君が幸せであるために
後編
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岳志はこの手の中に堕ちた。 秀文はそう思った。 『陽日を幸せにする』 たった一言、その呪文で、いとも簡単に。 しかし、それは仕方のないことだ。 自分は本当に、『ピアニスト・花城岳志』をもう一度世に出したかったのだから。 秀文が岳志の姿を初めて見たのは、自分がまだ中学生の頃だった。 当時高校生だった岳志は、すでにいくつかのコンクールで優勝を果たし、将来最も有望とされた若手ピアニストだった。 しかし、最初の不幸が岳志を襲ったのは、高校を卒業する直前のことだった。 両親の事故死。 その時、岳志を物質面で支えたのが、両親の主治医でもあった、秀文の父であったのだ。 秀文の父の援助で岳志は大学に入り、フランスやドイツでも勉強を重ねた。 リサイタルや協奏曲などのステージを次々とこなし、若くして岳志の名はすでに一流の仲間入りをしていた。 そして20歳を過ぎた頃、次の不幸がやって来た。 右手の自由がきかなくなったのだ。 最初の原因は単なる腱鞘炎。しかし、無理に無理を重ね、治療が遅れたその手は、ピアニストとしての機能を無くしてしまった。 岳志はその事に絶望し、姿を消した。 秀文は最初に見たときから、岳志に憧れを抱いてきた。 溢れる才能に輝いていた青年。美貌のピアニスト。 あのような薄暗い世界で、あのような何も持たない子とひっそりと生きていくような人間ではないのだ。彼は。 自分が花城岳志を光の下に戻す。そして隣に立つのは自分。 そのためには、邪魔者には消えてもらう。 そう決めた秀文の瞳には、陽日に対する同情の色はあっても、自身の謀に対する翳りは一片もなかった。 |
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「3ヶ月くらいかかるかもしれないんだ」 「それ、もう聞いたよ」 「病院、近いところだったらよかったのにな…」 「3ヶ月でしょ。寂しがりやさんだね、岳志は」 二人の小さな住処、肌に馴染んだ布団の中で、抱きしめられながら屈託なく陽日は笑う。 寂しいのは自分の方なのだが。 岳志は、右手の手術とリハビリのために、明日から専門の外科がある病院に入る。もちろん秀文と、その父親の紹介先だ。 二人が住む町からは遠い。大都会だ。 働く陽日にとって、おいそれと様子を見に来られる距離ではないことが、岳志の気持ちを塞いでいた。 「でも、僕、全然気づかなかった。岳志の右手が不自由なこと」 そう言いながら、そっとその右手を取り、口づける。 「ピアノだって、あんなに上手だし」 確かに岳志のピアノは、右手の不自由を感じさせないほどであった。 しかし、それでは『音楽界』と呼ばれる特殊な世界には通用しないのだ。 求められるのは『完璧』。 「な、陽日。俺の右手が元に戻ったら、今度こそ、いろんなところに連れていってやれるからな」 約束していた誕生日の旅行がダメになったことを岳志は言っているのだろうと、陽日は思った。 「うん。楽しみにしてるよ」 励ますつもりでそう言う。 本当は旅行なんてどうでもいい。岳志といられればどこでもいいのだから。 「俺が留守中のこと、晃子さんにちゃんと頼んであるから」 「わかってるってば」 いつまでも陽日の身体を離そうとしない岳志に、陽日はクスクスと笑いを漏らす。 「こら、笑うな」 そう言って、岳志はもう一度、陽日の身体に挑みかかる。 明日からの3ヶ月分を埋めるかのような勢いで。 |
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入院から1週間目に岳志の手術は無事成功し、1ヶ月ほど完全固定をした後に、専門医についてリハビリを開始することになった。 そしてすでに3ヶ月目が近づこうとしていたが、その間、陽日は一度も岳志の元を訪れることが出来なかった。 秀文が、「リハビリの邪魔になるから」と一言、陽日に釘を刺したためだった。 二人のコミュニケーションは、電話だけ。 そして、その電話で、ある日岳志は言いにくそうに、陽日に告げた。 『出来るだけのことをしたい。もう少し時間をくれないか』と。 岳志にとって今回の右手の手術は、信じられないほどの成果を上げた。 どうしても動きの鈍かった親指が、嘘のように治ってしまったのだ。 こうなったらとことん突き詰めたい。 昔のように弾きたい。 その欲求は抑えられなかった。 一から勉強し直すために、どうしても時間が欲しかった。 『必ず迎えに行くから』 岳志はそう言った。もちろんその言葉に嘘偽りなどない。 陽日も、その言葉を信じた。 『待ってるから、がんばって』 それだけを伝えた。 それで十分だった。 二人だけならば。 |
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岳志が自分のことに夢中になり、唯一のコミュニケーションだった電話も次第に日が空くようになった。 そして陽日が、そんな一人暮らしの寂しさから、日に日に元気をなくし始めた頃、秀文が呼び出しをかけてきた。 そこで切り出された言葉は、陽日にとって予想もしなかった言葉であった。 「岳志さんと別れて」 陽日はしばらく唖然としていたが、やがて静かに口を開いた。 「どうして…ですか」 秀文は、口の端を僅かに歪めて笑う。 「君、岳志さんの過去、知ってる?」 嬉しそうだ。どうせ知らないのだろう、とでも言いたげだ。 陽日が俯く。 仕方がない。何も知らないのだから。 「じゃあさ、岳志さんがどうして僕に借金してまで手術を受けたかわかってる?」 陽日が弾かれたように顔をあげる。 「借金…したんですか?」 何も聞かされていなかったし、思いもよらないことだった。 なぜなら、岳志の通帳はかなりの金額を残高に残しながら、手つかずのまま、陽日の手元に残されているのだから。 「そう…手術費、入院費、その他諸々ね。ま、返してもらおうなんて思ってないけど」 最後の言葉に陽日が怪訝な顔を向けた時、秀文が得意そうに言った。 「彼…花城岳志は、海外でも認められた一流のピアニストだったんだよ」 それは、陽日にとって、初めて聞く岳志の過去だった。 |
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「君は本当に何も知らないんだね」 すべてを話し終えた秀文が、呆れたように溜息をついた。 音楽のことも、ピアノのことも、岳志が生きてきた世界のことも、かなりの知名度だったという岳志自身の華やかな過去も、陽日は知識としてはまったくと言っていいほど持っていない。 「ごめんなさ…い」 その溜息に押されるように、陽日の声が小さくなる。 「ああ、悪かった…。別に責めてるんじゃあない。君みたいに恵まれなかった子には仕方がないことだからね」 陽日の肩がピクッと震える。 別に恵まれなかったとは思っていない。 確かに親の愛には恵まれなかったが、施設のお母さんたちはとても優しかったし、愛情には恵まれていたと自分でも思う。 年上の園生にも可愛がってもらったし、年下の園生の面倒もよく見たから慕われた。 恵まれなかったとしたら、物質的に豊かではなかったと言うだけだ。 1台きりのテレビのチャンネル権はいつもチビたちに譲っていた。 だから自分の情報源は2、3日遅れの新聞だけだった。 もちろんドラマを見るようなこともなかったから、中学でも友達の会話についていけなかった。 けれど、それで仲間はずれにされたことも、一度もなかった。 ただ、あまりにも物を知らなさすぎたのかもしれない…と思う。 知らない…と言うことは、免罪符にはならないのだ。 「ごめんなさい…」 陽日はなぜか、もう一度謝罪を口にした。 自分の『無知』は、きっと秀文にとっては腹立たしいことなのだろうと思うと、自然に口をついて出てしまったのだ。 「…謝ることはないって…」 秀文は今度は途方に暮れたような声を出した。 「でも、これでわかったろう?」 できるだけ優しい声を出してみる。 この『可哀相な子』を苛めるつもりは毛頭ないのだ。 ただ、邪魔なだけで…。 「君は岳志さんのこと、好きなんだろう。好きなら、彼をもとの世界へ返してあげて」 「もとの…世界?」 「そう、彼がいるべきところはここじゃない。彼はあの頃の右手を取り戻して、もう一度世界の舞台へ帰れるんだ」 「かえれ…るの?」 「帰れる」 秀文はその言葉に自信を込めた。そして、その口調のまま、言う。 「ただし、君が側にいたのではダメだ」 陽日の顔が歪む。 「ど…して…」 「彼の右手の治療にはね、専門医が何人もついた。リハビリも含めると、かなりの時間も必要だったし、これからも勉強の毎日だ。それぞれにかかる費用もかなりのものだ。さっき、岳志さんが借金したって言った意味、わかるだろ?」 陽日はコクンと頷く。 「時間的にも、金銭的にも、君は足手まといになるんだよ」 『足手まとい』 その言葉は奥深く陽日の中に突き刺さった。 二人で生きてきたのに。 自分の方は不要品だと、宣言されてしまった…。 「でも、彼、帰りたいなんていったことない…」 突き刺さった『言葉』を抜こうと、陽日はもがく。 「君が引き留めてるからじゃないの?」 そしてまた深く刺さる。 「ちがうっ」 「彼は君とは違うんだ。溢れる才能を今でも抱えて苦しんでいる」 刺さったまま、抜けない…。 「苦しんで…」 そうだったのかと陽日は思い至る。 自分にとって、「今」は「すべて」だった。 物心ついた頃から、毎日毎日、お腹がすいていない状態で夜、布団に入れるだけでよかったのだ。 それ以上のことも、それ以下のことも、何も、なかった。 だから、岳志の過去がどれだけ華やかであったかと聞かされても、ピンと来なかった。 だからきっと、自分は岳志の苦しみに気がつかなかったのだ。 自分一人が甘えていたに違いないのだ。 秀文はそんな陽日を見て、微笑んだ。 陽日の素直さに、心から感謝したい気分だった。 「君は好きな人の幸せを願わないの?」 返ってくる答えはわかりきっているが。 「そんなの、願うに決まってる」 「じゃ、彼を離して」 そうすれば…この胸に刺さったものは抜けてくれるのだろうか? 「彼を…僕に渡して。そうすれば、彼は幸せになれる」 「ほんとに?」 秀文はいつになく真摯な表情で頷いた。岳志を幸せに出来るのは、自分の力だと信じて疑わないのだから。 「本当に…ホント?」 「僕を…信じて」 あなたを信じれば、この胸に突き刺さった痛みは、取れてくれるの…? 「う、ん…。わかっ…た。あなた…を、信じ…」 目がじわっと熱くなった。 でも、痛みは消えない…。 岳志のためになるのなら、できるだけ笑顔でお願いした方がいいのだろう。 陽日は顔を上げ、職場で評判の笑顔を作った。 「岳志のこと…お願い…しま、す」 そして、笑顔が崩れ去る前に踵を返し…走った。 |
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「行くあて…ホントにあるの?」 荷物を詰める陽日の背後から、晃子が疑わしそうに聞いてくる。 「やだなあ…。いくら孤児だったからって、僕にだって友達や知り合いはいるよ」 陽日はなるべく明るい声で、安心を誘うように返事をする。 「そう…?それならいいんだけど…。でも、ホントに待ってなくていいの?岳志、陽日ちゃんのこと、迎えに来るんでしょ?」 「来てもらっちゃ困るんだよ」 意外な返事に、晃子が戸惑う。 「何?それ」 「岳志はもう、ここには帰ってこない方がいいんだ。彼はもう、住む世界が違うって…」 晃子が息をのんだ。 「あんた、それ誰かに吹き込まれたんでしょ?」 苛立ちを露わにした言葉に、陽日の瞳がじんわりと熱くなった。 慌てて首を横に振る。 「違うよ…自分で決めたんだ。岳志さぁ、絶対また有名なピアニストになるから、僕、それをずっと応援するんだ。晃子さんも応援してよ」 「やだねっ。あんなに可愛がってたあんたを捨てて行くような男、誰が応援なんかしてやるもんか」 晃子は持っていた派手なストールを畳に投げつける。 「晃子さん…違うってば。岳志はそんなことしてない。これは…僕が決めたことなんだから…」 「バカッ、バカバカバカッ。好きならとことんついていけばいいじゃないかっ」 晃子はそう言うと、乱暴にドアを閉めて出ていった。 残された陽日は、一つ深く溜息をついて、小さなリュックのファスナーを閉めた。 荷物はさほど…いや、ほとんど入ってはいない。 「好きならとことん…だよね」 僕は岳志が好きだ。 好きだから、さようならが出来るんだ。 晃子さん…知らないだろ? ホントに好きなら、何だって出来るんだよ。 陽日は2冊のパスポートを手に取った。 『明日、旅行会社へ行こうな』 岳志が喧嘩に巻き込まれたのは、そう言った日の夜だった。 岳志の分はそっと引き出しに戻す。 そのうちきっと取りに来るだろう。 昔、岳志はヨーロッパで勉強していたらしいから、きっとまた、これが必要になるはず。 そう思い、自分の分だけ、リュックのポケットに入れる。 さあ、どこへ行こう。 どこがいったい、僕にふさわしい場所なんだろう? 手を突っ込んだジーンズのポケットには、小さな財布。 旅行に連れていってもらう御礼に、旅先で何かプレゼントしようと一生懸命に貯めた全財産。 もう何も上げられなくなってしまった今、これを、どうしようか。 出来ることなら自分のためでなく、岳志のために使いたい。 しばらく伏せていた顔を上げ、陽日はジッと考えた。 そうだ、持っているすべてのお金で、一番遠くまで飛行機のチケットを買おう。 どこまで行けるだろう。 遠く遠く。 出来るだけ遠ざかる。 足手まといにならないように。 そして、そこを僕の終わりの場所にしよう。 |
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何度弾いても、何時間弾いても、つい3ヶ月ほど前まで当たり前のように出していた音が出てこない。 右手は比べようもなく、よく動くというのに。 岳志はあてがわれた豪奢なレッスン室の中で苛立ちを募らせていた。 この間までの1年間、なぜ、あんなにもピアノを弾くことが楽しかったのか。 一日に3時間ほど弾けるだけだったというのに。 しかもそれは小さなラウンジの、調律すらされていない古ぼけたアップライトピアノ。 指の訓練も、何も、あったもんじゃなかった。 好きな曲を、思いの丈を込めて演奏するだけで、他には何もなかった。 作曲者の研究も、奏法の研究も…。 何もなくても、暖かい陽日の笑顔を思い浮かべているだけで、あの音が出たというのに…。 (まさひ…) 陽日の笑顔…。 「岳志さんっ?!」 岳志が突然ピアノの蓋を閉めた。 レッスン室の隅で岳志の様子を見守っていた秀文が驚いて立ち上がる。 「ごめん…俺、大切なもの忘れてきた」 「え…?」 「陽日の笑顔がないと…弾けないんだ…」 岳志は取り戻した右手をギュッと握りしめた。 「この手を思いのままに動かせるのは、陽日の笑顔だけだったんだ…」 走り出ようとする岳志の腕を、秀文は掴んだ。 「待ってっ、岳志さんっ」 振り返った岳志の瞳には、後悔の色が深く滲んでいた。 その重く暗い瞳の色に、秀文が一瞬飲み込まれる。 「た…けしさ、ん」 「すまない…。俺は…陽日の所へ帰る。用立ててくれた治療費は必ず返す!だから…頼む…」 深く頭を垂れる岳志に、秀文は絶望の息を吐いた。 「どうしても、どうしても陽日くんでないとだめなのですか?」 「陽日でないとダメだ」 秀文はもう一度息をつく。 「わかりました…。では、好きにして下さい」 どうあがいても、もう間に合わないだろう。 陽日は姿を消しているはずだ。 その事を確信している秀文は、あっさりと岳志を離した。 陽日が見つからなければ、やがて岳志はまた、戻ってくる。 そう、判断した。 「すまないっ」 何も知らない岳志は、後ろも見ずに、走り去った。 |
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『ガチャ』 無機質な音をたてて、鍵がかかる。 『チャリン』 その鍵は、陽日の手を離れて郵便受けに落ちる。 「さようなら…僕の『一番』だった頃…」 いつでも『今』が一番だった。 お腹が空いてない状態で眠れること。 そんな些細な幸せが、岳志に出会って一変した。 帰る家の温もり、抱きしめられる腕の逞しさ。 愛して、愛される。 求めて、求められる。 どんどん幸せに慣れていってしまったのだ。 それを無くす日が来るなどと、夢にも思わなかった。 そう思ってから、陽日は首を横に振る。 違う、無くしてなんかいない。 自分は今でも岳志のことが好きなのだから、自分は何も無くしてなどいない。 怖いのは、自分が気持ちを失うこと…。 好きだから…好きだから…僕は、今が一番幸せ。 無くしてしまったものがあるとすれば、それは、これから先を一人で生きていく力…それだけだ。 一歩、陽日は踏み出した。 終わりの場所へ向けて、また一歩。 どこへ行こう。 どこまで行けるだろう。 そうだ、岳志が一緒に行こうと言っていた、南の島。 そこへ行こう。 どうか、今持っているお金で、南の島までの片道切符が買えますように。 アパートの前の道を、いつもと違う方向へ行く。 背中には小さなリュック。 軽い軽いリュックが一つきり。 『陽日っ』 ずっと向こうから、岳志の声が聞こえたような気がした。 陽日は小さく笑う。 「大好き…岳志」 陽日は振り向かなかった。 僕が岳志を想ったまま、幸せにすべてを終えられますように。 そして…岳志が幸せでありますように…。 いつまでも…。いつまでも…。 |
END |
2001.5.6 UP
BBS400GETのミズシマサカナさまからリクエストをいただきました。 リクエスト内容はズバリ『年の差カップル』(笑) 「25歳×15歳くらいがベストで、明るく楽しいと言うよりは静かで切なくて優しい感じのものを…。そして、できれば攻さんがピアノを弾く人だったら嬉しいのですが…」 と言うことだったのですが…(^^ゞ 年齢と設定はなんとか…さて、静かで切なくて優しい…でしょうか? …切ない…を通り越してしまったような気も…(汗) サカナさま、リクエストありがとうございました(*^_^*) |
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