君が幸せであるために

前編





「雪でも降るのかなぁ…」

 陽日は真っ暗な夜空を見上げ、両手を擦りあわせると『ハァー』っと息を吹きかけた。

 もう間もなく3月だ。
 ただでさえ雪のないこの地方で、この時期、雪など降ろうはずはないのだが、それでも今夜はそんなことを思わせるほどに冷え込んでいる。

 15歳の陽日は、バイト…いや、彼にとっては本職である喫茶店勤務を終えて、深夜の繁華街の片隅に立っていた。

「お待たせっ」
「岳志!」

 肩をポンッと叩いて現れた美形の男に、陽日は春のような笑顔を向ける。

「ごめんな、かなり冷えちまったな…」
 待たせた男は、待たされた少年の肩を抱き寄せ、温もりを起こすように撫でさすってやる。
 そこから湧き出る温もりは、体温以外の物もあるのかもしれない。

「今夜は冷えるね」
 そう言いながら、陽日は細い身体を岳志にすり寄せる。



☆.。.:*・゜




 二人が出会ったのは1年前。

 長身で精悍な顔立ちの花城岳志(はなしろ・たけし)は当時24歳。

『こんなところで弾くのは惜しい』…と言われるピアノの腕だけを頼りに、夜の街を転々と稼ぎ歩いていた。
 特に住処を持たなかったが、受け入れてくれる女性はいくらでもいた。



 華奢な体つきに、いつも濡れているように揺らめく大きな瞳が印象的な少年、香野陽日(こうの・まさひ)は中学を卒業したばかりの15歳だった。

 二人は夜の街で出会い、どちらからともなく惹かれ合い、たいして日を置かずに一緒に暮らし始めた。

 それは『待つ人』を持たなかった二人にとって、ごく自然な成り行きではあった。  



「陽日…お前、今日は大丈夫だったか?」

 抱き寄せた肩を離さずに、岳志が歩き始める。

「大丈夫って?」
「この前、変なヤツらに絡まれたんだろ」

 その言葉に、陽日は首を竦めてみせる。

「もうっ…。マスターってば…」
「チクったのはマスターじゃないぞ」

 見上げた先には射抜くような真摯な瞳。

「お前、可愛いんだからちっとは自己防衛もしろよ」
「なにそれ?自己防衛って」
「そこら中にフェロモンまき散らかすなってことだ」 

 岳志の言葉に、陽日が半ば呆れ顔で笑う。

「あはは、フェロモンまき散らかしてるのは岳志の方だよ。この前も綺麗なお姉さん方に囲まれて大変だったそうじゃない」

 どちらにしても目立つのだ。
 夜の街に馴染んだ、華やかでどこか醒めたような美貌。

 けれどそれは二人のもつ表向きの顔。

 岳志は陽日に、陽日は岳志に。
 お互いにだけは本当の顔を見せる。

 それは時に無防備な寝顔であったり、マジで切れた怒りの表情であったり、涙が出るほど笑う幸福の顔であったり、切なくなるほど綺麗な涙であったり…。





「な、陽日。来週の月曜日さぁ、昼間に出掛けるぞ」
「え?昼間に?」 

 それは二人にとっては珍しい外出であった。
 二人とも深夜までの商売だ。当然昼過ぎまでぐっすり眠る。
 いつも5時頃から活動開始で、仕事はお互いに深夜が中心だ。

 先に上がる喫茶店店員の陽日が、遅れて上がるラウンジのピアノ弾きの岳志を待って、一緒に帰る。
 それが二人の生活パターンだ。



「どこへ行くの?」

 陽日が不審げに問いかける。

「パスポート、取りに行くんだ」
「パスポート?…それって、外国に行くための…アレ?」

 陽日は生まれてこの方そんなものを持ったことがない。

 この世に生を受けた直後から去年の3月まで施設で育ってきた彼は、それでも職員の愛情に包まれて、中学卒業までささやかに生きてきた。
 そして卒業後、働き始めた繁華街の深夜喫茶で、岳志に出会ったのだ。

「岳志…どっか行くんだ…」

 今度は不安げに訊ねてくる。

「バッカ。俺一人で行くはずないだろ。お前も一緒だよ、陽日」

 力一杯、岳志は陽日の華奢な肩を抱き寄せる。

「ぼ、ぼくも?」

 思わず自分を指さしてしまう陽日であった。

「ああ、そうだ。この1年がむしゃらに働いてきたじゃんか。そのご褒美さ。それに…」
「それに?」

 訊ね返す陽日に、岳志は照れたように人差し指で自分の鼻の頭を掻いた。

「お前、来月誕生日だろ?だから…まあ、俺からのバースデープレゼントってとこかな」

「とこかな…って…。そんな、贅沢だよ、岳志ぃ」

 半分涙声になった陽日が、岳志に小さな声で抗議をする。

「贅沢なもんか。本当だったら、俺…」

 そこまで言って急に言葉を切る。

「岳志…?」
「ん…なんでもない。さ、早く帰って暖まろうぜ」

 こんなに寒くちゃ、南の島行きたくなっちゃうよなー…などと呟きながら、もう一度、陽日の肩を抱く手に力を込め、岳志は先を急ぐように歩みを進めた。



☆.。.:*・゜



「岳志、コーヒー飲む?」

 二人が暮らす、小さなアパートの一室。
 寝室兼リビングの4畳半の真ん中には、小さな丸いテーブル。

「んー。やめとく」
「どうしたの?」
「ちょっと飲み過ぎかも…」

 岳志が大きく伸びをした。



 ラウンジのピアノ弾きの仕事は、ただピアノを弾いていればいいだけでは、ない。
 客あしらいもワザのうち。
 勧められたものを断るようでは、『ご祝儀』も入らない。
 イヤな客でも、顔を『福沢諭吉』にすげ替えればよいのだ。  

 ただ、1年前までの岳志なら、イヤな客はイヤな客。リクエストなどされても、すました顔で突き返していた。

 しかし、今はそうはいかないのだ。

 去年と違う…それはただ一つ。
 自分の傍に陽日がいる。それだけだ。



 陽日は中学を出て、すぐに働きにでた。
 施設に残り、高校へ通う…という道も残されてはいたのだが、陽日はたくさんいる小さな弟分たちの顔を見ると、一刻も早くここを出て、職員の負担を減らさないと…と、そればかりを考えていた。

 高校への未練は、なかった。
 条件の良い働き口もすぐに見つかり、恵まれたスタートを切ったとたんに岳志に出会った。
 それこそが、自分にとって最大の幸運だと陽日は思っていた。


「こっち来いよ」

 岳志はそう言って手を伸ばす。
 陽日の細い腕を掴み、引き寄せる。
 抗うことなく腕の中に堕ちてくる陽日をきつく抱きしめて、耳から首筋にかけてキスを落とす。


 岳志は、陽日に出会ってからのこの1年、人が変わったように働いた。
 何もかもに背を向けていた頃とはまるで違う毎日。
 陽日のために何かをしてやりたかった。

『遊ぶ』と言うことを知らずに育った陽日を、まず旅行に連れていってやろうと思った。

 岳志自身は、3年足らずで投げてしまった大学生活のうち、ほとんどをヨーロッパと日本の往復で過ごした。
 たくさん吸収した異国の空気。日本と違う色彩。
 それを、何も知らない陽日に見せてやりたかったのだ。

 そして、その後には…。

 岳志は、陽日を高校へ行かせようと思っていた。
 本当ならこの春から行かせたやりたかったのだが、準備が整わなかった。
 4月からは、深夜の仕事も辞めさせて、来年の受験に向けて勉強をさせてやろうと決めていた。

 そのために、精一杯働く。
 陽日のためなら、出来るのだった。




「あ、たけ…し…」

 身体を探り始めた岳志の手に、陽日は敏感に反応を始めた。

「まさひ…悪いけど、俺…ちょい疲れてっから、手加減できないかも…」

 言い訳をしながら、細い身体にのしかかっていく。
 それを陽日は、静かに、受け止める。 


「愛してる…陽日…」

 うわごとのように繰り返しながら、岳志は果てることを知らないように、陽日の身体の奥深くを抉っていく。

 心臓まで届くのではないかと思うほど、岳志が自身を激しく突き入れても、陽日は声を殺して、ただ、岳志にしがみつく。

 そんな夜を繰り返し、この世界にただ二人だけ、その愛しい姿だけをお互いの瞳に焼き付けて、岳志と陽日はこの1年をひっそりと生きていた。



☆.。.:*・゜



 そして、しばらくの後、その日は唐突にやってきた。

「陽日ちゃんっ、いるっ?」

 間もなく営業を終わろうとしている、陽日の勤める深夜喫茶に駆け込んできたのは、岳志がピアノを弾いているラウンジのホステス、晃子だった。

「晃子さん?どうしたんですか?」

 息せき切って走り込んできた晃子は、肩からだらしなくストールを引きずっていた。

 目を丸くする陽日の腕を掴み、晃子はそのまま、また店を出ようとする。

「岳志が…、喧嘩に巻き込まれてっ」
「…えぇっ?!」

 晃子が息を切らして泣きながら言うのには、岳志は、酔っぱらいに絡まれた店の女の子を庇おうとしたらしい。

 陽日が駆けつけたのは、繁華街の片隅にひっそりと闇を侍らせている、ビルの谷間の寂しい公園だった。

 数人の男が、うずくまる黒い物体に集団で暴行を加えていた。



「やめてっ!!」

 陽日が喉の切れそうな声で叫ぶと同時に、『やめろっ!』という声がかかり、陽日がやってきたのとは反対方向からまた、数人の男が現れた。


「おまわりさんっ!こっちだっ!」

 その声に、理性の切れていた集団が一斉に怯み、蜘蛛の子を散らすように、一目散に駈けていく。
 しかし、警官の姿はどこにもない。

「岳志っ!」

 陽日が駆け寄ると、岳志はこめかみと口の端から血を流していた。

「たけしっ、しっかりしてっ」

 胸に抱き寄せて叫ぶと、岳志はやんわりと目を開いた。

「まさ…ひ、なんて顔してんだよ…」

 腫れた顔でニヤッと笑う。
 その顔にほんの僅か安堵した陽日だったのだが…。



「はい、君ちょっとどいて」

 横からいきなり伸びてきた手に、陽日は強引に岳志から引き剥がされた。
 見上げると、さっき反対方向から駈けてきた連中だった。
 警官を呼んだ振りをしたのは、どうやら彼らのようだ。

「あ、あの…」
「大丈夫。僕ら、医者の卵だから、任せて」

 よく見ると、まだ若い連中だ。
 しかしその態度は落ち着いていて、取りようによっては不遜にも見える。

「骨折は?」
「…なさそうだな」
「擦過傷と…」
「いや、腹部をやられてるからな」
「ここ、痛みます?」

 訊ねられた岳志は、腹部をギュッと押さえ込まれてうめき声を上げた。

 その時…。

「あ…あなた…もしかして…花城さんっ?」 

 医者の卵の一人が大きな声を上げた。

「花城…岳志さん…」

 その声に、陽日が呆然とした目を向けた。
 どうして彼らが、医者の卵などが、岳志を知っているのか。


「僕の車で親父の病院へ連れていく」

 岳志の名を呼んだ青年がそう言った。

「岳志っ」

 連れていかれそうになった岳志に、陽日が追いすがった。

「君は?」

 向けられる冷たい視線。

「あ…あの」

 陽日が言い淀んだとき、岳志が絞るように声を出した。

「まさひ…」

「知り合い?」

 問われて陽日はコクコクと頷く。

「…仕方ないな…おいで」

 腕を遠慮もなく掴まれ、陽日もまた、車に乗せられた。
 


☆.。.:*・゜



「どうして花城さんともあろう人が、あんなところに…」

 その言葉は静かな病室…正確には、病室の控室に、忌々しげに響いた。

 治療を終えた岳志が寝かされたのは、病院の最上階。ベッドのある部屋の他に、2室も部屋がついた『特別室』であった。


「彼、今何してるか知ってる?」

 歯切れのいい物言いで陽日を圧倒しているのは、原木秀文(はらき・ひでふみ)。
 この病院の院長の息子で、自身もまた、医大生である22歳の青年だ。


「あ、あの…ピアノを…」
「ピアノ?弾いてるの?」

 秀文が驚いたような顔を向ける。
 その顔に、陽日がまた驚いてしまう。

「どこで?!」
「あ、ラウンジ…」

 気圧されながらも漸く言葉を吐きだした陽日。
 しかし『ラウンジ』と聞いた途端に、秀文はさらに嫌悪を滲ませた表情で陽日を睨め付ける。


「信じられない…。あの、花城岳志が…」

『あの』とはどういうことなのだろうかと、陽日は一生懸命に思考を張り巡らせる。

 そういえば、岳志の過去などほとんど知らない。
 自分に話すべき過去がないのと同じように、岳志にもまた、話すような過去はないのだと勝手に思いこんでいた。 


「ところで、君いくつ?」

 無遠慮に秀文が訊ねる。

「え…と、15歳です…」
「高校生があんな時間にあんなところでウロウロしていいと思ってるの?」

 明らかに咎める口調。

「いえ…あの…僕はまだ仕事中…」
「岳志さんとはどんな関係?」

 たたみかけるように関係を問われて、陽日は言葉に詰まる。

 どう答えようかと必死で探る。
 その時…。



「恋人だよ」

 病室へのドアに、岳志が立っていた。

「岳志!」

 駆け寄ろうとする陽日を遮り、秀文がその身体に触れた。

「いけません。すぐベッドに戻って下さい」
「どうってことない…」

 そう言いながら前屈みに姿勢を崩す岳志を、秀文が支えて強引にベッドへ連れていく。


「あんたは?」

 秀文が岳志の名を連呼するものだから、陽日はてっきり、岳志もこの青年を知っているのだと思いこんでいた。
 だがそうではなさそうだ。

「僕は、原木秀文。ここは、原木記念病院です」

 病院名を聞いて、岳志は顔色を変えた。

「……参ったな…」

「原木さん、岳志のこと助けてくれたんだよ」

 寝かされた岳志の枕元に、陽日がそっと言葉を落とす。

「そっか…」

 優しい声色で言い、痛む腕を伸ばしてそっと陽日の頬に触れる。

「とりあえず…礼を言っとくよ」

 しかし、言葉とは裏腹に、岳志は秀文の方を見ようとはしなかった。



☆.。.:*・゜



「治る…?」
「そうです。治ります」

 翌朝、どうしても帰ると言い張る岳志を、秀文は強引に引き留める。

 隣の部屋で一夜を明かした陽日を、『着替えを取りに帰って』と言う理由で追い払い、秀文は岳志を病室に足止めしていたのだ。

「冗談はやめてくれ。いったい何人の医者が見放したと思ってるんだ」

 岳志は、もうそんな話はたくさんだとばかりに右手をひらひらと振る。

「それに…」

 言葉を切って、秀文を睨め付ける。
 学生の頃には見せたことのなかった、ガラスの破片のような目つきに、一瞬秀文が飲み込まれる。

「俺にはもう、あの頃の右手なんていらないんだ。今の俺には、この手で十分だ」

 そう言って立ち上がる。

「待って下さい。あなたはきちんと治療さえすればもとの世界へ戻れるんです」
「もとの世界?」

 興味ないな…とばかりに、岳志が吐息をつく。

「俺には、陽日がいる世界がすべてだ」

 その言葉を聞いて、今度は秀文が吐息をついた。

「その陽日くんのために、頑張っているのなら、なおさらなんじゃないですか?」

 岳志の眉が、ほんの少し上がった。

「どういう…意味だ」

 岳志の思考が少しこちらを向いたことに、秀文は静かに満足を得る。

「彼、孤児だったそうですね。可哀相に、高校にも行かせてもらえないなんて…」
「高校へは行かせるっ」

 話に乗ってくる岳志を見て、秀文はさらに続けた。

「彼を幸せにするために、ピアニストとして復活しても…いいんじゃないですか?」

「陽日の幸せ?」

「そう、あなたがまた以前のように一流になれば、恋人である陽日くんもまた、良い教育、良い環境で生きていける…。違いますか?」


 目元だけで微笑む秀文。
 それは、悪魔の囁きであったのに…。 


「陽日の幸せ…」

 岳志はもう一度呟いた。



後編へ続く