君と幸せになるために
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あの対談の日から1ヶ月が経った頃、陽日はいつも朝の遅い勲が珍しく早起きしていることを不審に思いながら、寝室からでてきた。 「勲さん、どうしたの?」 勲は普段使わない客間を掃除していたのだ。 「何?誰か来るの?」 画商や出版関係者など、客は多いが、泊まり客は一度も来たことがない。 少なくとも、陽日がここで暮らすようになってからは。 「ああ、陽日、起きたのか」 「起きちゃったんだよ」 少し口を尖らせた陽日に近づき、勲はその額に手を当てた。 「調子はどうだ?」 数日前から風邪気味だった陽日を気遣う。 「うん、もう平気。で、何があるの?」 「ああ、今日はお客が来る」 珍しいなと、陽日は思う。 「誰?僕の知らない人?」 多分そうだろうと思いながら訊ねる。 しかし、勲の答えは意外なものだった。 「さあ、どうだろうね」 「え?」 「私は昼過ぎに駅まで迎えに行くから、陽日はうちで待っててくれ」 普段は余り一方的な物言いをしない勲の、珍しい言い回し。 「誰か教えてくれないの?」 「それは…お楽しみにとっておきなさい」 お楽しみと言われても、陽日には納得がいかない。 しかし、この調子ではしつこく聞いても教えてもらえそうもなく、陽日は仕方なく客間を出た。 そして、勲はその背中を見つめて小さく息をつく。 (すまんな、陽日。けれど、名前を聞いてお前が混乱するといけないのでな…) 何がそうさせるのかは、まだわからない。 だが、ただですまないことは、恐らく明らかだ。 何の予備知識もないまま、花城岳志に会ったときの陽日の反応は…。 勲の心は、その時が今すぐ来て欲しいという思いと、永遠に来なければいいと思う矛盾の中で、激しく揺れていた。 |
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そして、その人物が、陽日の元にやって来た。 テラスから、勲の車が緩やかな山道を上がってくるのを見つけた陽日は、お客を迎えるべく、玄関に降りて来る。 「さあ、どうぞ」 勲の声がして、玄関の重く背の高い木製のドアがゆっくりと開く。 射し込む光の中に、お客は立っているのだが、逆光でその顔がよくわからない。 ただ、背が高くて、スレンダーの体つきであると言うことだけが見て取れる。 その姿に、ふと、陽日は鼻の奥がツンとする感覚を覚える。 わけもなく、涙が溢れそうになるのを必死で押しとどめた。 「まさひ…?」 声がした。 心臓が一つ『ドクン』と音を立てる。 「陽日っ!」 次にやって来た感覚は、体中を拘束していた。 息もできないほどきつく抱きしめられている。 「陽日っ、まさひ…っ」 その人は、何度も何度も自分の名前を呼び、確かめるようにきつく抱く。 漸く見上げたその顔は…。 (え…どう、して…?) 「陽日っ、今まで何してたんだっ。俺がどれだけ探したと思ってるんだっ。お前がいなくなって俺は…俺は…っ」 (僕を、探して…?) 涙で声にならない岳志の肩を、後ろからそっと勲が叩いた。 「花城さん…。陽日には、記憶がないんですよ」 岳志は、勲から『実の弟と偽った』という謝罪を受けた後、彼が陽日と出会ったいきさつを聞いて愕然とした。 まさか、自ら死を選ぼうとしていたなどと、思いもよらなかったのだ。 そして、勲の前に膝をつき、床に頭をこすりつけた。 「花城さんっ」 慌てて勲がその手を取る。 「佐上さん…なんと御礼を言っていいか…。陽日を助けて下さって…。あなたがいなかったら陽日は…」 陽日はそんな岳志をぼんやりと見ている。 やがて、岳志が陽日と過ごした1年間を語り、陽日が岳志の元を去った理由も語ったが、それでも陽日はただ、ぼんやりとソファーに沈み込んでいた。 「お願いします、陽日を…私に…」 岳志がそう言うと、勲はその視線でゆっくりと陽日を見据えた。 だが陽日に反応はない。 勲は予想を遥かに超えてしまった展開に戸惑いを隠せない。 花城岳志という『有名人』が直接陽日の過去に、それも、これ以上なく深く関わっているとは思いもしていなかったのだ。 何かの鍵になれば…。 そう思って仕組んだ今回の出会い。それがこんな結果をもたらすとは。 正直に言うと、半分はホッとした面もあるのだ。 陽日が何かの『虐待』から逃れてきたわけではないとわかったのだから。 しかし『虐待』が原因であったのならば、『絶対に渡さない』という決意もできる。 だが、二人は信頼しあって生きてきたのだと知ってしまった。 ならば自分はどう動けばいいのか? 「陽日…。今の話、ちゃんと聞いていたね」 そう声をかけると、陽日はだるそうに頷いた。 「何か思いだしたか?」 静かに訊ねる。岳志の瞳が期待に輝く。 しかし、陽日はゆっくりと首を振った。 「ごめんなさい。僕は何も覚えてないし、何も思い出せない」 「陽日…」 落胆する岳志の声。 「僕には信じられません。あなたと僕が、一緒に暮らしていただなんて…。僕が知っているのは、ピアニストである花城岳志さんだけですから」 言い切った陽日に、岳志は唇を噛んだ。 「すみませんが、疲れたので失礼します」 陽日は、一度も岳志の目を見ることなく、リビングをあとにした。 そして、閉じた扉をジッと見据えたままの岳志に、勲が声をかける。 「私は2年間、陽日と一緒に暮らしてきましたが、あの子は何も欲しがらない子でした」 「その前の1年間もそうでした…」 呟くように、岳志が答える。 考えてみれば、自分たちが一緒にいた時間よりも、佐上と陽日が一緒に過ごした時間の方が長いのだ。 岳志は、陽日との関係を、心を許しあった「同居関係」とだけ表現し、身体の関係も含めた「恋人同士」であったとは言わなかったのだが、もし、佐上と陽日の間もそういう関係であるのだとしたら…。 時間の長短で決められるものではないとわかっていても、それでもその事実は重く岳志にのしかかる。 そして、日々の生活も…。 きっとこの2年間、陽日は何不自由なく、大切にされてきたのだろう。 自分との1年は、生きるだけで精一杯で、何一つしてやれなかった。 そう、学校にさえ…。 「陽日が落ち着きを取り戻したとき、一つだけやりたいことがあると言ったんですよ」 勲の静かな言葉が岳志を苛む。 「勉強したい…と」 岳志が弾かれたように顔をあげた。 「記憶のないままに、陽日は何かを感じていたのでしょうね。『知らないって言うことは罪なんだ』って、それは何度も繰り返しました。 勉強して、いろんなことを知りたいと。そして、誰の足手まといにもならないように、自分の力で立ち上がりたいと。 だから私は、ありったけの時間を割いて、陽日にいろいろなことを教え、いろいろな所へ連れていき、いろいろなものを見せた。 そして最後に陽日自身が選んだのが、音楽の世界でした。 演奏の知識がない分を、陽日はその耳と感性でカバーした。誰よりも注意深く聴き、誰よりもその音を心に取り込んだ」 勲の言葉を受け止め、岳志は感じた。 2年前、陽日を叩きのめした「あいつ」の言葉が、陽日を強くしたのだと。 なのに、自分は何をしたのか。 自分はピアノを弾くことに夢中になって、一番大切なものを置き去りにした。 それは、誰の責任でもない。もちろんあいつの責任でもなく、自分の犯した罪だ。 岳志は頭を抱えた。 もう、陽日は手の届かないところに行ってしまったのかと。 「そんな陽日が、一番幸せそうな顔で聴くのが、あなたのピアノでした」 岳志は信じられないといった面もちで再び顔をあげた。 「あなたへの佐上香の評論は、愛に溢れていたでしょう?」 ややあって、岳志の頬を、一筋流れ落ちるものがあった。 「悔しいが、記憶をなくしても、陽日の中にはまだ、あなたがいるようだ」 勲は立ち上がった。 「陽日ともう一度話をして下さい。陽日があなたの元へいくと言えば、私は何も言わない。ただ、お願いがあります」 そう言いながらドアを開ける。 「無理強いだけはしないで下さい。 思い出せ、と強要することも…」 その言葉に岳志は真摯に頷いた。 「陽日を呼んできます」 勲がでていった。 それから陽日が来るまでの間、ほんの数分が岳志にはとてつもない長さに感じられた。 陽日が来たら、なんと言おう。 まず許しを請う。そして、愛していると告げる。 そして、そして…。 「花城さん…」 陽日が消え入るような声をかけてきた。 「陽日…っ」 岳志は立ち上がり、ドアの前に佇む陽日の元に駆け寄る。 しかし、抱きしめようとする前に、岳志の動きは止められてしまった。 陽日が両腕を突っ張ったのだ。 「まさひ…?」 陽日は醒めた瞳で岳志を見上げる。 「落ち着いて下さい。僕の話をきちんと聞いて下さらないのなら、僕はもうこれ以上ここにいるつもりはありません」 その姿は陽日でも、その心は言いようもなく遠い。 「あ、ああ、すまない」 抱きしめようとした手を所在なげに下ろし、岳志は一度息を吐いた。 「僕が、あなたのことを忘れてしまっていることについては申し訳ないと思います。 けれど、記憶が戻らない以上、僕にはどうすることもできません。何も思い出せない過去よりも、僕には今の……」 そこまで一気に告げて、陽日も一度、大きく息をした。 「今の……勲さんとの生活の方が大切なんです」 ……それは、いきなり突きつけられた最後通告だった。 岳志は、言いたかったことを何一つとして言えないまま、……陽日に切り離された。 「これからも、ピアニスト・花城岳志に期待しています」 陽日はそう言うと、瞳を伏せたまま部屋を出ていった。 |
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「花城さんっ、岳志さんっ」 マネージャーの晋が岳志のベッドを揺する。 「リハの時間ですっ、起きて下さいっ!」 昼前だというのに、寝室には酒の匂いが充満している。 今月に入ってすでに2回、岳志はコンサートをキャンセルしている。 主な理由は体調不良。 周囲も最初は心配して、医者だの何だのと騒いでいたが、ここへ来て、岳志の様子が体調不良によるものではないと気付き始めていた。 今夜もドタキャンとなると、さすがにレコード会社もエージェントも黙ってはいないだろう。 人気ピアニストの我が儘…ではすまなくなる。 晋は必死で岳志を起こしにかかる。 「お願いですからっ。岳志さんっ!」 その悲痛な声に、岳志が漸く身じろぐ。 「まつざき……」 羽布団の下から、不健康にくぐもった声がする。 「今日はリハなし…。本番一発勝負…」 「ダメですっ!そんなわけにはいきませんっ!調律も待機して待ってるんですよっ。早く起きて下さいっ」 「んー、うるさい…・」 それだけ言うと、岳志はまた黙りを決め込んだ。 晋は半泣きの表情でベッドから降りる。 岳志がこんな風になってしまったのは、軽井沢から帰ってきてからだ。 『今度のオフ、軽井沢へ行って来る』 佐上勲のアトリエに招待されているのだと楽しそうに語り、出掛けていった岳志が、帰ってきたときには別人の様な表情を見せていた。 まるで、この世のすべてに絶望したような。 いったい何が、軽井沢であったのか。 晋はもう、我慢がならなかった。 (調べてやる…) 暗い決意を秘めて、晋は立ち上がった。 ピアニスト・花城岳志を救うために。 いや、それだけではない。 花城岳志という人間を、自分が失わないために…。 |
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調べるとすぐに、佐上勲の弟があの『佐上香』であることがわかった。 その本名が佐上陽日―まさひ―であることも。 そして、入手した陽日の写真が、あのフォトフレームの少年と同じであることも。 成長はしていても、写真の笑顔は変わらなかったから。 佐上陽日は花城岳志の邪魔になる。 わけもなくそう確信して、晋は軽井沢へ向かった。 そして晋が軽井沢へ向けて車を走らせている頃、岳志は重い体を引きずってスタジオ入りをしていた。 新譜の打ち合わせのためだ。 ステージはオールキャンセルとなった。 表向きの理由は病気治療。 しかし、岳志はレコーディングにだけは応じていた。 録音すれば、また佐上香が評論を入れてくれるはずだから。 今となってはそれしか自分と陽日を繋ぐものがない。 しかし、せめてそれだけでも繋がっていたいと願う。 「あれ…?松崎くんは?」 岳志はマネージャーの姿を探す。 珍しく迎えに現れず、連絡もなかったため、きっと先にスタジオ入りして待っているのだろうと思っていたのだが、どこにもその姿が見あたらない。 「ああ、今日はこないと思いますよ」 レコーディングスタッフが煙草をもみ消しながら言う。 「急用で軽井沢へ行くって言ってましたから」 「え……?」 軽井沢、と言う言葉に岳志は一瞬思考を止め、そしていきなり立ち上がった。 「え、あ?花城さんっ?!」 スタッフが声をかけたときには、岳志はもう走り出していた。 佐上勲は今日、軽井沢にはいないはず。 東京での個展の案内が来ていたのだ。 開催期間は今日から2週間。 軽井沢には、陽日しかいない…! |
「4」へ続く |