君と幸せになるために





「来週の水曜日、東京へ行って来るよ」

 二人で囲む、穏やかで温かい夕食の席で、勲が言った。

 個展の時などでなければ、余り人前にでることのない勲は、生活のほとんどを、ここ軽井沢のアトリエで送っている。

 出掛けるのはスケッチ旅行にでるときくらいのものか。



 陽日は食事の手を止めて訊ねた。

「珍しいね。お仕事?」

 個展は済んだばかり。思い当たることはない。

「雑誌社からの依頼でね。異分野の芸術家同士の対談シリーズをやってるんだそうだ」

「あ、もしかして『New Art Forcus』の別冊かな?」

「ん…。そうだったと思う」

「思うって…。あはは、勲さんらしいや」

 可愛らしい笑顔を見せる陽日に、自然と勲の顔も綻ぶ。

「勲さんって、ホント、描くこと以外には無頓着なんだから」 



 陽日の言うとおりであった。
 勲は「絵を描く」という行為以外のものに執着を持たないで生きてきた。

 そして、それはこれからの人生でも変わらないだろうと思ってきた。

 陽日に会うまでは。



「でな、水・木と留守にするんだが、陽日、お前一人で大丈夫か?」

 勲は宿泊を伴う外出にはできるだけ陽日を連れて行った。
 出会いが出会いだっただけに、目を離すことが怖くて仕方がなかったのだ。

 しかし、陽日ももうすでに落ち着いて久しい。


「やだなぁ。僕、もう子供じゃないよ」

 わざと拗ねたように頬を膨らせてから、またニッコリと笑う。

「気にしないで、行ってきて」

 そう言いきられてしまうのも寂しいものがあるな、と内心苦笑しながら、勲も笑顔を返す。

「連れていってやってもいいんだけどな」
「いいよ。人の多いところは苦手だし…。それより何する人と対談するの?」

 さして興味があるわけではないが、陽日は話の流れで勲に尋ねた。

「それがな、相手が相手だから、陽日も会ってみたいんじゃないかと思うんだが」

 返ってきた意外な言葉に、陽日が小さく首をかしげる。

「僕が…?」

「ピアニストの花城岳志と会うんだ」



『カチャン』



 陽日の手からフォークが滑り落ちた。

「陽日?」

 勲は笑顔を引いて、陽日を凝視する。

「どうした…」
「あ、ごめんなさい。なんでもない。ちょっと手が滑って」

 そう言って照れくさそうな顔を見せた陽日は、いつもの陽日だ。

「へ〜。勲さんが花城岳志と会うとはね」

「会ってみたいなら一緒に行こう。あれだけ論評をしているのだから、お前の名前も知ってるだろうし」


 陽日は岳志が新譜を出すたびに評論を発表している。

「うん…、そうだろうね…」

 陽日は伏し目がちなまま、小さく息をついた。

「実は、半年くらい前だったかな?出版社を通して、花城さんからお礼状が来たんだ」

「礼状…?」

 初耳だった。
 陽日はいつも、自分が関わっている仕事のすべてを勲に報告してくるから、知らないことなどないと思っていた。


「うん。『いつも好意的に書いて下さってありがとう』って感じの内容だったかな? で、僕も『好意的に書いているわけではなくて、本心からあなたの演奏は素晴らしいと思うから、自分に正直に論評をしているまでです』って返事した」

「それで?」

 先を促す勲に、陽日はちょっと肩を竦める。

「それだけだよ。特にそれからは何もないよ。…あ、あと花城さんが契約しているレコード会社から『新譜のライナーノートをお願いしたい』って依頼もあったけど断った」

「断った?どうして」

『ライナーノート』を書くと言うことは、評論家として認められたという一つの目安になりうる。

 陽日の場合は、すでに「評論家」として認められているから、こだわる必要はどこにもないのだが、それでも勲は陽日が「断った」と言うことに納得がいかない。
 まして花城岳志は、陽日が傾倒していると言ってもいい演奏家だというのに。

「ん…。そうだね、説明するのは難しいけれど、簡単に言うと、僕は彼と同じ側に立ちたくないんだ。  『ライナーノートを書く』ってことは、僕は聴衆からみて花城側の人間になっちゃうわけでしょ? それはイヤなんだ。 僕はあくまでも、聴衆側から彼の演奏を聴いていたい」

 それは、妙に説得力のある言葉だった。

 普段はまだまだ子供らしさを残している陽日も、こう言うときは驚くほど大人びた顔を見せる。

「…なるほどね。陽日の言うことはわかるよ」

 勲はふと、大人になった陽日が自分から飛び立つところを想像してしまう。
 途端に気分が萎えるのが困りものだ。
 それほどまでに、自分はこの子に執着を持ってしまっている。


「では、花城氏には『画家の佐上勲と評論家の佐上香は兄弟です』という事実は伏せておいた方がよさそうだね」

 今沸き上がったばかりの不安を隠して穏やかにそう訊ねる。

「うん。そうしてもらう方がいいな。 評論を書き続ける限り、『他人』でいたいから」

 陽日の口からはっきりと『他人』と言う言葉を聞いた瞬間、勲の中で何かがホッと安堵の息をついた。

 もとより、陽日と花城岳志は他人だとわかっているのに…。 



☆.。.:*・゜



 夕食にはまだ少し早い時間ではあったが、画家の佐上勲とピアニストの花城岳志は、出版社が用意した都内の料亭で顔を合わせた。

 常識的な初対面の挨拶のあと、お互いの『仕事』について自分の感想を述べる。

 勲にとっては意外なことに、花城岳志は美術関係にも明るく、当代随一の人気ピアニストであるという気負いも、傲慢さもなく、至って『好青年』の印象であった。
 年齢が近いと言うことも、話易さの一因かも知れない。


「花城さんのCDは、デビューアルバムからすべて持っていますよ」

 勲がそう言うと、岳志は目を丸くした。

「それは…大変光栄です」 

 そう言って破顔するのも爽やかな感じを受ける。

 続けて勲が岳志の演奏について、若干陽日の受け売りを交えながら語ると、岳志は真摯な表情でジッと聞き入った。

 そうして約2時間の予定だった対談を大幅にオーバーして出版社を喜ばせた二人は、すっかり意気投合し、さらに個人的な親交を深めるべく夜の街へ繰り出して行った。





「佐上さんのお好みはどんな店ですか?」

 次へ流れ着くべき場所を、岳志が訊ねてくる。

「いや、私は東京に不慣れなものですから、花城さんにお任せしますよ」

 流れるように走るハイヤーの中は、無粋なラジオの音も、運転手のおしゃべりもなく、心地よい移動空間になっている。

 ふと身じろいだ勲が、ジャケットの内ポケットから携帯電話をとりだした。
 着信音はなく、バイブレーター機能がその着信を伝えている。

「すみません、ちょっと失礼します」

 勲が断りを入れると、岳志は小さく「どうぞ」と答える。

「陽日?どうした、何かあったか?」

 勲が小さな箱に向かって告げた言葉を、岳志は聞き逃さなかった。

(まさひ…?) 

 岳志の聴覚が、勲の言葉に集中する。

「いや、対談は終わったんだが、花城さんと二人で飲み直しに行こうってことになってね」

 電話の向こうにいるのは、『まさひ』と言う名の人物。

「え?お前に直接か?…そうか、わかった。車を降りたら連絡入れるよ。 ああ…。すまないね、しっかり戸締まりして休むんだよ」

 そう言って通話を切った勲に、岳志が声をかけようとしたとき、車が止まった。

「お客さん、ここらでいいですかね?」

 運転手にはだいたいの場所しか告げていない。
 しかし、行ってもいいなと思っていた店は、ここからだと目と鼻の先だ。

「あ、ああ、ありがとう」

 そういってタクシーを降りると、岳志が声をかけるより早く、勲が言った。

「すみませんが、画集のことで出版社に緊急で連絡を取りたいんです。 失礼なことで申し訳ないのですが、私は花城さんのあとについていきますので、前を歩いていただけませんか?」

「あ…、はい。わかりました」

 岳志が漸くそれだけの言葉を出すと、勲はもう一度『本当に申し訳ない』と頭を下げて、携帯電話のボタンを押し始めた。

 岳志は仕方なく、後ろにつく勲を気に留めつつゆっくりと歩く。




「何度も言いますが、弟の絵だけは公開出来ません」

 やけにはっきりとした物言いで、勲が電話に向かっているのが聞こえる。

「納得していただけないのでしたら、画集の発刊自体を止めていただいて結構です」

 言葉に険はないが、しかし、絶対引かないという強い意志は感じ取れる。

「…ええ、ぜひそうお願いしたいものです。 はい。よろしくお願いします」

 話の最後には、もう、元の穏やかな佐上勲に戻っていた。


「花城さん、すみませんでした」

 電話をしまい、また丁寧に頭を下げる。

「あ、いえ、お気になさらないで下さい。ちょうど着きましたから」

 そう言って木製の古びたドアを静かに押し開けると、そこにはこぢんまりとした空間があった。

「私の行きつけで申し訳ないですが」

「いえいえ、花城さんがいつもどんなところで羽を伸ばしておられるのか興味もありますし」

 そう言って見せる笑顔は、30という年齢より僅かに若い。

 音楽界では10代の成功も珍しくないが、画壇では30歳の成功はとんでもなく若い部類に入るのだろうと岳志は思う。

「画集…だされるのですか?」

 対談が決まってから岳志は、今までに出版されている勲の3つの画集をすべて購入した。
 今ではどれもお気に入りになっているので高い買い物だとは思っていないが。

「ええ」

 二人はマスターと軽く挨拶を交わし、カウンターに座った。

「ご存じのとおり、私は風景画家ですが、一つだけ肖像画を描いてるんですよ」

 そう言えば、3つの画集にも、一つも人物はなかった。

「弟の肖像画なんですが、アトリエでそれをみた編集者が、どうしても載せたいとしつこくてね。断り続けてきたんですが、今夜とうとう、弟の方に電話を入れて直談判に及んだようで、弟がSOSをだしてきたんですよ」

 勲は手渡されたおしぼりで、絵筆を取る長い指を丁寧に拭いながら語る。

 しかし、岳志の方は、湯気を上げているおしぼりを握りしめたままだ。

「では…さっきのタクシーの中での電話は…」

「あ、ああ。あれが弟からのSOSですよ。一人軽井沢のアトリエに残してきたのでね、少し心配ではあったんですが」

「あの…『まさひ』って呼んでおられたようで…」

 岳志の歯切れはこの上なく悪いが、勲は特に気に留める様子はなかった。

「ちょっと変わった名前でしょう?太陽の『陽』にお日様の『日』で、『まさひ』と読むんです。 名前通りの明るくて可愛い笑顔の子でね。一回りも離れてるので可愛くて仕方がないんですよ」   

 その言葉は岳志の芯に食い込んだ。

(一回り下…。18歳の…陽日…)

「佐上さんっ、その、陽日…っ、いえ陽日くんは…」

 岳志の狼狽えぶりに、勲は漸く岳志の様子の変化に気付いた。

「花城さん…?」

「すみません。失礼を承知でうかがいますが、陽日くんは、佐上さんの実の弟でしょうか?」

 今度は岳志の言葉が勲の中心に食い込んだ。

(どういうことだ…?この人は、何を…)

 本当に、陽日が実の弟ならば、ここで狼狽えることなど何もない。

 しかし岳志は、誰も知らないはずの真実を突いているのだ。

「え、ええ。陽日は私の弟です。生まれたときから、私の弟、です…」

 勲は承知で嘘をついた。
 いや、咄嗟にでた言葉が『嘘』だったのだ。

 岳志があからさまに落胆の表情を浮かべる。

「……すみません…。失礼なことを伺って…」

 見ている方が気の毒になるような落ち込みように、勲はふと、陽日の反応を思いだした。

 対談の相手を告げたとき、一瞬だけ見せた不可解な反応。

 そして、ピアニスト・花城岳志に向ける、陽日の執着。
 ストレートとは言い難い、好意の表現。

 そして、今見た、花城岳志の『陽日』と言う名前に対する反応とは…。

(もしかしたら、陽日の記憶にこの人物が関わっている…?)



 もう、陽日の過去を探るのはやめたはず。
 戻らない記憶なら、このままでいい。
 陽日も取り戻そうとしていないのだから、それはきっと忘れてしまいたい過去に違いないのだ。

 そう自分に言い聞かせ続けてきたが、それでも、今、記憶の鍵になりそうなものが目の前をちらついて…。


 陽日にさえ知られなければいい。
 そう思い至って、勲は言わないと約束した名前を口にした。


「花城さん…。佐上香という評論家をご存じだと思うのですが…」
 
 岳志が落胆の色を拭い切れぬまま、顔をあげる。

「あ、はい、もちろんです。いつも的確な評論をいただいてます」

「あれね、私の弟なんですよ」

 ふいに告げられた言葉に、岳志の顔から、今までの色が落ちる。

「評論家・佐上香。本名は、佐上陽日。先ほど電話をかけてきた、私の弟です」

 言ってしまった。もう後戻りは出来ない。

 しかし、ここで言わずに別れたとしても、勲の気持ちがもう、後戻りがきかなくなっているのだ。

 花城岳志という人物が何を知っているのか、もう、確かめずにはいられない。 


「軽井沢のアトリエへご招待いたします。一度、陽日に会ってやって下さい」

 岳志はその申し出に、漸く笑顔を見せた。

「ありがとうございます。ぜひ、伺わせて下さい」


 佐上香=佐上陽日が、自分の探していた陽日でないことは、これで更にはっきりとした。

 陽日は音楽のことは何も知らなかったのだ。
 だが、佐上陽日は、演奏家以上の知識と聴力、そして感性を持った人物に違いない。それは評論文に明らかに現れている。

 引き離されてしまってから2年。
 あの時の『香野』陽日が、今の『佐上』陽日であることなど絶対にないのだと、岳志は何度も自身に言い聞かせる。

 岳志は純粋に、評論家・佐上香に対する興味から、勲の申し出を受けた。

 それでも、愛して止まない人間と同じ名前を持つ人物に会うのは、僅かでも心弾むことであるには違いなかった。



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『ライナーノート(ライナーノーツ)』
CDなどのジャケットの中に、『解説』がありますね。
あれが『ライナーノート』です。
演奏会のプログラムなどに載っている解説も『ライナーノート』です。

要は『楽曲解説』なのですが、特にCDの『ライナーノート』は
曲の成り立ちや背景に明るいことはもちろん、
演奏者や奏法などにも詳しくないと書けないため、大変に難しいものです(^^ゞ