……Rrrrrrrrrr…… 昨日からずっと、二人きりの空間だった悠人の部屋が、突然外界と繋がる。 『航平…?』 落ち着いたころに電話を入れると言っていた。 悠人は慌ててベッドを降りたが、ジェフが先に行動を起こした。 「Hello?」 受話器を取ったものの、ジェフは顔色を変えない。 「Just a moment, please 」 もしかすると、航平ではない…? ジェフは悠人に向かい、スッと受話器を差し出した。 「コウヘイだ」 受け取る手が震えた。 そして、僅かに触れた指先は、思わず身をすくめるほど、冷たい…。 緩慢な動作で受話器を耳に当て、悠人はどうにか言葉を紡ぎだした。 「航平…」 少し遠くに聞こえる温かい声に、思わず声まで震えてしまう。 「…うん…うん………。だいじょう…ぶ…」 真後ろにジェフの気配を背負いながら、悠人は必死で言葉を繋ぐ。 「…そう、今のがジェフ…。うん…」 電話は10分ほどで切れた。 オフィスタイムに入る悠人を気遣ってのことだ。 だが、様子がおかしかったことは十二分に伝わってしまっているだろう。 航平は、酷く敏感になっているから。 案の定、その直後に入った航平からの電子メールでは、悠人を気遣う言葉がびっしりと並べられていた。 しかし、ジェフリーのことには一言も触れていない。 万が一、目に入った時を警戒しているのだろう。 悠人はそれでも、航平の想いと不安が溢れ出る画面から、長い間目を離せずにいた。 パソコンの画面、恐らく悠人は日本からのメールを見ているのだろう。 ジェフリーは魂ごと吸い取られそうなほど画面に見入っている悠人を、見て見ぬ振りでアトリエを出た。 オフィスはとなりの部屋だが、そのドアの前を素通りしてキッチンへ向かう。 悠人が目覚めたら飲ませてやろうと思っていたコーヒーは、手が着けられないまま冷えていた。 「せっかく、新しい豆を挽いておいたのにな…」 ポツッと呟いて、冷えたコーヒーをカップに注ぐ。 うま味が消えてカフェインだけになってしまった苦い飲み物は、ジェフリーの気持ちを少し、冷静にさせる。 今のままではいけない…。 闇雲に引き留めても、悠人は行ってしまうだろう。 そして、また、傷つく。 それならば…。 ジェフリーは一つの決意を固めて、夜を待った。 「ユウト、お疲れさま」 夕刻、いつも悠人が仕事を終える頃を見計らって、ジェフリーは温かいコーヒーを運んできてくれる。 それは、こんな気まずい日も変わりなく…。 「ありがと…ジェフ…」 漸く、ほんの少しの微笑みを見せて、悠人がカップを受け取った。 ジェフリーはそんな悠人をジッと見つめていたのだが…。 「ユウト…」 呼びかけられて、悠人はカップをおいた。 その声も、その表情も、いつものジェフリー。 「ユウト…」 もう一度名前を呼び、そっと手を伸ばす。 穏やかな…しかし、譲らない想いを滲ませて、ジェフリーは悠人を抱き寄せた。 「アトリエと事務所の移転手続きを始めよう」 「ジェフっ?!」 悠人はジェフリーの腕を強く握りしめた。 もしかすると、このままどこかへ連れ去られてしまうのでは…。 そんな恐怖が足元から這い昇ってくる。 しかし、ジェフリーは優しく微笑んでみせた。 「心配いらない、ユウト。日本へ行くんだ」 「…え?」 「アトリエ・カキウチは日本へ移転する。もちろん、マネージャーも一緒だ」 |
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「それで?悠人はどう言ったんだ?」 『ちゃんと説明した。俺は航平と暮らすんだから、今までのようにはいかないって』 「そしたら?」 『自分はホテルにでも転がり込んでおくから心配するなって言うんだ…』 海の向こうの悠人は、憂鬱そうにため息をつく。 「けど、そいつ…ジェフリーってヤツは有能なマネージャーなんだろう?」 『うん』 今度は航平がため息をつく。 『ごめんね、航平』 「何言ってるんだ。悠人が謝る事じゃないだろ?それに、そいつには散々世話になったんだから…」 航平はそこで一旦言葉を切った。 『航平…?』 「…歓迎してやんなきゃ…な」 本意ではなくとも、その言葉に悠人は救われた思いがする。 『………』 海の向こうで鼻をすする音がした。 「おい…悠人?泣くなって」 『泣いて、なんか…』 「お前なぁ、28にもなって泣き虫だなぁ」 声は呆れているのだが、内心はそうでもない。 『だって…航平が…』 拗ねたように、けれど微妙に艶を持った声が航平を突き動かす。 「悠人…早く…帰ってこい…」 「どういうこと?航平」 間もなく立て替え工事のため、引っ越しをする航平の自宅。 その居間で、ダンボールにかこまれながら、航平は両親を前に『家を出る』と告げた。 「マンション借りて住もうと思うんだ」 「じゃあ、家ができたら戻ってくるのね」 母は『仮住まい』を別にする…と捉えたようだ。 「ううん、そうじゃなくて、家をでようと思ってるんだ」 「理由はなんだ」 驚いて言葉のない母親を後目に、黙って聞いていた父が漸く口を開いた。 当然理由を問われることは覚悟している。 航平は悟られないように深呼吸をしてから、それを口にした。 「二人とも、垣内悠人を覚えてるだろう?」 「…ああ、高校時代随分仲が良かった小さな子だな。確か、アメリカへ渡って有名なイラストレーターになったんじゃなかったか?」 「そう、それ」 「悠人くんならよく覚えてるわよ。しょっちゅう遊びに来てた、可愛い子だったわねぇ」 母も口を挟む。 「あいつ、帰って来るんだ。でも、10年も日本を離れていたし、両親はフランスだし…」 なぜ帰ってくるか…。その理由までは言えないのだが…。 「こっちで活動を始めるのに手伝ってやりたいんだ。で、俺の会社から30分ってとこにいいマンション見つけてさ。悠人がアトリエにする部屋もあるし、俺が図面を広げられる部屋もあるし」 「あら、素敵ね」 母は脳天気に同意する。 しかし、父はその母を制して冷静に言う。 「確かに、ここからだと通勤時間がもったいないとは思っていたが…。しかしそんな便利なところで部屋を借りたら高くつくだろう?」 「それは大丈夫。だって、一人前以上に稼いでる男が二人で借りるんだから」 「なるほど、シェアしようというわけか」 「そういうこと」 話の流れがいい方へ向かっている。 「そうだな…。お前もずっと家にいたからな。独り立ちするのもいいかもしれないな」 「そうよね。ここ、新築してもおじいちゃんおばあちゃんがくるわけだしねぇ…。私も航平の面倒まで見られないかも」 「なにそれ、酷いな」 苦笑しながらも、航平は思いの外上手くいった『交渉』に、内心で安堵のため息をつく。 「ひどく遠いというわけでもないし…。ときどきは帰ってくれるんでしょう?」 そう言った母に、航平は不自然なほど弾けた笑顔で応える。 「もちろん」 若干の後ろめたさはもちろん、あるのだが。 |
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「ほら」 「わ…すごい…」 自然光をいっぱいに取り込む南窓の広い部屋。 先に送ってあった荷物はすでに入っていた。 悠人はどうしても手荷物で運びたかったものだけを抱えている。 「気に入った?」 「もちろん!すごいや、航平」 悠人は手荷物をそっと床に降ろし、すでにカーテンの掛かっている窓辺へと歩み寄る。 その眺めはもちろん、セントラルパークを望めたニューヨークの部屋には及ばないが、それなりに高層でいい眺めではある。 「悠人…」 1ヶ月ぶりに腕にした愛しい温もりを、確かめるようにギュッと抱きしめて、航平が背後から悠人の頬へ口づける。 「あ、こら、航平、見えるってば…っ」 廻りには似たような高さの建物が多い。 「かまうもんか」 「かまうっ!」 「いいから…」 「よくな……っ…」 身体を反転させられ、いきなり深く口づけられて悠人は言葉を失う。 「悠人…」 「航平…っ」 そのままもつれるように倒れ込む。 すでに整えられたベッドルームは隣にあるのに、そこまでいくのももどかしく、固いフローリングに身を投げる。 「…こ、うへい…」 頬や首、瞼やこめかみに絶えずキスを降らせながら、航平は悠人の着衣を易々と剥いでいく。 日差しが溢れる部屋…。 「こうへ…い、やめ…」 「やめない」 「だって…」 「だって?」 悠人は涙目で部屋を見渡す。 「こんなに、明るい…のに」 その言葉に、航平はクスッと笑いを漏らし、悠人の頬をつついた。 「じゃあ、カーテンを引こう。それならいいな?」 そして、同意の言葉も聞かずにカーテンを引く。 「さ、準備OKだ」 長時間の飛行機の旅のあげく、何度も航平に挑まれた悠人の身体は泥のように重く、弛緩しきっている。 そんな悠人を綺麗にしてベッドへ運び、漸く航平は息をついた。 これから二人で暮らす部屋。 けれど、アトリエにはきっと『あいつ』が出入りする。 だからなのかも知れない。 どうしても、アトリエになる部屋で、最初に悠人を抱いてしまいたかった…。 悠人が忘れないように、この部屋での第1日目に、どこで何があったのか…を。 「航平、おはよう」 自由業の悠人は生活リズムも不規則かと思っていたら、実はとんでもなく規則正しい生活なのだと言うことを、僅かの期間で航平は思い知った。 自由業だからこそ、自分でコントロールができないとダメなのだ、と悠人は言う。 むしろ、不規則なのは会社勤めの自分の方かも知れない。 少し仕事が立て込んだだけでタイムテーブルなどあってないようなものとなる。 そして、昨夜も深夜の帰宅になったというのに、悠人は起きて待っていた。 それなのに、朝はいつもと同じように先に起きて航平を起こす。 「ゆうと…。お前、昨夜遅くまで待っててくれたんだから、もう少し寝てろって…」 ベッドに引きずり込むようにしてそう言うと、悠人は身を捩りながら笑う。 「だめ。俺だって仕事があるんだから」 仕事。 それは、有能なマネージャーがやってくる時間でもある。 初対面の時のジェフリーは意外に好印象で、あたりもよかった。 それは今でも変わらない。 だが、自分に対して敏感にアンテナを張り巡らせていることだけははっきりと判る。 『コウヘイ』と言う人間の本質を探ろうとしているのか。 悠人への執着を、自分に劣らないほど、痛いほど滲ませている男の存在は、航平の生活に一点の影を落としていた。 しかしそれよりももっと大きな壁、いずれ乗り越えなければならない壁が、もう、すぐそこに立っていることに、航平はまだ気付いてはいなかった。 それは、二人の生活が始まってから3ヶ月ほどが平穏に過ぎた頃。 たいがいの休みの日には家でくつろいでいる二人が、珍しく遊びに出掛けた日、運悪く二人の不在を知らず、航平の母が訊ねてきた。 だが留守を知り、エントランスをでようとした彼女の前に、外国人の青年がやって来た。 「あら?」 「あれ?」 見覚えがある。 「コウヘイのママ?」 片言の日本語で問いかけられ、合点がいった。 確か、引っ越しの時に紹介されていた…。 「ええと…、悠人くんの…」 「ハ〜イ、ジェフ、です」 人なつこい笑顔を向けられて緊張が緩む。 「あ、あのね、二人とも留守のようなの」 「しって、ます。ぼく、わすれもの、とりにきました」 マネージャーである彼は、マンションの合い鍵を渡されている。 もちろん、航平と悠人のどちらかでも在宅の場合は、インターフォンを鳴らすのだが。 「じゃあ、中へ入れるのね?待たせてもらっていいかしら?」 嬉しそうに申し出る彼女にほんの少し逡巡したが、ジェフはここで追い返すのも可哀想だと思い、頷いた。 「あら、案外綺麗にしてるのね」 待っている間に掃除でもしておいてやろうかと考えていた彼女だったが、思っていた以上に綺麗に整理されている部屋に驚く。 「ユウト、きれい、すきです」 「あなたはどうしてここに住まないの?いちいちホテルへ戻るのでは不便でしょう?」 なんの不審も抱かない瞳で訊ねられ、ジェフリーは答えに窮する。 まさか、本当の事など言えはしない。 いや、言ってしまってもいいのだが、そんなことすればユウトが悲しむ。 自分の目的は、ユウトを納得させた上でアメリカへ連れて帰ることだ。 しかし、まだ今はその機ではない。 「businessとprivateは、べつ…だから」 ニューヨークでも表向きはそうだった。心はいつもユウトの側にあったが。 曖昧に微笑んだジェフリーだったが、航平の母はその言葉を素直に受け取った。 「そうね。いつも一緒にいたのでは気が休まらないわね」 本当は、ユウトを残してこの部屋を去っている時間こそが、彼にとって気の休まらない時間なのだが。 「あの、ぼく、かえります」 微笑む彼女を直視できなくなり、ジェフリーは取りに来たディスクの束をギュッと握りしめた。 「あら、ごめんなさいね、ひきとめて」 「いえ…」 足早に玄関からでていった長身の背中を見送ると、室内は急に寂しくなる。 掃除でもして待っていようとの目論見が見事に外れてしまった以上、時間を持て余すだけだ。 こんなことなら帰ればよかったかと思い始めたとき、ふと、彼女の頭にあることが閃いた。 悠人のアトリエを覗いてみたくなったのだ。 帰国以来こちらの企業との契約も上手くいったようで、先月からはTVCMでも悠人の描く愛らしいキャラクターを目にするようになった。 ブラウン管の中で可愛い笑顔を振りまくキャラクターたちの生まれてくる場所を少し覗いてみたい…。 少し覗くだけだから…と自分に言い聞かせ、見知らぬ廊下を移動して、適当な部屋のノブを回してみる。 だが、そこはアトリエではなくベッドルーム。しかもどうみてもキングサイズとしか思えない大きさのものが部屋の中央を占拠していた。 『それ』がいったい何を物語るのか、咄嗟に理解できなかった母だが、急に覚えた不吉な予感に突き動かされるまま、部屋をでて、次から次へと目に付く扉のすべてをあけた。 だが、ベッドがおいてあったはあの部屋だけ。 当初の目的のはずだった悠人のアトリエも、もう目に入らない。 知りうる範囲の中で最悪の事態に思い至った哀れな母親は、ハンドバッグを掴むと、部屋から逃げるように去った。 |
3へ続く |