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「なんだって?」 「だから…」 「はっ…。どうやら僕の耳はおかしくなったようだ」 「ジェフ…」 ニューヨーク。 セントラルパークにほど近い高層マンションの一室に、『Yuto Kakiuchi』のアトリエ兼自宅はある。 10代の頃から名を売った人気の日本人イラストレーターは、10年ぶりの里帰りから帰国した翌日、マネージャーであるジェフリーに、日本から抱えてきた重大な決意を告げた。 だがしかし、ジェフリーはその決意を一笑に付し、一人さっさとオフィスタイムの顔になった。 「さ、1週間のオフの間にまた新しい仕事がこれでもかって言うほど入ってるんだからね。頑張ってくれよ、ユウト」 そういって、ジェフリーはアトリエのドアノブに手を掛けた。 「まって、ジェフ!」 珍しく大きな声をあげて、悠人はノブを回そうとしたジェフリーの腕を、強く掴んだ。 その行動に、ジェフリーが碧眼を大きく見開く。 「ユウト…」 「お願いだから、俺の話、聞いて…」 いつもの悠人と違う…。 その思いがさらにジェフリーの危機感を煽った。 先ほど聞いた言葉など、このまま流してしまいたいのに。 「お願い、ジェフ…」 縋るような瞳を向けてくる悠人。 このまま流れてはくれないのか…と、ジェフリーは心底嫌そうにため息をついてから、『わかった』と、一言、答えた。 目一杯日差しを呼び込む南側の窓。 自然光の下での色調を確認するために窓辺に置いていた新作を、そっと日陰へ移し、悠人はジェフリーを振り返る。 そしてそのジェフリーの表情は、明るい日差しとはまったく対極の様相だ。 「俺、もう決めたんだ」 小さく言ってみるが、ジェフリーからの反応はない。 「日本へ帰るよ」 だがやはり、ジェフリーは何も言わない。 「あ、あの、ジェフには本当に悪いと思ってるんだ。ずっと俺についていてくれたのに、こんな急に…こんな我が儘いって…。あ、でもね、ジェフの勤め先なら気にしなくていいよ。ほら、いつも作品集出してるK出版が、ぜひジェフに来て欲しいって言ってくれてるんだ。収入だって今の1.5倍…」 「誰が、報酬の話をしてるっ!」 黙っていたジェフリーが、いきなり大声で怒鳴った。 悠人の全身が『ビクッ』と跳ねる。 「日本へ帰る?いまさら何をしに帰るっていうんだっ」 普段のジェフリーは、悠人に対しては限りなく優しい。 それは、この国へ渡ってからの悠人が、いかに傷つけられてきたかを知っているジェフリーにとって、当たり前の優しさではあるのだが。 「ユウトはずっとこの国で生きていくと言っていたじゃないかっ、ここに骨を埋めるんだって!それなのに、なんだ?たった1週間向こうへ行ったぐらいで、ホームシックってわけか?」 そうではない…。 ホームシックなどではないと判っているからこそ、ジェフリーは己を押さえることができず、あれだけ『守ってやりたい、優しくしてやりたい』と思っている悠人を怯えさせるほど、大きな声をあげてしまうのだ。 「ジェフ…ホームシックなんかじゃないんだ…。俺、向こうで高校の頃の親友にあって…」 「コウヘイ……か?」 鋭い視線と共に吐き出された名前に、悠人は驚愕する。 「ジェフ……どうし、て……」 その名を口にしたことなど、この10年間……1週間前に航平と再会するまで……一度もなかったのだ。 それをなぜ、ジェフリーが知っているのか。 「ユウトは何度もそいつの名を呼んでいた…」 忌々しそうに言って顔を背けたジェフリーは、苦虫を噛みつぶしたような口元をしている。 だが、悠人にその表情は届いていなかった。 悠人にとっては今ジェフの口からでた言葉の方が問題だったから。 「うそ…だ、俺が航平の名前を呼ぶはずが…」 「嘘じゃないっ、呼んだんだ、何度も…何度もっ」 見つめ返してきたジェフの瞳も、切なげに揺れていた。 「眠っていて、なんの意識もないのに、ユウトは呼ぶんだ、そいつの名を…何度も…」 俺…無意識に航平を……。 突きつけられた事実に目眩を覚え、悠人は頭を抱え込んだ。 「ユウト…日本にいた頃、何があったのか僕は知らない。けれど、君がコウヘイと言うヤツに心を残している事はわかっていたつもりだ」 ジェフは突然声を潜めた。 そして、問う。 「ユウト…、コウヘイに会ったんだな…」 その問いは、悠人を真っ直ぐに射抜いた。 この状態で、素直な悠人に嘘などつけようはずがない。 「…うん、会った…」 「何を言われた」 その問いに悠人は答えを返せない。 『何を言われた』わけでもないから。 ただ、お互いの誤解を解き、心を確かめ合い、もう一度やり直す決意をしただけなのだから。 そしてそれは、強いられたものでもなんでもなく、自分自身が下した決断なのだから。 「ユウトっ!何を言われたんだっ?帰ってこいとでも言われたのかっ!」 確かにそうは言われた。 だが、言われたから帰るのではない。 自身が航平の側で生きる『これから』を選んだのだ。 「…違うよ…、俺が、帰ろうって決めたんだ。航平の側へ、帰ろうって…」 悠人が小さく呟いた声に、ジェフリーはなぜか息をのんだ。 そして、そっと歩み寄ってくると、その小さな身体を包み込むように抱きしめた。 「ユウト…。可哀想に…」 思わぬセリフに、悠人は驚いて顔を上げる。 「脅かされたんだな……」 「ちが…っ!」 言葉は最後で吐かせてもらえなかった。 骨が軋むほど抱きすくめられ、二の句どころか、息すら継ぐことができない。 「大丈夫だ、ユウト。君のことは僕が守る」 耳元で囁かれる言葉が次第に遠くなっていった…。 目覚めたのはもう、陽が落ちた後だった。 慣れた自分のベッドのスプリング。 やはり、この1週間の疲れは知らず溜まっていたのかも知れない。 同窓会のために帰国するときには予想もしなかった展開。 そんな出来事のいろいろを、ぼんやりとした頭で反芻していた悠人は、自分の背中を包み込む温もりの正体を航平だと思いこんだ。 「ん…。航平…」 そう漏らした瞬間、背後からきつく抱きしめられ、そして…。 「そんな名前を呼ぶんじゃない、ユウト」 心臓が一つ、大きな音を立てた。 航平じゃない…。 そう知った瞬間蘇ったのは、こちらへ渡ってから受けてきた数々の陵辱ではなく、10年も前の、一度きりの『あの』初めての恐怖だった。 「……おねがい…」 「ユウト?」 華奢な身体が小刻みに震える。 「やめ…て…」 尋常ではない様子を見て取り、ジェフリーが慌てて悠人の身体を反転させた。 そして、正面から強く抱きしめる。 「ユウト?どうしたんだ?落ち着いて…」 「いやっ、やめてっ、離してっ」 「ユウト、僕だっ、ジェフだっ!」 耳に強く訴えてみても、宥めるように背をさすってみても、悠人の恐慌状態は強さを増すばかりだ。 『助けてっ、航平!』 一際大きな声で悠人が叫んだ。 だが、ジェフリーにはなんと言ったのか判らない。 10年前の記憶が叫ばせたその言葉が、日本語だったからだ。 『コウヘイ』と言う言葉は理解できた。 だが、その前の言葉はなんなのか。 言葉の意味を求めて動きを止めたジェフリーの腕の中、悠人は声をあげて泣き始めた。 そして、繰り返す。 何度も。 『航平』…と。 悠人が完全に覚醒したのは翌朝のことだった。 昨夜の中途半端な目覚めと違うからだろうか。今度は、自分の身体を包む、航平とは違う香りを敏感に察知する。 「ジェ…ジェフ…」 慌てて両腕を突っ張って身体を離す。 ジェフリーとベッドを共にしたのは3年ほど前の一度きりだ。 その後、ジェフは『ユウトの身体だけが欲しいわけじゃない』と言い切って、ずっと耐えていたようだった。 いつかユウトが心もくれたなら…。 ジェフリーがその思いを抱いて来たことは、判っていたのだが…。 「ユウト…」 悠人のとった行動に、ジェフリーもまた目を覚まし、正面から悠人を見据えた。 「ジェフ…」 その瞳に怯えの色を感じ取り、ジェフリーは深くて暗いため息を落とした。 「ユウト…心配いらない…僕は、何もしていないから」 そう言って両手を挙げて『ホールドアップ』を示した。 「だから、そんな目で僕を見ないで…」 そう言われて初めて、自分がどれだけジェフリーを追いつめていたのか、悠人は気付いた。 「ご、ごめん…ジェフ…」 ジェフの気持ちに、寄りかかれるだけ寄りかかり、甘えるだけ甘えてきたのだ。 そして今、その関係に、独りよがりな終止符を打とうとしている。 自分はいったい、どれほど身勝手なことをしようとしているのだろうか。 「ユウト…?」 悠人の瞳から大粒の涙が落ちた。 それは、悔恨の涙なのか、自戒の涙なのか。 けれど、もう、引き返せない。 自分は航平と生きていくと決めた。 日本にいた1週間、何度も航平の想いを受け止め、その度に自分に問うてきた結果だ。 「許して…ジェフ…許し…て」 掴んだジェフのシャツは昨日のまま。 そして自分もまた、着替えもせず、昨日のシャツとジーンズのままだ。 本当に何もせず、ただ、ずっと側にいてくれたのだろう。 昨夜の、あの悪夢のさなかにも、きっと側にいてくれたのだろう。 どれほどの謝罪と感謝を伝えても、恐らく足りることはない。 けれど、今の自分には許しを乞うことしかできなくて…。 やがて、ジェフの大きな掌が、悠人の頭をそっと撫でた。 「ユウト…。コウヘイと何があったんだ…?」 悠人の肩が強ばる。 だが、すでに言わずに逃げることはできないと観念している。 許しを乞うのなら、避けては通れないのだ。 真実を話さずに逃げることなどできはしない。 「俺と…航平は…」 「ユウト…」 悠人が『過去』をすべて話し終わってから、しばらく何も言わなかったジェフリーが、ポツンと言った。 「コウヘイは、追いかけてこなかった」 違うか?そうだろう?…と、瞳で問われる。 「10年も、ユウトを一人にした」 また、問われる。 「コウヘイが追いかけてきていれば、ユウトはあんな目に遭わずにすんだ」 ジェフの言葉に、軟禁されていた頃のおぞましい感覚が蘇る。 それを見て取り、ジェフリーはギュッと悠人を抱きしめた。 「僕は、そんなヤツにユウトを渡すつもりはない」 それは、恐ろしいほどの決意を秘めた言葉。 「たとえ、ユウトがコウヘイを好きでも」 「ジェフ…」 「たとえ…」 スプリングが僅かに音を立てた。 「ユウトの心が、ここになくても…」 ジェフリーは、ゆっくりとベッドを降りた。 |
2へ続く |