第4話 水面の章【1】




「兄上! ほら、見事ですよ!」

 京の都。東山山麓の秋。

 この辺り一帯に広大な敷地を有する大貴族、久我家の裏山も錦秋が広がっている。


「木々の紅葉も見事だけれど、斉昭、見てごらん。苔の緑にも鮮やかな錦の敷物が広がっているよ」


 久我家の末子・斉昭は、長子・忠昭に示された方を見遣り、声を上げてはしゃぐ。

「本当ですね。彼方にばかり目が奪われて、足元にまで気付きませんでした」

 いいながら、斉昭はかがみ込み、苔の上に散る紅葉の葉を一枚手に取り、忠昭に差し出す。

 忠昭は、そんな斉昭に優しく微笑み、その大きな掌で、差し出された葉ごと斉昭の小さな掌を握り、立ち上がらせる。

 そして、見上げる先には見事に燃える葉の数々。


「今日はもうお目にかかれないかと思っていました」

「待たせてすまなかったね。父上のご用が長引いたのだよ」

 忠昭はいつも穏やかに話す。
 だがその穏やかさとは裏腹な俊敏さと知力を備え、長子として父の信は厚く、元服してさほど時を経ていないにも関わらず、久我の家は安泰だと朝廷でも評判になっている。


「…ごめんなさい…」

「何故謝る?」

「…兄上は、私と違ってお忙しいのに…」

 しゅんと項垂れる斉昭の頬を、忠昭は優しく両手で挟み、仰向かせる。




 物心ついた頃にはすでに、忠昭には大勢の妹や弟がいた。
 が、それぞれに母が違い、同じ敷地の中とは言え広大な屋敷のそれぞれの対(たい)に住まっていたため、同腹の兄弟でもなければ親しく言葉を交わすようなこともなかった。

 斉昭はそんな兄弟たちの一番末の子で、久我家の当主である父は、斉昭の母を非常に寵愛していたため、住まいも正妻である忠昭の母の対に近かったのだが、他の兄弟同様、長子と末子が見知り合うことはなかった。

 そんな二人が近しくなったのは、斉昭がまだ四つ五つの頃のこと。

 同腹の兄弟をもたず、いつも一人きり、庭の片隅でひっそりと遊んでいた斉昭を、忠昭が見かけたことから始まった。

 忠昭には同腹の妹が一人きり。
『弟』というものが珍しく、気まぐれに小さく声を掛けてみれば、邪気のない満面の笑顔を向けられた。

 以来、忠昭は母の目を盗んで――『正妻と側室』という間柄で、当然母親同士が親しくあろうはずはなく――斉昭の元へ出かけるようになった。


『何人たりとも心許してはならぬ』

 権力を掴むためなら血を分けた者同士でも踏みにじるという澱んだ特権階級の中に生まれ、そう教え込まれてきた忠昭にとって、無条件の信頼を寄せてくる斉昭は次第に何者にも代え難い存在となり、やがてそれは『兄弟の親愛』を超えた繋がりを持つに至るのである。




「案ずるな。私にとっては斉昭、お前が一番大切なのだ。お前との約束を果たすためならば、私はどんなことでもするし、どんなところへでも行く」

「…兄上」

「お前はただ、心穏やかに私を待っていればよい。いいな。どんなことがあっても私はお前を迎えに来る」

「…はい」

 嬉しそうに微笑む斉昭を見て、忠昭も優しく微笑む。

 何よりも大切な、二人だけの時間。


 やがて、斉昭の肩をそっと抱きよせ、忠昭は呟いた。

「こちらの木は黄…隣の木は赤…。同じ木が隣同士に立っているのに、こんなにも色が違うとはな…」 

 隣り合って立つ二本の木は、同じ種類の樹でありながら、見事なまでにそれぞれ黄色と赤に染め分けられ、主張して立っている。

 ふと、また斉昭がしゃがんだ。

 そして、その細く白い指で、見事に赤く染まった一枚の葉を取り上げる。

「この色は…想いを注ぐ兄上の色」

 忠昭もまた、膝を折り、黄色一色に染め上げられた葉を拾う。

「この色は…私の想いを受け止めてくれる斉昭の色」

 地面に落ちた葉は、黄色と赤が混ざり合って一枚の敷物になる。

「混じりあえばもっと綺麗になるというのにな…」

 寂しそうに、忠昭が呟いた。

 斉昭は、その肩にそっと頭を預ける。


「私たちにとって血筋や後継など、どうでもいいことなのに…。人は、人と触れて、交わってこそ強く優しくなれる。ただ一人の色で光を放つのではなくて、周囲の色と交わって、より光を放つものなのだ…。私は、斉昭と輝いていきたい。二人でどこまでも…」

「兄上……」

 少し顔を上げるだけで、忠昭の熱い吐息が斉昭の頬を掠める。

 そして、それはごく自然に、唇に触れた。

「……んっ…」


 次第に深くなっていく接吻。

 初めはそっと触れていた忠昭の腕に力が籠もり、抱きしめられた斉昭の身体が苦しげにしなる。

「…斉昭…なりあき……」

「……あにうえ……、あ……っ」


 鮮やかな錦の敷物に覆われた柔らかい苔の寝台に横たわり、いつしか斉昭の装束は乱され、忠昭の熱い手のひらは思うがままに愛撫を繰り返す。

 殺そうとしてもまろび出る艶やかな吐息。

 その甘い声に誘われるように、やがて忠昭は斉昭の華奢な身体に己の身を沈め、この世のしがらみをすべて脱ぎ捨て、二人だけの世界に堕ちていく。


「離さない…斉昭…この身が果てようとも…」



                  



 その日は突然にやって来た。

 夕餉も終わろうかという刻限に、急に騒がしくなった屋敷内。

 斉昭は何事かと立ち上がった。

 だが。


「斉昭。出てはなりません」

「…ですが、母上」

「なりませんっ。動いてはなりませんっ」


 一点を見据え、強張った表情で斉昭を留める母に不審を感じるものの、斉昭は逆らうわけにもいかず、また腰を下ろした。

 だが、程なく屋敷内は静まり、その凶報がもたらされた。


 ――忠昭様、ご逝去あそばされました由…。


 死因は薬殺。夕餉の膳に猛毒が混入されていたのだという。

 動機はまだ幼い斉昭の目にも明らかだった。誰かが忠昭の継嗣の地位を狙ったのだ。

 忠昭自身も周囲も、あれほど警戒していたと言うのに。


「……母、上……」

「静まりなさい、斉昭。 忠昭殿の死など、あなたの行く末の安寧にはどれほども影は落としませぬ故」

 この一言で斉昭は悟った。
 毒を盛るよう指示したのは、目の前にいる、自分を生んだこの人なのだと。





 それから斉昭は、一言も発さなくなった。 

 忠昭の亡骸に一目も逢うこと叶わず、いつの間にか葬儀も終えられ、斉昭はその死を受けいられないままに数日を送り、そして、捕縛の手はやってきた。


 無実を叫び、激しく抵抗する母。

 そんな母にちらと冷えた視線を投げたあと、斉昭は問われるままに『久我忠昭、薬殺の罪』を、ただ黙することのみで認めたのだった。



                 



「斉昭様…」

 斉昭は、囚われたその日のうちに山辺の小さな庵に送られた。

 そして一月ばかり過ぎた後に、そこから遠くない――だが庵よりはまだ山中に分け入った寂しい所――に身柄を移された。


 まだ無垢の樹の匂いが漂う真新しいその建物は、屋敷と言うには質素で、寺院と言うには形を整えていない中途半端なものではあったが、罪人である斉昭とその身の回りの世話をするものだけの生活には十分過ぎるものであった。



「そろそろ中へお入り下さいませ。日が暮れると冷えますゆえ」

 どこの僧侶かは確かめたことがなかったが、斉昭がこの地に移された日からずっと側に従う僧形の若者――隆蓬(りゅうほう)は、いつもこうして斉昭を気遣ってくれる。

 そして斉昭は、その心遣いにいつも『従順』をもって応えるのだ。

 あの日以来、言葉を閉じてしまったから。


 最後まで己の罪を認めないまま、母が刑に処せられてすでに数ヶ月。
 そして、斉昭自身が囚われてすでに一年が近い。

 だが、斉昭にはまだ沙汰がない。

 いつだったか、夜更けに久我家の使用人が訪れた折り、隆蓬に漏らした言葉をちらと聞いた限りでは、父――久我家の当主――が斉昭の処分を先延ばししているのだというのだ。

 そう言えば、父は滅多に会わない人ではあったが、会えば相当に可愛がってくれたと記憶している。
 もしかすると、この、罪人としては破格に優遇されていると思える現況も、父の指図なのかも知れない。

 だが使用人が言うには、正妻――忠昭の生母――が、一刻も早く斉昭を処分するようにと、日夜主に詰め寄っているという。

 それはいたしかたのないことであろう。
 斉昭は、忠昭殺害を否定しなかったのだから。



 ――早く、兄上に逢いたい…。

 捕らわれたとき――忠昭の死から十日ほどの後のこと――罪を認めたからには数日中に刑が下されると斉昭は思っていた。

 だが、待てど暮らせどその日は訪れず、斉昭はただ、一刻も早く浄土で忠昭に再会出来る日を願い、小さな仏を彫りながら永遠に続くかのようにも思える幽閉の日々を送っているのである。



 そして、また山々に錦秋が訪れた時、待ちわびたその知らせはやって来た。

 久我家の当主は、幾度その心中を尋ねても、黙して語らない末子の行く末を、ついに諦めたのである。







「お支度、整いました」

 隆蓬が着せてくれたその日の装束は白。
 これもまた、罪人とは思えぬ仕立ての衣で、斉昭は心の中でそっと父に手を合わせた。


 そして。

「……隆蓬」

 長らく発さなかった言葉は、酷く掠れて小さなものだったが、隆蓬はもちろん聞き漏らさなかった。

 側に仕えて一年余。
 最後の日に、初めて聞く、斉昭の声。

「…斉昭様っ」

「……色々と、ありがとう」

「滅相もございません」

 ひれ伏す隆蓬の肩にそっと触れ、斉昭は穏やかな声で続けた。

「…泣かないで。 私はね、この日を待っていたんだ。 だから、笑って見送ってくれないか」

「斉昭様…」

「兄上の元へ行けるんだ。こんな幸せな日は、ない」


 斉昭に下された裁きは『斬首』。

 年が明ければ十六になるはずの、晩秋のことだった。





 後年、家督を息子の一人に譲った久我家の主は、ここを訪れ、そして斉昭が彫ったという仏を抱きしめ泣いたという。

 それは、その小さな仏に、忠昭の面影を見いだしたからだと伝えられている。



                  



 ――兄上……。

 二月の京都は一年でもっとも寒さの厳しい時期だ。

 十二月以来、体調を崩したままの成は、暖房を入れてもなお、どこか寒々しい小さな日本家屋の一室から、ちらりちらりと舞い降りる雪を眺めていた。


 あの日からいったいどれほどの歳月が流れたのだろうか。

 会えると信じていた兄はすでに転生を果たしており、自分はその魂の行く末を見失った。

 そして、浄土に旅立てないまま兄の姿を求めて久我邸を彷徨い、結果生家を没落させてしまった。

 今まで幾度こうして兄の姿を求めて現世に現れ、そしてまた滅し、また現れ……を繰り返して来たことだろう。

 もともとこの世にはないはずの肉体を、現実のもののように見せるには限界がある。

 今回もこの魂はすでに長く――何十年も――現世にあって、見せかけの肉体の限界は過ぎた。
 だが健吾の精気のおかげでこうしてかろうじて現世に身を繋いでいる。

 しかし、その所為で健吾は……。



「あ、こら、成。起きてちゃダメじゃないか」

「健吾さん……」

 明らかに衰弱している健吾の肉体。
 すべて自分との交わりの所為だと知っている成は罪悪感で直視ができない。


「ほら、ちゃんと布団に入って」

「…けんご…さん」

「春になったらきっと体調もよくなるからな」

「…健吾さんっ」

 思わず強い口調で呼び止めてしまい、成は目を逸らす。

 だが健吾はそんな成を愛おしげに抱きしめた。

「大丈夫。大丈夫だから、な」

 衰弱してはいても、健吾の腕は暖かい。
 ずっとずっと、この腕を求めてきたのだ。斉昭は。

 だが…。

 こんなはずではなかった。

 兄を見つけたら、一緒に浄土へ旅立つのだと決めていた。

 だが、漸く見つけた兄はすでに現世に転生を繰り返し、忠昭としての記憶を持たず、斉昭のことも何一つ覚えてはいなかった。

 そして、何より『生きて』この世で輝いていた。

 健吾には『生』が満ち、自分は未だに『死』を纏ったまま…。

 恋い慕い続けた兄と、自分の間にはもう、埋めようのない隔たりが横たわる。

 自分は、首をはねられた瞬間にも、兄の事を想っていたというのに。



 あの頃と変わらず穏やかで優しい健吾。
 出会った頃、彼は目を輝かせて自分の夢を語ってくれた。


『俺、親父のような社会派の記者になりたいんだ』


 誰よりも愛おしい人だから、その未来を奪うことなど、出来はしない。



 その夜も、健吾はいつまでも成を抱き続け、そして朝、更に疲労の色を濃くして仕事に出かけていった。

 そんな後ろ姿を見送り、成はここしばらく伏せっていた床を上げた。

 あれほど探し求めていた兄に、再びまみえることが出来たのだ。
 そして、抱いてもらった。何度も何度も、強く激しく。

 だからこれで終わりにしよう。



 成は現世での仮住まいを後にして、異世界を映し現世と結ぶ、あの臥龍池へと向かった。

 今度こそ、自分を滅しよう。永久に。

 そう、心に決めて。


最終回・水面の章【2】へ続く

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