君と幸せになるために





「陽日…。霧が出てきた。風邪をひくから、もう入りなさい」

 山深い渓谷に面したウッドデッキ。
 オットマン付きのデッキチェアに深く身を沈めている少年に、男が声をかける。

 男の名は、佐上勲(さかみ・いさお)。
 30才になったばかり。
 ここ軽井沢の別荘地にアトリエを構え、画家を生業としている。

「ん…。はい…」

 佐上陽日(さかみ・まさひ)は18才。
 年齢的には青年と言えるのだろうが、その外見はまだまだ少年の面影を残している。

 戸籍上は勲の養子。表向きは『弟』と言うことになっている。



「原稿依頼がFAXで入っているよ」

 勲は手を伸ばしてきた陽日を抱き起こす。
 陽日は眠っていたのか、ぼんやりと目を開け、小さくあくびをした。

「何の原稿?」
「花城岳志の新譜についての評論だ」
「へぇ…。もう新しいの出たんだ」

 立ち上がった陽日の肩を抱くと、かなり冷えていることに気付く
 勲はその肩を抱き、暖めるようにさする。

「当代随一の人気ピアニストだからね」
「…なのに、海外進出しようとしないね、あのピアニストは」

 FAXから吐き出されたペーパーを受け取り、陽日がざっと目を通す。

「欲がないのかなと思ったけど、そのわりに録音は多いし…」
「CDの売り上げと国内ツアーだけで食っていけるからじゃないか?」

 いいながら、勲は陽日のカップに淹れたてのコーヒーを注ぐ。

「そういえば、先週依頼が来ていた『魔笛』の評論はどうなったんだ?」

 差し出されたカップを、『ありがと』と小さく言って受け取り、陽日は広々としたソファーに身を沈めた。

「あれ、おもしろくなかったから困ってる。正直に書くととんでもないことになりそうだし、誉めると嫌みになりそうだし…」 

 そう言ってペロッと舌を出した陽日に、勲は苦笑をしてみせる。

「とんでもないことになってもいいんじゃないか? 何しろ『佐上香(さかみ・かおる)』は新聞・雑誌から引っ張りだこの人気評論家なんだからな。何を書いても許されるんじゃないか」

「読者や編集者が許しても、演奏家からとやかく言われるのは面倒だもん。適当に誉めて、適当に…落としておくよ…」

 余裕の笑みを見せて、陽日はゆっくりとカップに口を付ける。



『佐上香』
 これは陽日のペンネームである。

 高校へ行かなかった陽日は、昨年17才で大検に合格したのだが大学への進学は考えていない。

 その代わりに『評論家』として、すでに経済的には自立している。

 大学へ行かない理由はただ一つ。

『人前に出たくないから』




 陽日がカップをテーブルに置き、だるそうな仕種で髪を掻き上げた。

「陽日…?」

 勲が不審げに眉を寄せ、陽日の額に手をやった。

「…熱が出そうだな…」
「うん…ちょっとだるい…」

 素直に認めた陽日を、勲は抱き上げて陽日の寝室へ運んだ。 

 大きく息をついて、何かを逃そうとしている陽日。
 去年もこの時期に体調を崩した。

 一昨年は…。

 勲は二年前を思い出し、深く息を吐いた。



☆.。.:*・゜



 あれは自分が所有する沖縄の別荘地。

 夕暮れの水平線をスケッチしようと、別荘所有者のためのプライベートビーチにやって来たときのことだった…。

 スケッチブックを広げた勲は、水辺線の方向に目をやった。
 そして、その目を見開き、次に疑い、そして走り出した。 

 人影が、沈もうとしていたからだ。 


「待てっ!待つんだっ」

 声をかけたが、その瞬間、人影は海に消えた。
 夢中で海に入ったことしか覚えていない。 

 その時助け上げたのが、陽日だった。

 持っていた唯一の身元を示すものから入水者の名前が『香野陽日』であることはわかった。
 しかし、戸籍には彼がただ一人記載されているのみ。

 3日後に漸く陽日の意識が戻り、孤児であることが判明したとき、独身の勲は迷わず陽日を自分の籍に入れた。

 それについて、陽日は若干の戸惑いを見せながらも素直に同意した。

 彼は、自分の過去を、何一つ覚えていなかったから…。



 
 あれから2年。

 陽日は昨年もこの時期に酷く体調を崩した。
 何も覚えていなくても、その心には深く刻まれているのであろう傷。

 勲は一度だけ、陽日の過去を探った。

 それが陽日が過去を取り戻すためにきっかけになればと思ってのことだったが、しかし、陽日が働いていた場所を突き止めたところで、勲はそれ以上の調査をやめてしまった。

『男性の影』があったからだ。

 陽日と一緒に暮らしていたらしき男。
 夜の商売をしていたらしいが、多分、いやきっとその男が陽日の入水の原因であろう事は容易に想像がついた。

 逃げてきたのか、それとも追い出されたのか。

 いずれにしても、よい思い出ではないはずだと判断した勲は、そこで調査をうち切り、今度は陽日の移動の痕跡を消すことに専念した。

 万が一、男が追いかけてきたら面倒なことになる。
 もちろん、今さら陽日を渡す気などさらさらない。

 幸い、陽日の住民票はまだ施設にあった。
 弁護士を伴って施設を訪ねた勲は、身分を明かし、陽日を引き取る事を告げ、『追われている陽日のため』に誰にも行き先を教えることのないよう協力を願い、そして受け入れられた。

 こうして陽日は『香野陽日』から『佐上陽日』になったのである。



☆.。.:*・゜



「苦しいか…?」

 胸の上下動が大きくなってきた陽日に、勲はその額を拭ってやりながら尋ねる。

「ううん…。大丈夫。すぐ、よくなるから…」

 しかし、荒くなるばかりの陽日の息に、勲は眉をひそめるとそのシャツのボタンに手を掛けた。

「陽日、少し外さないと苦しいぞ」

 そう言ってボタンを一つ、二つと外し、勲の指先が陽日の喉のわずか下に触れた時、陽日の身体が『ビクッ』と跳ねた。

「あ…ごめん、なさい…」
「いや…私こそすまない」

 陽日は素肌に触れられると極端に怯えた反応を示す。

 助けたときの陽日に虐待の痕などは残っていなかったが、それ以上の傷が心に残っているのだろうと勲は踏んでいた。

「少し、眠りなさい」

 そう言って、薄く肌触りのいい綿毛布を肩まで掛け、勲はその上から陽日の身体をゆっくりとさする。

「うん…」

 そうすると、陽日は安心したように目を閉じ、そして、やがて落ち着いた呼吸で眠りに入った。

「陽日…」

 勲はその柔らかい寝顔に小さく声をかける。

「私はお前を縛るすべてのものから、お前を解放してやりたい…。けれど、それがまたお前を傷つけたり、お前を失ったりする事になったらと思うと、もうこれ以上のことは出来ないんだ…。勇気のない私を許してくれ、陽日…」 

 そう言って陽日の額に一つ、小さなキスを落とす。

 隣の部屋で、電話が鳴った。



☆.。.:*・゜



「花城さん、お疲れさまでした!」

 鳴りやまないカーテンコールを何度もこなし、アンコールを3曲、大盤振る舞いして、やっと花城岳志は楽屋へ引き上げてきた。

 すると今度は主催者やプロデューサー、その他岳志にとっては有象無象でしかない面々が次々と挨拶に訪れる。


「恐れ入りますが、花城は大変疲れておりますので…」

 瞬時にして今後の岳志に必要な客か、そうでない客かも見極める敏腕マネージャー松崎晋(まつざき・すすむ)は、語尾を濁して客をあしらう。

『またにして欲しい』とか『今日は遠慮してくれ』などとは絶対にいわない。

 このご時世、芸術家と言えど人気商売なのだ。
 自分の会社が専属契約を結んでいる売れっ子ピアニストには、まだまだ稼いでもらわなければならない。

 ただ、この若きマネージャーはその思惑だけで岳志に付いているわけではなかったが。



「やれやれ…。今日もすごかったですね」

 最後の客を漸く締め出し、ホールの中でも一番広くて設備の整った楽屋は、岳志とマネージャーの2人だけになった。 

「いつも悪いな、松崎くん」

 岳志は疲労しきった身体を大きなソファーに埋め、冷やしたタオルを目に当てる。
 ステージの強烈なライトは、いつまで経っても目に馴染むことはない。

「いえ、これが私の仕事ですから。明日はオフですが、また明後日はステージですからね。がんばっていただかないと」

 晋は目を閉じたままの岳志に、人なつこい笑顔で答える。

「はいはい…」
「それと…あの…」
「ん?なに?」 

 岳志は相変わらずソファーにもたれ、目を冷やしたままの姿勢で、言い淀む晋に先を促す。

 晋が言い淀むとき…。岳志にはだいたい想像が付くのだが…。

「あの、また例の方からお花が届きましたので、一応花屋には受け取り拒否ということで…」

「ああ。わかったよ。イヤな役をさせて悪いが、これからも頼む」

「はい!」



『例の方』…それは、原木記念病院の御曹司、原木秀文という青年だった。

 岳志が楽壇に再デビューしてからというもの、岳志のステージには必ず花を贈ってよこし、レコーディングの度に感想をよこす人間。

 岳志はその名前を思い出すだけで、いっそう疲労の色を濃くしてしまう。



「岳志さん…」

 たいがいは『花城さん』と呼ぶ晋が、岳志を名前で呼ぶのは、会話がプライベートの領域に入って来るとき。

「なんだ?」

 その声音の変化に、岳志はタオルを外して起きあがった。

「あの、どうしてあの方のお花は受け取られないのか、その理由って、聞かせてはもらえないですか?」 

 岳志は返事をせずに、またソファーに身を沈める。
 しかし、今度は目を閉じずに天井をしっかりと見つめたままで…。

「すみません…。どうしても気になって」

 岳志の機嫌を損ねてしまっただろうかと、晋は小さな声になる。

「いや…。君にはイヤな役をやってもらっていることだし…。言っておいた方がいいかもしれないな」

「岳志さん…」

 岳志はそれでも、晋の方を見ず、天井を見据えたままで話を始めた。



「あいつ…、原木秀文は俺の動かない右手を取り戻してくれた恩人だ」
「え…?」

 花束の受け取りを拒否されるほどの、いったい何をしでかしたヤツなのかと考えていた晋に、岳志の言葉はあまりにも意外だった。

 しかし、岳志が一時、右手の腱鞘炎で楽壇を去っていたことも晋は知っている。

「ならどうして…?」

 そう問われて、岳志は初めて晋の方を向いた。
 それは、恐ろしいほどの怒りの表情で。

 晋は初めて見る岳志の表情に、ブルッと一つ、身震いをした。

「あいつは、俺の右手と引き替えに、俺が命より大切にしていたものを奪ったんだ」



 聞かなければよかった…。

 一瞬そう思ってしまうほど、岳志の形相は恐ろしく、そしてその声は怒りに震えて…。

「……すまない…。そういうことだから、これからもよろしく頼む」

 そう言った岳志の声は、怒りの色を消して、胸が締め付けられるほど切ないものに変わっていた。

 声がかけられずに晋が佇んでいると、何も知らないホールの職員が『迎えの車が来ました』と伝えに来てくれて、晋は漸く息を付いた。


「すみません…。イヤなことをいわせてしまったんですね、僕は…」
「いや…。だた、この話はもうこれっきりにしてくれるとありがたい」

 それはもう、いつもの岳志の声だった。

「はい…」

 岳志が命より大切にしていたもの…。

 その存在は、晋の心を大きく揺り動かしたが、今の岳志にそれが尋ねられようはずもなく、晋はこっそりとため息をついて、荷物を抱えて岳志のあとをついていった。




 宿泊しているホテルまでの僅か20分ほどの道のりを、岳志はハイヤーの中で目を閉じ、今もはっきりと脳裏に焼き付く『命より大切なもの』の笑顔を思い起こしていた。



 何よりも陽日の笑顔が自分のすべてだと気付き、秀文の元を飛び出して迎えに行った時、すでに陽日は姿を消したあとだった。

 怒り、岳志をなじるホステスの晃子を宥めて、陽日の様子を聞き出した岳志は、それが秀文の仕業だとすぐに気がついた。

 そしてそれは即、秀文との決別に繋がった。

 陽日を捜すことだけに専念したかったが、秀文とは手術代その他の多額の借金で結ばれている。

 何よりもその関係を断ち切るために、岳志は楽壇復帰を急ぎ、レコード会社と契約した。

 そしてその多額の契約料で、今となっては忌まわしいだけの繋がりを精算したのだった。




(陽日…今、どこにいるんだ…)

 彼らの住処から唯一なくなっていたもの。それは陽日のパスポート。

 一緒に世界を巡ろうと2人で準備をした幸せへの切符のはずだった。
 それが、一つだけなくなり…。

 岳志はそれを手がかりに陽日の行方を探した。

 パスポートがないということは、海外へでたのかもしれない。
 そう考え、再デビューしてからは使えるあらゆるコネを総動員して、出入国記録まで調べた。

 使わせてもらったコネである友人の一人などは、気を利かせたのか、全国の各警察署に『身元不明遺体』の問い合わせまでしてくれた。
 しかし、そちらにもまったく手がかりはなく――それは当然『幸い』なことなのだが――陽日の足取りはまったく掴めないまま、2年もの月日が流れてしまった。


 ピアニストとしての成功。
 そしてそれと引き替えに失ってしまったものの大きさ。

 今、右手の代わりに陽日を帰してやるといわれたら、迷わず差し出すだろう、この右手など。

 本当に欲しいものは、陽日だけだったのに…。



「岳志さん…。大丈夫ですか?着きましたよ」

 晋の声に起こされて、岳志は車中でうなされていたことに気付く。
 晋はそんな岳志に、わざと明るい声で言った。

「先ほど本社から連絡がありまして、今度おもしろい仕事が入ったそうですよ」

「おもしろい仕事?」

「はい。なんでも分野の異なる芸術家同士の対談らしいです。きっといい気分転換になりますよ」

 気を遣ってくれてるであろう晋に、岳志は『そうだな…』と出来るだけの笑顔で応え、車を降りた。

 その背中を見つめながら、晋はほんの数分前に眠る岳志の口から小さく漏れた名を、心の中で繰り返す。


『まさひ』


 それはいったい誰の名前なのか。

 ふと脳裏を、楽屋での岳志の姿がよぎる。

 いつも本番前に、心を落ち着けるようにして胸にあるものを抱いている岳志。
 それは茶色い革製のフォトフレーム。

 一度だけ、岳志がステージに出ているときにそれを見た。

 零れるような笑顔の少年が、そこにいる…。

 あれが、『まさひ』なのだろうか…?

 胸の奥にチクリと突き刺さるものを感じ、慌ててそれを振り払うように頭を振ると、晋は岳志のあとを追った。



「2」へ続く