 もしかしたら、隙間から何か覗けるかも…。 そう思って少し体重をかけた門が、いきなり…。 「うわあっ!」 いきなり開いたんだっ! 「おや。これは申し訳ない。よもや人がおいでとは思いませんでした」 頭上から声がして、つんのめった俺は、何故か妙な安らぎ感を得た。 そう…これは焚きしめられた香の匂い… 俺が顔を埋めているのは…。 「うわぁっ」 墨染めの衣…! 「大丈夫ですか?」 穏やかにかけられた声に、俺は漸く顔をあげた。 俺よりずっと高いところにあるその顔は…。 驚いた。 有髪の僧侶だったのだ。 しかも、俺とあまり変わらないくらい若く、精悍で鍛えた感じの…。 「あっ、す、すみませんっ」 慌てて俺は、握りしめていた衣を離す。 「お怪我はありませんか?」 彼…若い僧侶は俺の両肩を握ったままで聞いてくる。 「はいっ、大丈夫ですっ」 そう言った俺の目は、すでにその僧侶を通り越してその向こうを見ていた。 紫雲院の門が…開いている…。 それは写真と同じ風景ではないのだけれど、でも、空気が繋がっているのが俺にはわかった。 こうして俺は、会社員として一番やってはいけないことをしてしまったのだ。 …そう、俺は完全に『仕事』を忘れてしまったんだ…。 「何かご用でしょうか?」 俺が我に返ったのは、その言葉を聞いたときだった。 「あ、すみませんっ、決して怪しいものじゃないんですっ」 慌てて言い募った俺に、彼は何故だかクスッと笑いを漏らした。 「普通、怪しい人は自ら怪しいですとは言わないものでしょう」 そりゃそうだ。 揚げ足を取られたような格好になった俺に、彼はまたしても笑みを漏らして言う。 「可愛い人だ」 はぁっ? 「紫雲院にご用でしたら承りますが」 って、彼はここの人間なのか? 「あ、あの、実は…」 声をかけてもらった嬉しさから、俺は――やっぱり完全に仕事を忘れ去っていて――いきなり学生時代に見せてもらった写真のことを、思いっきり熱く語ってしまったんだ。 『枯山水』の向こうに見えた、悲しげに佇む四阿と、空気が泣いているように見えたことなんかを…。 すると、彼はニッコリと笑って俺の手を取った。 「どうぞ、お入り下さい。紫雲院の庭にご招待いたしましょう」 え? 突然の申し出に、俺は…目をまわしてしまった…。 |
☆.。.:*・゜ |
「そうですか…写真を…」 「はい、プロのカメラマンが撮ったとか、そんなものではなかったように思います。普通に、何気なくシャッターが切られたような写真だったんですが…」 「それでも、ここの空気はあなたに伝わったわけだ」 俺と彼――自己紹介によると、隆幻(りゅうげん)さん――は、あの四阿が見える縁側に座って話をしている。 写真っていうフィルターをはずして俺の前に現れたこの風景は、思っていたよりも、もっともっと悲しくて、でも、澄んだ空気で、俺はしばらく言葉をなくして座り込んでいたんだ。 確かに気温も低いけれど、ここの空気の痛さは、そればかりでは絶対にない…。 「恐らくその写真を撮った教授は、亡くなった先代の住職の友人でしょう。随分と前の話しですが、確かにここに出入りが許されていた人が何人かいたと聞いていますから」 見た目の若さに似合わないほど、ゆったりとした口調で話す隆幻さん。 …そうか、住職は代替わりをしているのか。 今はどんな人が住職なんだろうか? 門を開けることを頑なに拒んだ人物。さぞや厄介な人物なんだろうなぁ…。 「ここ、紫雲院は随分と皆さんから誤解をされています」 「え?」 意外なタイミングで飛び出した意外な言葉に、俺は思わず目を丸くした。 そんな俺を見て隆幻さんは優しく微笑んだ。 「ここは…特に秘仏があるわけでも秘宝があるわけでも何でもない。ただ悲しい伝説が残っているだけの小さな寺なんです」 悲しい伝説…。もしかして、俺が感じていた空気はそれ? 「そうですね、この空間の色を見分けたあなたにはお話ししてもいいかもしれません」 『あくまでも、代々の住職による口伝なのですが』…と、前置きして、隆幻さんは静かに語りだした。 それは、ずっと昔、京都に朝廷があって、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられていた頃の話。 ここ、東山の麓の屋敷には、時の権力者の何人もの妻と子供たちがいたそうだ。 そしてその母親たちは、お互いに何とか我が子を跡継ぎにと躍起になっていたらしい。 それがあるとき、血なまぐさい事件を引き起こした。 「嫡男が毒を盛られて死んでしまったのです。毒を盛ったのは、男子を生んでいた側室の一人だといわれています。 側室はその子共々捉えられ、幽閉されて裁きの時を待つことになりました。そして…」 隆幻さんはそこまで言って言葉を切った。 遠い目で四阿を見つめる。 「やがて裁きが下り、二人とも処刑されたのだそうです」 淡々と語る隆幻さんは、その庭の風景に溶けてしまいそうで…。 「『その日』を待つあいだ、側室の子は仏像を彫り、腹違いの兄の菩提を弔ったと伝えられています」 隆幻さんの大きな手が伸びてきて、俺の頬に触れた。 そっと拭われて、俺はやっと自分が涙を零していることに気がついた。 「その処刑によって、未完成のまま残されたその仏像が、ここ紫雲院の本尊。 仏に願いを刻み続けた場所が、あの四阿…」 俺はまた、いい香りのする墨染めの衣に顔を埋めていた。抱き寄せられて。 「…そう、ここが、幽閉されていた場所なのです」 ああ、だからこんなにも悲しい思いが満ちているんだ…。 「あなたは優しい人だ…」 呟くようにいう隆幻さん。 俺は、言葉なく、ただ闇雲に首を振るばかりで…。 「ここが今まで非公開だったのは、先代がなくなった時、後を継ぐにはまだ私が幼かったからです。 まあ、確かに先代に公開の意志はありませんでしたが」 え…?ってことは…? 俺は慌てて顔をあげた。 「もしかして、ここのご住職は…」 「私です」 微笑みと同時に繰り出されたその言葉に、俺は大慌てで身体を離す。 だいたい、今まで抵抗なく抱かれてたってのもおかしな話しなんだけど。 「す、すみませんっ、失礼なことを…っ」 泡を食ったような俺に、それでも隆幻さんはさも可笑しそうに笑った。 「あなた、何か失礼なことを私になさったと?」 は?…そんな風にいわれてしまうとなんだか…。 「住職は爺さんだという先入観があっただけでしょう?」 それはそうだけど…。 「私が若い…ということが、あなたの誤解を招いたのだとしたら、それはあなたの罪ではなく、私の至らなさが招いた罪だ」 ん…?なんだか小難しい言い回しだぞ…。 「でも…」 「それよりも、あなたの名前を私は知りたいのですが」 え?俺って…。 そういえば、隆幻さんは一方的に名乗った後、俺の手を引いて中へ入ってしまったんだっけ。 「あ、わた…」 と、ここまで言ったとき、俺はついに思いだした。 そうだ、俺はここへ、し・ご・と…で来たんだったっ!! 「どうしました?」 綺麗な顔で包み込むように微笑む隆幻さんを、俺は思いっきり踏みにじったような気分になる。 どうしよう…。 でも…でも…ここで知らん顔なんて出来ない。 見ず知らずの俺を、中へ入れてくれて、話を聞かせてくれて…。 もう…怒られても仕方がないや…。 ここで嘘をつくのは…いやだ。 俺は意を決して上着の内ポケットを探る。 そう、サラリーマンの必須アイテムを取り出すためだ。 「私は…」 俺は白い紙をさしだした。 「TOJツアーの海塚千里と申します」 思いっきり頭を下げて。 だから、その時の隆幻さんの表情はわからない。 怒っているのか、それとも、呆れているのか…。 押しつぶされそうな静けさの中、さっきと変わらない調子で隆幻さんの声が降りてきた。 「それで、ご用件は紫雲院の開門について…ですか?」 「すみませんっ。騙すようなことになって…っ」 俺は本当に悔しかった。 いつか見てみたいと願っていた紫雲院と、こんな出会い方をするなんて…。 「かまいませんよ」 は? 「別に隠そうと思っていたわけではありません。…この小さな空間を心から愛して下さる方にならお見せしたい…いえ、ぜひ見ていただきたいと思います」 俺は思わず頭を上げた。 そこには、先ほどよりもっと優しい…そう、神々しいほどに微笑んだ隆幻さんがいた。 「あなたならわかって下さるはずだから…。千里さん…」 俺は悪戯を許された子供のように、肩を震わせて泣いてしまった。 「本当に、あなたは優しくて…可愛らしくて…純粋だ…」 温かく抱きしめられて、俺の涙はますます止まらなくなった…。 |
3へつづく |