「射し込んだ光は…君」

岳志&陽日〜二人の出会い


 


 深夜の繁華街。
 中規模の地方都市でも、夜になると繁華街の賑わいは華やかさを増す。

 しかし、それはあくまでも『表の顔』。
 一筋裏道へ入るだけで、表の華やかさとは違った顔が見えてくる。

 表通りを少し曲がった路地の奥。
 見落としてしまいそうな小さな看板は、そこが喫茶店であることを示している。

 ビルの谷間に隠れるような佇まいは、その場所がどういう所であるかを知らなければ、通りすがりに入ってみようと言う気は起きない。

 営業は夜の7時から真夜中の3時。
 くすんだ外見を裏切るように、内部は落ち着いた清潔感を漂わせている。

 カウンターの中でサイフォンの様子を見るのはマスター。

 50絡みのようなのだが、実際の年齢は誰も知らない。
 家族はいるのか、何処に住んでいるのか、それも、誰も知らない。

 いつも穏やかに微笑んで、話し上手なのだが、決して無駄な口を叩かない。
 慎重に選んで告げられる言葉は、聞く者の、ささくれた心をいつの間にか癒してしまう。

 そして、従業員は僅かに1人。
 それも、この春入ったばかりの少年。

 長年1人で店を切り盛りしてきたマスターに何の変化があったのか、常連たちは驚いたものの、初日からしっくり馴染んでしまった少年に、誰もがなんとなく納得させらてしまったのである。


 夜7時、この店には『出勤前』の人間が立ち寄って英気を養う。
 そして深夜を回ると、こびりついた夜の顔を脱ぎ捨てて、疲れを癒そうと、また集う。

 誰もが、静かな優しさを湛えるマスターと、少年の笑顔を目的にやって来る。

 少年の名は『陽日』。
 中学を卒業したばかりの15才。

 客の誰もがみな、最初は陽日をアルバイト店員だと思いこみ、『昼間は高校があるから大変だろう?』などと声を掛けるのだが、そうではないことを知っても誰も詮索したりはしない。

 ただ、他のどんな職場よりも、ここは陽日にとって優しい場所であろうことを知っているから、誰も何も言わず、見守るだけだ。





「陽日くん、今日はもういいから帰りなさい」

 まだ11時を回ったところだ。

「え、でも…」

 陽日は洗い物を終えた手を拭きながら、マスターを見上げた。

「今夜はたぶん、忙しくはならないから」

 それは、長年の経験からなのか、それとも勘なのか、外れたことがないのは、僅かに1ヶ月のつきあいである陽日にもよくわかってはいるのだが。

 それにしても、陽日はバイトではなく、正式に月給で雇われている従業員だ。
 時給で雇われているのなら、早く上がればそれだけ収入が下がるだけで、ある意味、遠慮はいらないのだろうが、月給だとそうはいかない。
 19時から3時。それが、就労条件だ。
 だから、『帰っていいよ』と言われて、『はい、そうですか』という訳にはいかない。

 それに…。
 陽日はこの店と、マスターの傍が好きだった。
 特に何を話すでなくとも、ここにいるだけで気持ちが安らぐ。

 そして、ここになら『いてもいい』ような気がするから…。

「あの…お邪魔にならないようにしますから、もう少しいてはいけませんか?」

 陽日は遠慮がちにそう訊ねる。

 するとマスターは、静かに微笑み返してくれた。
 陽日もつられて笑い返す。

 その時、ドアに取り付けられた小さなウィンドベルが音を立てた。

「いらっしゃ…」
「ほらっ、早く入ってっ!」

 騒々しく入ってきたのは、近くのラウンジのホステス、晃子。
 年の頃は、見ただけでは判別がつかないのだが、姉御肌のせいか、年若いホステスたちからも慕われている。

「ああ、よかった。他にお客いないわね」

 そう言うと、一人の男の首根っこを掴んで引きずり込む。

「マスター、陽日ちゃん、ごめんね」
「いらっしゃいませ、晃子さん」 

 可愛い笑顔向けると、晃子が柄にもなくデレッと笑う。

「ふふ、やっぱりいいわね〜、陽日ちゃんの笑顔は」

 その声に、引きずり込まれてきた男が顔を上げる。

「花城さん、お久しぶりです」

 マスターが、穏やかに声をかけた。

 男はばつが悪そうに頭を掻いた。

「お久しぶりです…。すみません、晃子さんがぎゃあぎゃあと…」

「何よっ、人のせいにする気?!」
「まあまあ…。今、温かいの淹れますから、どうぞお掛けになって…」

 言いながら、その手はすでに新しいコーヒーの準備を始めている。

 陽日も慌ててカウンターに入り、カップを暖めようとする。

「あ、マスター、私はいいわ。すぐに戻らなきゃなんないから。それより、こいつっ!マスター、お願い、説教してやってちょうだいねっ」

 足は早くもドアに向かっている。

「店が終わったら、寄るから。陽日ちゃん、待っててね〜」
「あ、はい。お待ちしています!」

 晃子は陽日の声に、満足そうに微笑んで出ていった。


「うー、お節介なヤツめ…」

 男、花城岳志はそう言うとカウンターに突っ伏した。

「また、トラブルですか?」

 責めるでも何でもなく、ただ、若干笑いを含んだマスターの声。

「…お客がねー、くだんねぇ曲リクエストしてきやがって…。 いつもなら軽くあしらってやるんだけど、俺…ここんとこ虫の居所が悪いかったから、つい、喧嘩になっちまって…」

 岳志の手が、上着をごそごそと探り出した。
 すかさずマスターが煙草をさしだす。

「あ、どーも」

 岳志は右手を軽く上げると、遠慮なく一本抜き取った。  
 当然、岳志が銜えたタイミングで、火もでてくる。

 岳志はマスターのこの一連の動作が好きで、いつも、わざと煙草を探す振りをする。
 どうやら、マスターにはばれているらしいのだが…。

 岳志が一つ、煙を吐くのを待って、マスターが静かに声をかけた。

「花城さんは、曲が気に入らなかった訳じゃないでしょう?」

 煙草を持つ手が、一瞬震えた。

 しかし、マスターはそれっきり何も言わない。
 サイフォンの中の水が、泡を立てる音だけが流れる店内。

 陽日も、ただジッと二人の様子を見つめていた。



「…俺…。弾くことが苦痛なんです…。ぜんっぜん、楽しくなくて…」

 絞るように呟いた岳志の言葉の意味がわからずに、陽日は思わずマスターを見つめる。

 そして、その視線に気付いたマスターが、漸く言葉を継いだ。


「花城岳志さんはね、ピアニストさんなんだよ」
「ピアニストなんて、そんな上等な…」
「すごーーーーーーーい!」

 岳志の、自虐的な発言は、陽日の感嘆の声に、あっさりとかき消された。

「ピアノが弾けるなんて…。僕…触ったことないです。でも、あの音すごく好きなんです。あ、ピアノが弾けるってことは、楽譜が読めるってことですよね!」

 目を輝かせて話しかけてくる陽日に、岳志は押され気味に頷いた。

「あ…ああ、まあ。楽譜は読めるけど…」

「すごい、すごいー!僕、楽譜読めないんです。すごいなー、あんな宇宙語みたいなのが読めるなんてー」

「ぶっ」

 あまりの発想に、岳志が小さく吹き出した。


「あ…」

 とたんに真っ赤になる陽日。

「すみません…」

「マスター、この子可愛いね。いつの間に、こんなおもしろい子入れたんです?」 

 さっきまでのふさぎ込みは何処へやら。 岳志は、浮上してきた気分のまま、嬉しそうにマスターに尋ねる。

「一月ほど前にね、学校を卒業してうちへ来てくれたんですよ」

 サイフォンから香ばしい芳りの液体が注がれる。

「あ…あの、初めまして。僕、香野陽日と言います…」

 まだ、紅い顔のままで陽日が名乗った。

「まさひ…?変わった名前だね。どんな字書くの?」
「えっと、太陽の陽に、お日様の日です」
「へー、それでまさひって読むんだ。それにしても明るい名前だなぁ」

 その言葉に、陽日が少し照れたような表情を見せた。

「きっと、明るい子に育って欲しいっていう願いが籠もってるんだな」
「そうだと思います」

 そう、確かにそう願ってつけられたと聞いた。
 つけてくれたのは、親ではなく、施設の職員だったのだが。   

「でも、卒業してここへ…ってバイトじゃないの?」
「はい」
「え?卒業って、中学だろ?」
「そうです」

 岳志はなぜここへ放り込まれたのか、もうすでに完全に忘れていた。
 目の前の笑顔につられて、どんどん話を弾ませる。
 マスターは、そんな二人を静かに見守っていた。





 翌日の深夜、岳志はまた店にやってきた。
 岳志も常連には違いないのだが、連日現れると言うことは、今までにはなかったことだ。

「いらっしゃいませ」
「こんばんは、マスター」

 昨日とうって変わった上機嫌だ。

「この時間にお越しと言うことは、今日はちゃんと…」
「ああ、今日はちゃんと弾いてきたよ。なんだか気分が乗ったから」 

 カウンターに腰を下ろすと、あたりをキョロキョロと見回す。

「陽日くんは…?」

 わかっていたとは言え、あまりに素直な反応に、マスターの口元に笑みが漏れる。

「9時には帰しました」
「え?どうして?」
「2、3日前から気になっていたんですが…、どうやら風邪をこじらせたようで…」

 その言葉に、岳志は顔色を失った。

「それ、俺のせいだ…」

 マスターは不思議そうな顔を向けてくる。

「俺、昨夜送っていったとき、なんだか別れ難くって、しばらく公園で話し込んじゃったから…。きっとそれで酷くなったんだ」

「そうでしたか…。でも、大丈夫でしょう。あの子は無茶はしません。私も明日の朝にでも様子を見に行きますから」

「え?マスターが…?どうして?」

 きっと親がついているだろうに…岳志はそう思っていた。


「おや、やはり陽日くんは言いませんでしたか」
「何を?」
「あの子はね、帰っても一人なんですよ」
「…え?どういうこと?」
「一人暮らしなんですよ…」
「一人…?だってまだ15才だって…」
「事情はね、人それぞれですから…」

 マスターはそれ以上話すことはなかったが、岳志はすぐに店を出た。
 



 小さなアパートのドアの前。
 来たはいいが、もうすでに時間は遅い。
 風邪をひいているのならもう眠っているだろう。
 岳志はノックを躊躇い、どうしたものかと思案に暮れていた。

 その時…。表に面した小さな窓の向こうに蛍光灯がついた。
 恐らく、流しがある場所だろう。

 岳志は思わず、けれど遠慮がちにドアを叩く。
 ほんの少しの沈黙があり…。



『…どちらさまですか…?』 

 小さな声、しかし、確かに陽日の声がした。

「えっと…俺…」

 どう言おうかと一瞬躊躇った。
 しかし、その一言で、簡単にドアは開いた。


「花城さん?どうして?」

 岳志の前に、目を丸くして、パジャマにカーディガンを羽織った陽日が立っていた。

「遅くにすまない…。その…マスターから、君が風邪をひいたって聞いて…」
 そう言うと、陽日は驚いた表情から、嬉しそうな、照れくさそうな笑顔を見せた。
 名前の通り、まるで陽が射し込んだように。

「わざわざ…?」
「…ん、まあな…」
「あの…狭いところですけど、よかったら…」

 陽日はドアを大きく開いて、歓迎を示した。

「いいのか?寝てたんだろう」

 そう言いながらも、岳志の足は一歩、ドアの内側へと入った。

「薬を飲もうかと思って、起きた所なんです…」

 表情は明るいが、やはり、陽日の声は心なしか昨日より元気がない。

「熱…あるんじゃないのか?」

 思わず掌を陽日の額に当てると、岳志は眉根をキュッと寄せた。

「しっかり熱でてるじゃないか」

 言うなり抱き上げる。

「え…、あのっ…」
「じっとして」

 突然のことに狼狽えた陽日を、一言で黙らせ、岳志はかまわず奥へ入った。

 奥と言っても、見渡せば1Kの小さな部屋。
 確かに今まで寝ていたらしく、流しの蛍光灯以外には灯りがない。

 それでも小さな部屋には十分で、岳志はぼんやりと浮かんだ白い布団に、そっと陽日を降ろした。

「薬、何処にある?」
「えっと、流しの所に持っていって…」

 最後まで聞かず、岳志は立ち上がって薬を取りに行った。

 綺麗に掃除された流しの周辺は、清潔で片づいているが、それでもきちんと生活感があった。
 しかし、流しにも水切りかごにも、一つも食器が入っていない。


「陽日くん…君、何か食べたか?」

 振り返って聞くと、陽日が小さく首を振るのが見えた。

「食欲…なくて…」

「薬を飲むのなら、何でもいいから少しは胃に物を入れないとダメだ。解熱剤の類は、簡単に胃を荒らしちまうからな」


 言い終わらないうちに、岳志はごそごそとあちらこちらを覗き始めた。

「ちゃんと揃ってるじゃないか。よし、俺が粥作ってやるから」

 いきなりジャケットを脱ぎ、腕まくりを始めた岳志に、陽日が慌てた。

「そんな…!僕、大丈夫ですから…!」

 起きあがって来るのを、岳志が押しとどめる。

「子供は大人の言うことを聞くっ」

 途端に陽日は、叱られた子犬のような顔になった。

「…はい…」
「寝てなさい」
「…はい」

 そんな陽日の様子に、ふと笑みを漏らしてから、岳志は今度は自嘲の笑みを浮かべた。

 自身が怠惰で無節操な日々を流している癖に、よく、子供の説教が出来たものだと。 
  



 陽日は出来上がった粥を、『美味しい』と言って、それは大切そうにゆっくりと食べた。
 やがて、飲んだ薬が効いてきたのか、すんなりと眠りに落ちていく。

 それを見届けて、岳志は電気を消し、そっと陽日の枕元に座り直す。

 目が慣れてくると、陽日の左手が布団からはみ出しているのがわかった。

 直してやろうと、そっと手を取ると、縋るように握ってくる。
 熱を持つ掌が、陽日の鼓動を伝える。


『離さないで』

 そう言われたような気がした。
 己のあまりにも都合のいい解釈に、思わず苦笑する。


「目が覚めるまで、傍にいてやるから…」

 小さく囁いてみると、頷き返すように、また、掌が握られた。

 その熱さが、何故かたまらなく愛しくなり…。

 岳志は、陽日の頬にそっと触れてみる。
 真っ暗な中、触れた部分から、陽日の何かが流れ込んでくるような気がする。 

 何もかもに絶望して、自堕落に生きていた日々。
 眩しい夜の歓楽街にいても、自分の内の光は消えていた。


 何も見えない、見ようとしない、見るべきものもない。

 だから、暗闇でもかまわなかった。

 もがけばもがくほど、闇は広がっていくのだから、ただ、漂っているだけでよかった。
 

 けれど、今、確かに自分の心に差し込んだのは、紛れもなく、光。
 陽の光が一筋、差し込んだ…。

 この光があれば、自分はまた、大切な物を見つめることが出来るかも知れない…。

「まさひ…」

 握った掌に、熱い涙が一粒、落ちる。
 


 それは、僅か1年――二人にとって短すぎる蜜月の、始まりの一日であった。



END

2001.6.12 10万記念感謝祭にてUP


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