(みずかがみ〜もみじのきおく)
第1話 紅葉の章【1】
その白い手に、真紅に染まった一枚の葉を取り上げる。 『この色は…思いを注ぐあなたの色』 膝を折り、黄色一色に染めあげられた葉を拾う。 『この色は…私の想いを受け止めてくれるお前の色』 地面に落ちた葉は、黄色と赤が混ざり合って一枚の敷物になる。 『混じりあえばもっと綺麗になるというのに…』 そして俺たちは必ず同じ風景の前に立つ。 一面の紅葉…紅葉…もみじ…。 風もなく、音もなく、ただ視界のすべてを覆おう紅葉と、そしてそれを映し出す、鏡面のような…。 大きく穏やかな池が俺たちと紅葉の間に横たわる…。 『何処まで行こう』 『何処までも』 『二人、共にいられるのなら、何時までも、何処までも……』 物心ついた頃から何度同じ夢を見たことだろう。 いつもいつも、知らない間に誰かの横に立ち、そしてもちろん、結末を見たことなど一度もない…。 だが、目覚めた朝は何故か切ない気持ちが満ちていて…。 今日も同じ夢で目が覚めた俺の名は、宮内健吾。 今年の春、大学を出たばかりの新米新聞記者だ。 3年前、ガンで他界した親父の後ろ姿に憧れ続けていた俺は、めちゃめちゃ勉強した挙げ句、持てるコネを総動員して親父と同じ新聞社に入社した。 目指すは、やっぱり親父と同じ、バリバリの事件記者。 …それが…。 あ〜あ。今夜の取材も風雅で結構なこった。 入社して8ヶ月。俺は文化部にまわされて、日々地元の『話題』を取材しに走り回っている。 そうでなくともここ京都は一応文化都市で、文化財も多いし、文化行事も多い。それに、三千家を始め種々の流派の家元がたくさんあったりするから、文化部はこれでもかなり忙しい。 くどいようだが俺は『事件記者』を目指していたので、生まれも育ちも京都ながら、そっちの方にさっぱり関心はなく、入社して配属されたから慌てたという有様だ。 茶道、華道、能、狂言、雅楽……西陣織、京友禅、京焼、京漆器、その他多くの伝統工芸の数々…。 取材に勉強が追いつかず、恥ずかしい思いをすることも何度もあった。 でも、その度に取材先で色々と教えてもらい、新米だからと言うことで親切にしてもらいながら漸くここまで来た。 あっという間に過ぎた8ヶ月。 最近俺は、この京都の中でももっとも厄介なのは、神社仏閣だと思うようになった。 何しろ数が多すぎる。取材先で宗派を間違えようものなら大変なことになるし、ご神体を間違えても大事になる。 聖職にある方々の中には、筋金が入りすぎて、とっても扱いにくい人も多いし…。 だから俺は、神社仏閣絡みの取材は苦手だった。 そして今夜の取材も、お寺…だ。 とは言っても、今日のは少し楽しみでもある。 東山の高台寺で行われる「夜間ライトアップ」のプレスプレビューだからだ。 俺は、日中に数件の取材を済ませ、潜り込んだ馴染みの喫茶店でその分の原稿を打ち、午後7時に高台寺に到着した。 臨済宗建仁寺派の名刹、鷲峰山・高台寺は京都の東、東山霊山の裾にある。 本当の名は『高台聖寿禅寺』と言い、豊臣秀吉の没後に、その菩提を弔うために、正妻である北政所『ねね』が慶長10年(1605年)に開いた寺である。 もちろん、国の重要文化財に指定されている。 しかし、そんな高台寺も長い間、住職のない荒れ寺だった。 それを、TVで『太閤秀吉』がまたしてもドラマ化されたのに刺激されたのか、整備し、観光客を受け入れるようになってからと言うもの、観光名所の仲間入りを果たした。 そして数年前から、春と秋の2回、期間を限って『夜間ライトアップ』を始めたのだ。 俺が着いた時には、そこそこの人が入場を始めていた。 どうやら、報道関係よりは「ただの関係者(つまり身内)」の方が、数が多そうだ。 ここは少し高い場所にあるので、大木の間から見え隠れする京都の街灯りが、それこそちょっとした宝石箱のようで美しい(宝石箱をひっくり返したような…とまでは言えないのがちょっと寂しいが…)。 そんな眺めに、『今日の取材は悪くないな…』なんて一人前風な感想を漏らしつつ、俺が目を転じた先は…。 うわっ、墓場まで後ろからライト当ててやがる…。 ちょっと趣味悪いって…。なんかが出てきたらどうすんだよぉ…。 不気味なところはそそくさと流して、俺は小さな茶室の前へと出た。 小さな小さな茶室には、これまた小さな障子がついているのだが、それは締め切ってあって中は見えない。 しかし中から暖かいオレンジ色の光をぼんやりと当てて、茶室そのものを一つのオブジェに見せるような趣向が凝らしてある。 しかし…ライト当てっぱなしで大丈夫なのか? 文化財の保護には細心の注意を…っていつも言ってるじゃないか、仏教界の人たちってさ…。 ん…?俺って、事件記者には相当向いていない思考を巡らせてる? 事件記者ってのは、事件がない平和な世の中を願ってちゃいけないっていう、とんでもない嫌な商売なのだ。 事件が起きたら小躍りして現場に駆けつける。そんなとんでもなく図太い神経の持ち主でないと務まらない。 親父はよく言っていたっけ…。 『責任は己のペンで取れ』ってさ…。 そんなことを思い出すと、ふと、俺って事件記者には向いてないかもな…って思う。 それともたった8ヶ月で文化部色に染まってしまったんだろうか…? 手入れの行き届いた庭に、効果的に配されたライトの数々を眺めながら、俺は方丈の前庭を掠め、中門を抜けて臥龍池(がりょうち)の前へ来た…。 臥龍池…それは庭園の真ん中に堂々と横たわる静かな池…。 これは…。 俺は息をのんだ。 晴れた夜空、ほぼ無風…。 これは、水鏡…か。 それとも、この空の高さと同じだけの深さがこの池にあるのか。 僅かな空気の振動さえも受け付けないように、池の全域に渡って磨き上げたような鏡面が広がっていた。 池の縁を彩る紅葉、繊細かつ大胆に張り出す種々の枝、池の横を這うように伝う臥龍廊、どれもがまったくそのままに、池の中にも同じく存在していた。 俺の目の前に大きく枝を伸べる紅葉は、地上に存在する枝とまったく同じものをそのまま水中へと這わせている。 いったいどこが水面なのか、いったいどこからが水中なのか。 それとも、この水中の世界は現実のものなのか…。 もしかしたら、俺が今いる地上が、映し出された幻なのか…。 あまりに幻想的な光景に、俺は呆然と水鏡を見つめていた。 その時、ふと風が通り抜け、水面にさざ波を起こし、水底の世界が姿を消した。 やがて風が止み、そして再びもう一つの世界が見えたとき…。 水面に一人の少年が映った。 俺の瞳を捉えて、にこり、と笑う。 「ひっ…」 俺は無様な声を上げて後ずさった。 その瞬間、背中に柔らかいものが当たった。 「あ、すみませんっ」 人にぶつかってしまったようだ。 「いえ…」 謡うように紡がれた言葉が、心地よく耳を通り抜けていく。 振り返った俺は、もう一度息をのんだ。 (さっきの子…?!) 水面にいきなり現れて笑った少年だったのだ。 この子が水鏡に映っていただけなんだろうか? 俺はもう一度、臥龍池に目を向けた…。 しかし、水面に少年の姿はない。 一瞬ためらってから、もう一度振り返ってみた。 「あ、あの…」 少年は優しく微笑んでいた。 「あ…いえ、何でもないです。ごめんなさい」 俺はぺこりと頭を下げた。 「…で…」 再び頭を上げたとき、彼の姿はもうなかった…。 どういうことなんだ? 俺は方々を振り返って見た。 臥龍池の横に堂々と立つ『開山堂』、その真正面にあたる『中門』、臥龍廊の先にある『霊屋』…そして庭園の向こうに立つ『観月台』『方丈』『書院』…どちらの方向にも彼の姿はなかった。 隠れられるようなところはどこにもない。 いくら夜とはいえ、ライトアップのさなか、人を見失うような暗がりもない。 明日からの一般公開は混雑を極めるが、今日はプレスのためのプレビューで、人もまばらにしかいない。 こんな風に消えてもらっては困るのだ。 そうでなくとも俺はこの手の話には弱い。 怪異、幽霊の類は大嫌いなのだ。 結局、地上に彼の姿を見いだせなかった俺は、意を決してもう一度…もう一度、臥龍池を見た。 相変わらず磨き上げたような水面は、吸い込まれそうなほど深く、水中の景色を作っていた。 当然と言えば当然、彼の姿はなかった。 俺はホッとするのと同時に、微かな寂寥感を覚えていた…。 そしてさっきまでは感じなかったこの感覚…。 水底の風景は…誰かを待っているように…見えた…。 昨夜見た不思議な光景のせいで、今朝の俺は寝不足だ。 いつもは俺のことなんかまったく眼中にない姉貴までが『大丈夫?』と聞いてきたくらいだから、よっぽど酷い顔してたんだろうな…。 それでも、仕事は仕事。 今日は朝から、華道展の取材が入っている。 俺は地下鉄を降りると気合いを入れて、パンッと顔を一発叩いた。 地上に出ると、すぐに花屋がある。 俺の職場はすぐその向かいだ。 花屋の前で立ち止まり、俺はいつものように季節の花々を眺める。 別に、特別花が好き…ってわけじゃない。もちろんキライではないが。 以前の俺なら花屋の前で立ち止まるって事は絶対なかったんだけど、はっきり言って、これも仕事の影響だ。 もちろん『季節の花便り』なんてのんびりした記事もよくあるけれど、京都の秋は、春に次いで各流派の『華道展』が多い時期だ。 花の名前を知らずに取材なんかにいくと、とんでもない恥をかくときもある。 特に今日取材にいく『華道展』は、うちの新聞社が『後援』をしている流派のものだ。 当然、季節の花は要チェックなのだ。 まして、この花屋は各流派に花を納入している。 だから、『華道展』でしかお目にかからないような、高級で珍しい花の名前もすぐわかる。ありがたいことこの上ない。 「おはようございます」 いつものように声を掛けてくれるのは、店員の杏子ちゃん………じゃ、ないぞ…、この声は…。 「…昨夜」 何となく耳について離れなかった『謡うような』声が、俺の耳を抜けていく。 顔をあげた俺は、もう少しでみっともなく悲鳴を漏らすところだった。 「き…………きみ…」 そこにいたのは、昨夜の少年…。 「あ、おはよーございまーす!」 いきなり奥から、こんどこそ杏子ちゃんが現れた。 「あれっ?宮内さんってばどうしはったん?朝っぱらから不景気な顔しちゃってー。あ、わかった、昨日飲み過ぎたんでしょ。記者ってただでさえ過酷な仕事なんやから、ちゃんと健康管理せんとあかんでしょー」 杏子ちゃんこそ、朝っぱらから異様に元気だね…と、普段の俺なら言っている。 けど…。 「何?どうしたん?マジ具合悪いの?」 肩を軽く揺すられて、俺は漸く自分を取り戻した。 「あ、いや、何でもない」 それでも俺の声には動揺の色がありありと窺える。 みっともなくも震えてたんだ…。 「少し休まれた方がいいんじゃないですか?奥の部屋、暖かいですから…」 彼が穏やかに、けれど心底心配そうに言ってくれた。 「ううん、ほんとに大丈夫だから…」 そう言って、踵を返そうとしたとたんに、俺は躓いた。 「危ないっ」 とっさに後ろから俺を支えてくれたのは、少年の細い腕…。 しかし、どこにそんな力があるのか、その細腕は驚くほどの強さで俺の身体を支えてくれた。 「休んでいって下さい」 今度ははっきりと言われた。 「そうよ。そんな顔色してたら仕事なんか出来ないんと違うのー?どうせ今日も取材に直行でしょ?それともどうしても出社せんとあかんの?」 杏子ちゃんが、ちょこまかと俺のまわりで騒ぐ。 「いや、現場直行でいいんだけど、ちょっと資料を取りに行こうかと思って…」 「ならええやないの。私、酔い覚ましに濃いお茶淹れてきてあげるから、成くん、宮内さんを奥へお願いね」 俺の話を最後まで聞かずに、杏子ちゃんは彼に話しかけた。 彼の名は…な、る…? 「なる…くん?」 小さくそう聞くと、彼は嬉しそうに笑って、ほんの僅か、俺にだけわかるように頷いた。 「へ?宮内さん、何ボケてんの?成くん、ずいぶん前からうちにいるやないの。まるで今初めて会ったみたいな顔しはってー。ホント酔っぱらいって困るわー」 完璧に俺を『二日酔い』だと誤解している杏子ちゃんは、きゃたたっ、と笑いながら、ピューッっと店の奥の奥へ消えていった。 え?前からいる?彼が…? まさか、嘘だろう…。俺は4月に入社してから、ほとんど毎日のようにこの花屋の前を通ってるんだぞ。 俺、これでも新聞記者のプライドとして、一度あった人は忘れない…って心に誓って実践してんだからな。 「僕…いつも奥にいますから…。でも、僕は宮内さんを見ていましたよ…」 俺が顔中に疑問符を浮かべていたのに気づいたのだろうか。 彼、なるくんは、はにかんだ顔で説明してくれた。 「僕は…久我崎 成(くがさき・なる)と言います…」 「そう…だったんだ…。ごめん。…俺…は」 何を謝ってんだかわかんないが、何だか申し訳なくて、俺は自然と頭を下げていた。 「よーく知っています。宮内健吾さんでしょ?京都新報・文化部の…」 え?どうして。 「…昨夜初めて…」 そこまで言って彼はほんのりと頬を染めて俯いた。 …!やっぱり昨日の少年は、彼、成くんだったんだ。 「そう…そうだよね。昨夜高台寺で会ったの、君だよね?」 俺は早く確かめたくて、思わず成くんの肩をがっしりと掴んでいた。 「あ…覚えてて下さったんですね…」 成くんは嬉しそうに笑ってくれたが…。 「どうして、急にいなくなったんだ?俺、びっくりして探したんだぞ」 そう、おかげでこの有様だ。 成くんは、ちょっと目を伏せ、申し訳なさそうに言う。 「ごめんなさい…。急がないと、戻れなくなりそうだったので…」 あ…そうか…帰るところだったのか…。 「でも、宮内さんを見つけたから、嬉しくなって…。僕もちょっとびっくりしてたから、ちゃんとご挨拶もできなくて、本当にごめんなさい。」 そう言ってちょこんと頭を下げた彼は…うう、何だか可愛いぞ…むっちゃ可愛いぞ…。 …おい…ちょっと待て、いくら可愛くても、相手は少年だ…少年。 「あ、あのさ、昨日はプレスプレビューの日だったじゃないか。どうして、その…成くんがあそこに?」 何とか自分の動揺を隠そうと、慌てて話題を探したんだが、俺が『成くん』と言ったところで、彼は笑顔を満開にした。 「僕、高台寺の側に住んでるんです。それで…」 そうか、ご近所さんは『身内』なんだ。 「ちょっとー、いつまでそこで立ち話してんのー?お茶入ったから、早うこっち来てー」 奥から元気な杏子ちゃんの声が飛んだ。 俺と成くんは、顔を見合わせ、『クスッ』と笑いを漏らして奥の部屋へと向かった。 |
紅葉の章【2】へ続く |
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