君と幸せになるために





「で、ご用件は」

 陽日は応接間で、突然訪れた『花城岳志のマネージャー』に向き合っていた。

「あなたと岳志さんの関係を教えていただきたいのです」

 晋は真っ直ぐに陽日を見つめる。

 その瞳は、岳志を助けるのだという正義に溢れている。
 自分には非など何もなく、悪いのは相手だと決めつけている視線。

 陽日はこんな視線に覚えがあった。



『君は本当に何も知らないんだね』 

 確かその時はそう言われた。 



「花城さんが何かおっしゃったのですか?」

 陽日は穏やかな声でそう返す。

 このマネージャーが何を言いたいのかはわかっていた。

 花城岳志はあの後、ろくに弾いていないのだ。

 ステージがキャンセルになっていることも、もちろん陽日は知っている。


 晋は一度だけ首を振った。

「いいえ。何もおっしゃいません。でも…」

 一瞬言い淀んだ晋に、陽日が言葉を被せる。

「でも?」

 それに促されたように、晋の言葉は堰を切った。

「私は、あなたのせいだと確信しています。 あなたが岳志さんに何かをしたんだ。 だから彼は苦しんで、あんなことに…っ」

 陽日は小さくため息をついた。
 もう、僕にかまわないでくれ、と内心で呟く。


「松崎さん…。ご期待に添えなくて申しわけないのですが、僕は自分の過去を知りません。 花城さんは僕の過去をご存じのようでしたが、生憎僕は何も思い出せなかったんです。ですから、僕には何もできない。花城さんに関わることは何もないんです…」

 そう告げると、晋は怪訝な顔を見せる。

「では…岳志さんが知ってるあなたの過去とは何なのですか?」

 岳志のことしか見えていない晋には、すでに聞いていいことと悪いことの境界がなくなりつつある。

 こんなのを相手にするとろくなことはないと思いつつ、しかし、追い出す手だてもなくて、陽日は途方に暮れたように返事をした。

「そんなことまであなたにお話しする必要があるんでしょうか? これは、花城さんの仕事には関わらない部分です。あくまでもプライベ…」

「岳志さんは弾けなくなってるんだっ。あんたのせいに決まっているっ!」

 激高した晋は立ち上がり、陽日の細い肩を掴んだ。

 その衝撃に陽日が顔をしかめる。
 しかし、晋が手を離す様子はない。


 陽日は仕方なく……それでもほんの少しの喜びを込めて……二度と口にしないであろうと思っていた言葉を吐いた。

 それは確かに、叶わなかった想いへの『未練』なのかもしれないが…。



「花城さんと僕は……恋人同士…でした」



 確定形で語られたその言葉に、晋の目が驚愕に見開かれる。

「恋人…同士…?」

 もしかしてという思いはあったが、本人の口から直接聞いてしまうと、取り返しのつかないことをしてしまったような気になってしまう。

 ふと脳裏を掠めるのは、思いの丈を込めるように、フォトフレームを抱く岳志の姿…。

「今は……違うんです…ね」

 晋の爪が、陽日の肩に食い込んだ。

「…っ…」

 苦痛に歪む陽日の表情は、今や晋の目には映っていない。

「違うも、何も…。僕は、何も覚えてな…い」

「だったら、今すぐ岳志さんの視界から消えてくれっ」



 ああ、まただ…と、陽日は思う。

 自分がいると、最愛のあの人は幸せになれない。
 今度のことも、身を切る思いで突き放したのに。



「君がいると、岳志さんが迷うんだっ」

 晋は陽日を床に押し倒し、その細い身体に乗り上げた。

 陽日は背中を打った衝撃にまた顔をしかめるが、晋の声に涙が混じっている事に気が付いた。

 見上げると、晋も苦痛に満ちた表情をしている。

 瞬間、あの時のあの人―『岳志の右手を取り戻した恩人』―とは違う…と、感じた。

 このマネージャーは、心から岳志を大切にしているのだと…。

 ならば、自分の取る道は一つ。


「うん…。わかってる」

 陽日は笑顔で応えた。

「え…?」

 意外な返事と意外な笑顔を見せられて、晋が一瞬呆気にとられる。

「多分そうなんだろうね。 あの人は僕を見ると切なそうな顔をする」

「だったら…」

「いいよ…。あなたの好きにしたらいい。 それがあなたの望みなら、僕は永遠に彼の視界から消えてあげるよ」

 そう言って陽日は、自分の肩を押さえている晋の手を取った。

「ほら、喉はここ。 親指をかけて少し力を入れるだけでいい。 僕の喉は細いから、きっとすぐに潰れてしまう。多少苦しくても我慢するから、しっかり力を入れて下さいね」

 あまりにも平然と、自分の命を他人の手に委ねようとする陽日に、晋の方がのまれてしまった。

「君…。陽日くん…どうして…」

 その手は陽日の喉にあるが、小刻みに震えている。

「僕は一度死に損なってる。 本当は助からない方がよかったんだ。 そうすれば、勲さんも、花城さんも、あなたも、幸せだった」

 それは、初めて耳にする『評論家・佐上香』の過去。
 陽日は死を選んだことがあるというのか。

「そんな…。じゃあ、君の幸せはどこにあるんだよっ。君は自分の幸せは考えないのかっ」

 もう、支離滅裂だった。
 晋の中の、想像の陽日はこんな人間ではない。
 もっと身勝手で、自分のことしか考えないイヤなやつ。
 そんなヤツから、岳志を守ろうと、ここまでやって来たのに。



「僕の幸せは…」

 陽日はそこで口をつぐんだ。

 僕の幸せは、あの人が幸せであること……。

 しかし、その心の声は表に出ることはなかった。



「この世から消えてなくなること」 



 そう告げて、陽日は満開の笑顔を見せた。


「さあ、岳志さんの幸せのために、力を入れて…」


 天使の笑顔で悪魔のように囁く。 

 すでに自我を失いかけている晋に、陽日はもう一度、念を押すようにニッコリと笑った。


「愛する人のためだったら、何でも出来るんですよ」


 その笑顔に魅入られたように、晋の指に力がこもる。

「…く…っ」
 小さく陽日が呻く。

 岳志…。
 心の中で呼んでみる。

 愛し…て…

 視界が白く濁り始めた。





「そこまでだ」

 開けっ放しだった応接間の扉に、勲が立っていた。

「松崎さん…。もう、陽日を許してやってくれませんか」

 弾かれたように身を起こした晋は、悪夢のさなかにたたき起こされたような顔をしている。

 勲は陽日に歩み寄り、その身体を抱きしめるように起こし、抱き上げた。
 軽く咳き込む陽日の背を、大きな掌で労る。

「花城さんが弾けなくなったのは、確かに陽日のせいかもしれない。 だがね、陽日の存在なしにピアノが弾けても仕方がないんだよ、あの人は」

 独り言に近い言葉をその耳に拾い、晋は唖然とする。

 ピアニストにとって、ピアノはすべてであり、それ以上大切なものなど存在しないと思っていたから。


「松崎さん、あなたも音楽に関わる仕事をしていく以上はその事を忘れない方がいい。
 大切なのは、音を紡ぐ技術じゃない。何のために、誰のために演奏しているか…だ。 もちろんそれが、自分のためであってもかまわない。
 だが、花城さんは陽日のために弾いていた。 陽日の幸せのために、弾いていたんだよ」 

 ビクッと身体をふるわせた陽日を、宥めるように少し揺すってやる。

 晋は、床に視線を落としてヨロヨロと立ち上がった。
 勲は遠慮することなく、もう一言、告げる。 

「捧げる相手のない音は、もう、死んでいるんだよ」

 その言葉で、晋は思い至った。
 岳志がステージに乗らなくなっても、録音だけは続けていることを。


『録音すれば、佐上香が聴いてくれる』


 岳志は、本当に陽日のためだけに弾いていたのだ…と。

 何も言わず、ふらふらと出ていく晋を、勲は視線を逸らさずに見送り、陽日は勲の胸に顔を埋めたままでいた。






「陽日…」
「勲…さん」

 勲は陽日を抱きかかえたままで、ソファーにそっと腰を下ろすと、その瞳を覗き込んだ。

「教えてくれないか?…いつから記憶が戻っていたのか…」

 陽日の瞳が見開かれた。

「花城さんとお前が…恋人同士だったこと…」

 聞かれていたのだ。
 岳志でさえ言わなかった真実。
 二人が恋人同士であったと言う事実を、陽日自身がその口で語ったのを。

 陽日の開かれた瞳から、ポロッと涙がこぼれる。

「ご、めんなさ…」

 その言葉を最後まで言わせずに、勲は陽日を抱きしめた。

 陽日の記憶について確証を持てたのは、つい先ほどの松崎とのやり取りを聞いたためだった。

 しかし、勲は改めて思う。
 少なくとも陽日の記憶は、ここで花城岳志にあったときにはもう、戻っていたのではないかと。

 あの『入水』の日から2年。
 漸く素直に感情を表せるようになっていた陽日が、あの日、見事に被った無表情の仮面。

 あれだけ傾倒し、絶賛していたピアニストに会ったというのに、その瞳は恐ろしいほど冷静で…。


「私は、陽日の口から本当のことを聞きたい。…聞かせてくれるね」

 穏やかな微笑みを浮かべる勲に、陽日は視線を合わせたままゆっくりと頷いた。





「僕は…何も忘れてなんかいなかった…。
 忘れたかったんだけど、忘れられなかった。
 けれど、忘れないと、もう、生きていけないと思った。
 死に損なって、もう一度生きて行かなくちゃいけないのなら、忘れるしかないって…。何もかも忘れて、違う人間にならなくちゃダメだって…」

 一つずつ、言葉を確かめるように紡ぐ陽日を、勲は温かく抱きしめる。

「真っ暗な所を抜けたら、勲さんがいた…。 泣きたくなるほど優しく微笑んでもらえて、僕は勲さんの優しさに甘えようと思った。 そして、このまま静かに生きていこうと思ったんだ…」

 勲はその告白を黙って聞いていたが、陽日が口を噤むと、やがて静かに語りだした。

「陽日…。東京にいるはずの私がここにいるのは何故だと思う?」

 その言葉に、陽日はハッと顔を上げる。
 そう、確かに勲は個展のために東京にいるはずで…。

「私を呼んだのは、花城さんだ」

 陽日の大きな瞳が開かれて、その中心に勲の姿がはっきりと写る。

「陽日に危険が及ぶかも知れない、陽日を助けてくれ、と…。
 そして、彼はこうも言ったよ。『もう、誰にも陽日を傷つけさせたりしない』ってね」

 陽日の瞳が揺れ始める。

「陽日は、なぜ花城さんがピアニストとして再デビューしようとしたか、知っているか?」

 たずねると言う形はとったものの、勲はもとより返事を期待していない。

「彼はね、お前を学校へ行かせたかったんだよ」

 陽日の揺れる瞳が凍り付いた。
 そんなこと、一度も聞いたことがない。

「自分が『一流』と言われる世界へ戻れば、お前も良い教育と良い環境の中で生きていける。それが目的だったんだそうだ」

「そ、んなこ、と…、僕、聞いたこと……ない」

 漸く紡いだ言葉は、まるで抗議しているように聞こえてしまう。

「そりゃあ、彼はそんなこと言わないだろう。大人のプライドってものがあるからね。 そしてこれからも何も言わないだろう。だから私がお前に教えているんだ。 それに…」

 陽日はすでに大粒の涙を流し始めている。  
 勲はそれを、親指でそっと拭う。

「…それに、『あの』花城岳志が海外進出しなかった理由…」

 勲はまた、ギュッと陽日を抱きしめた。
 きっとこの後、陽日は激しく泣き出すだろうから。

「お前が国内にいることがわかっていたからだそうだ」

 陽日の体が大きく震える。

「陽日はパスポートを持ってでただろう? 彼は、出入国記録まで調べたそうだ。だが、『香野陽日』が海外へ出た形跡はない。 だから、彼はその活動を国内に限った。そしてツアーに行く先々でコネクションを作り、陽日の行方を探していた…」

 陽日の反応は予想通りだった。

 激しく泣きじゃくる陽日を抱きしめ、その髪を優しく撫でて、勲は時が流れるのを待つ。




 どれくらいの時が経ったか、陽日の泣き声も掠れ、その身体は力を失ってぐったりと勲の腕の中にある。
 

「陽日は今、誰の幸せを願っている?」

 しかし、未だに涙が止まらない陽日の肩を、暖めるようにさすりながら、穏やかな声で勲が訊ねた。

「陽日はきっと、花城さんの幸せと、そして私の幸せを願ってくれているんだろうね」

 そう言われて、漸く陽日は顔をあげた。

「お前はきっと、自分が花城さんから離れ、私の傍に居続けることで、みんなが幸せになると思いこんでいる」

 思っていたことをそのまま口に出され、陽日は酷く狼狽えた顔を見せた。

「でもね、陽日。それはお前の思い上がりだよ」

 陽日の狼狽えた顔は、一気に驚きに変わる。

 愛する人の幸せを願うこと…それを『思い上がり』と表現されるとは。

「な…ぜ…」

 漸く唇から漏れた言葉は、やはり掠れていた。

「私たちは神様じゃない。 一度にたくさんの人を幸せにすることなどできないんだよ」

 静かに告げて、勲は、物言いたげに少し開かれた陽日の口を、人差し指でそっと押さえる。

「ちっぽけな人間に出来ることは、まず、一番好きな人、ただ一人を幸せにすること、だ」
「一番…」
「そうだ」

 勲は再び陽日を優しく抱きしめた。

「陽日は考えたことがあるか?花城さんの本当の幸せを…」
「本当の幸せ…」 

 勲は一つ、息を吐く。

「彼の幸せは、お前の存在なしにはあり得ないのだと言うことを知りなさい」

 陽日の身体が、また小さく震えた。

「ちっぽけな陽日は、彼一人を幸せにするだけで精一杯のはずだよ」 

「勲さん…でも、でも僕は…っ」 


 どこの誰ともわからない自分を養子にし、溢れんばかりの愛情を注いでくれた勲の元を離れるわけにはいかない。

 陽日はそう思い詰めて、勲のシャツを掴む。


「私だって、陽日の幸せを願うだけで精一杯だ」


 少し身体を離して、瞳を覗き込む。
 すると、濡れた瞳が縋るように見つめ返してくる。

「佐上陽日は私の大切な子だ。それは、お前が花城さんのところへ行っても変わらない」

 勲は膝から陽日を降ろし、ゆっくりと立ち上がった。

「行きなさい、陽日。門のところで、彼が待っている」
 


 
☆.。.:*・゜
 


 その頃岳志は、所在なげに佐上邸の門の前に立っていた。

 ヨロヨロと出てきた晋が、チラッと岳志の姿を見た途端に車に駆け込んで急発進していった以外には何も起こらない。

 山に囲まれた静かな屋敷は、まるで誰もいないかのようにひっそりと静まり返っている。

 いや、もしかしたら、もう誰もいないのかも知れない。

 陽日は、勲といることを選んだ。

 もう、二人は二人だけの世界へ行ってしまったのかもしれない。

 けれど、だからといって今、自分にここを立ち去る勇気はない。

 姿を見ることは叶わなくても、ここにずっと立ちすくんでいたい。

 聞こえてくるのは、相変わらず鳥の声…。
 ただそれだけの………。
 


 ……微かに、音がする。
 屋敷の中からなのか、小さな足音のような…。

 やがてそれは近づき、玄関の大きな扉がゆっくりと開く。

 門扉の向こうに見えるのは…。


「まさひ…?」


 もう、逢うことは叶わないと思った者の姿が、岳志の瞳に映る。  


「…岳志…っ!」


 そしてその声は、確かに自分の名を呼んだ。
 あの頃の声で。


「まさひ…、陽日っ!!」
 





 応接間の窓に人影がある。
 ホッと一つため息をつき、小さく呟いた。

「陽日…、大勢の人を幸せにすることは、神様にでもお任せしておこう…。 お前は、自分の幸せを追って行きなさい」 




 陽日―この世に生を受けて18年目に漸く気付いた、本当の幸せの形。





 僕の幸せは、あの人が幸せであること……。

 そして、あの人の幸せは…、僕が幸せであること。



END


2001.11.8 UP


55555GETの玲千さまからいただきましたリクエストです。

リク内容はズバリ、「君が幸せであるために」の続編(笑)
『陽日を幸せにして〜!』と言うお声は多数いただいておりましたが、
こんな感じでいかがでしょうか?

「君が幸せであるために」の直後、陽日の入水シーンなどを日記に載せてしまったために大変お騒がせしましたが(笑)、これで、陽日と岳志も一段落です(^^ゞ
本編はこれにて完結ですが、番外やSSでお目にかかることもあるかも知れません。
その時は温かく迎えてやって下さい(笑)

玲千さま、リクエストありがとうございましたvv

嬉し恥ずかし、『後日談:君とLoveLoveLove』へGO!

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