「え?」
「どうした?」
「鍵、空いてる…」
「ええっ?」

 帰宅した二人は、確かに施錠したはずの鍵が開いていることに慌てる。

「悠人っ、アトリエ確認してこいっ」
「うん!」

 何よりも怖いのは、未発表の作品が盗難に遭うことだ。

 だが、アトリエはおろか、どこにも物色の後はない。


「もしかして、ジェフが閉め忘れたとか」

 何かを取りに来てそのまま…と言うことも考えられる、と航平が呟く。 

「まさか、ジェフに限って」

 確かにそうだ。何しろ中にあるのは悠人の作品。万が一でもジェフが施錠を忘れるなど考えられない。

 二人がこの不可解な状況をどう片づけようかと腕組みをしたとき。

 唐突に電話が鳴った。

 それは、航平の母からのものであった。









『今夜、実家に寄ってくるから』

 翌朝、航平はそう言い残してマンションを出た。

 昨夜の電話で、母は『明日、必ず帰ってきなさい』…と、それだけを言い置いて乱暴に電話を切ったのだ。

 あまりにも不審な母の様子に、航平は大きな不安を抱えつつ、両親の仮住まいであるマンションの前に立った。






「昨日、あなたの部屋へ行ったの」

 母は早くも興奮気味だ。
 無理やり声を殺そうとするのが容易に見て取れる。

 父親は、相変わらず黙って座っている。

「…じゃあ、鍵を開けたままでいなくなったのは母さんだったのか」

 航平の言葉にも少し、棘が混じる。

「どうやって入ったのか知らないけど、あの部屋には悠人の大切な…」
「航平っ、あなた、悠人くんと何してるのっ?!」

 いきなり浴びせられた金切り声に、航平は目を見張った。

「何…って…」
「寝室、一つしかなかったわっ。あなたたち、一体…っ」

 一息で言い切って、母は無様に泣き崩れた。

「航平…」

 妻が言いたいことを吐き出して崩れ落ちたところへ、暗い視線を落とし、父はそっと航平の名を呼んだ。

「悪いことは言わない。今のうちだ。帰ってきなさい」

「父さん…っ!」

「お前も悠人くんもいい大人だ。今さら遊びだとか軽い気持ちだとか言うことはないんだろう。だからこそ言わせてもらう」

 真っ直ぐに射抜かれて、航平は動きをなくした。

「お前たちは分別のある歳になったはずだ。帰ってきなさい」
「嫌…だ」
「航平」

 父は冷静に、もう一度名を呼んだが、母はそうはいかなかった。

『嫌だ』といった航平の言葉に、また大きく取り乱す。

「どうしてっ、いったい何が原因なのっ?あなたが、あなたが、こんなこと…」


『こんなこと』


 母の言葉を航平は胸の奥で繰り返す。

「こんなこと…って何?」

 開き直ったようなその言葉に、今度は父親も少し、顔色を変えた。

「俺たち何も悪いことなんかしていない。ただ…」

 航平は立ち上がった。鞄を手に取る。

「たった一人の人を…見つけただけだ」

 そう告げて、踵を返す。

「待ちなさいっ!」

 追いすがる母の声。
 父は何も言わない。

「航平っ、お願いだから帰ってきてっ、あんな…」

 遮音性の高いマンションの玄関ドアは、母の声をぷっつりと遮った。











「航平…?」

 実家へ寄ってくると言ったはずなのに、航平の帰宅は悠人が思っていたよりも随分早かった。

「…ただいま、悠人」

 微笑んだ顔がなぜか暗く沈んでいる。

「どうしたの?何かあった?」

 心配げに見上げてくる悠人の瞳に自分の情けない顔が映る。

 両親との決別は痛い。
 だが、悠人は絶対に離せない。

「悠人…」

 手にしていた鞄が大きな音を立てて、リビングの床に落ちる。

「こう…」 

 そのまま、きつく悠人を抱きしめるが、悠人は抗わずにジッとしている。

 ふいに獰猛な衝撃が航平を突き上げた。

 10年前、自分たちは兄によって引き裂かれた。
 そして、悠人は心に傷を負ったまま長い時を耐えてきたのだ。

 もう、同じ苦痛は味あわせたくない。

 誰の手にもかけさせない。

 悠人の幸せは自分が守る。


「ゆうと………ゆう…」

 抱きしめたまま、リビングの大きなソファーに身を沈めた。










 毎朝、航平が出勤してからジェフリーがやってくるまでの時間は僅かだ。

 いつも悠人はその間に朝食の片づけや、簡単な掃除を済ませてしまう。
 だが、今朝は身体に力が入らない。

 どうしようもなく疲労の残る身体を、ソファーに沈め、また知らず頬を朱に染める。



 昨夜、航平は帰るなり、この場所で悠人を抱いた。

 まだ週が始まったばかりだというのに、それこそ寝る間も惜しむように身体を繋いだのだ。 

 寝室以外の所で航平がそういう行為に及んだのは、ここへやって来た最初の日だけだ。

 しかも、普段は悠人の身体を気遣って、何度も…と言うことはないのに。

 悠人はだるい体を抱きしめて、昨夜の航平を思い起こす。

 いつもと様子が違うのはすぐに判った。
 だが、何度問うても、航平は答えをくれなかった。


『悠人は何も心配しなくていいんだ』


 …それしか言わない。

「ひどいや…航平…」
 


『俺はどんなことも受け止めてみせる。二人で生きて行くんだから、荷物は一緒に持とう』



 10年ぶりに再会したあの時。
 航平は悠人にそう言った。
 だから、帰ってこい…と。

 自分だって、どんなことでも受け止めたい。
 航平の荷物は一緒に持ちたいのに。

「俺には持たせてくれないのかな…」

 自分で落とした呟きが染み込んで、急に、寂しくなった。



 航平はその後変わった様子もなく、いつものように振る舞った。
 悠人はそんな航平に、安堵しながらもどこか釈然としないものを感じていたのだが…。








 10日ほど経ったある日、そろそろ本日のオフィスタイムも終わりかという頃、ふいに来客を告げるチャイムが鳴った。

「ぼく、でるよ」

 すっかり日本語に馴染んだジェフは、言葉を理解できるようになって嬉しいのか、近頃では電話もインターフォンも喜んで取りに行く。

「あ、お願い」 

 おかげでアトリエの中もすっかり日本語になってしまった。 

「ユウト、コウヘイのママ、だけど…」
「え?」

 急になんだろう。航平が帰るにはまだ間があるのに…。

 何か不吉な影がよぎったが、悠人はその思いを『とんでもない』とばかりにねじ伏せて、笑顔でジェフに告げた。

「入ってもらって」



 ジェフがエントランスのオートロックを解除して少しののち、今度は玄関のチャイムが鳴った。

 今度は悠人自らがドアを開けて恋人の母を迎え入れる。


「お久しぶりです」

 笑顔を向ける悠人に、来客は一瞬見惚れ、そして目を逸らした。

 あれ…?

 だが、悠人が不審に思うより先に、『航平は?』と問われた。

「え、まだ帰ってませんが…」

 まだ…どころか、航平が帰宅するまでには少なくとも2時間はあるはずだ。

 悠人の答えに来客はキュッと口を引き結んだ。

「あの…」

 とりあえず上がってもらおうと、悠人が手の動きで『どうぞ』と奥を示す。

 だがその手には冷えきった指先が絡んできた。
 ギュッと握りしめられる。

「悠人くんっ、お願い…」

 女性の力とは思えないほどの締め付けに、一瞬悠人は顔をしかめる。


「あの子を…返して…」


 その瞬間、全身の血液がすべて絡め取られた指先から流れていくような気がした。


『あの子を返して』


 あの子…。
 それは…。

 航平…、それとも…。  





「あなたが可愛いのはよくわかるの。あの子が夢中になってしまうのもよくわかるの。だから、お願い、あなたからあの子を離してやって…」

 穏やかで、静か…。けれど哀しみに満ちた瞳が、真っ直ぐに悠人の中心を刺し貫く。

「あの子が離れられないと言うのなら…あなたが…お願い…だから…」

 悠人に取りすがったままズルズルと崩れ落ちる人間を、悠人は恐る恐る目で追った。

 いつも綺麗にしている航平の母が、なんの化粧もなく、髪を整えた様子もなく…。

「お願い…お願い…」

 たった一つの言葉だけを繰り返し、床に沈む。





「ユウト、そこを、あけて」

 足元に絡んだままの女性をそのままに、呆然と立ち尽くす悠人の背後から優しい色の声が掛かる。

「コウヘイのママ、living room、いこう…。もうすぐ、コウヘイ、かえる」

 崩れ落ちた人を大切そうに抱き起こし、奥へと促す。

「ジェフ…」

 漸く言葉を紡いだ悠人に、ジェフはわざと陽気にウィンクを投げる。

「いま、コウヘイ、よんだ。すぐ、かえってくる」

 どうして、いつの間に…。

 悠人の疑問は表情に現れたのだろう。ジェフはまた反対の瞳でウィンクを送る。

「コウヘイ、ユウトになにかあったら…って、officeのtelephone number、ぼくに、わたした」

 悪戯っぽく笑うと、ジェフリーは悠人の返事を待たずに、航平の母をつれて奥へと消えた。






 航平が帰宅したのは思っていたよりも遅かった。
 だがその理由は、航平の後ろにある人影で容易に計ることができた。

 航平はジェフから電話を受けたその手で、父親に連絡を取ったのだ。

『母さんを迎えに来て』と。

 母の状態は普通ではない。
 素直に帰るとも思えない。
 そうなると、悠人にどんな暴言を吐くか、わからないから。

 いや、もうすでに、言いたいことは言っているに違いないのだ。

 母を一人で帰すことはできない。
 だが、悠人を残して母を連れ帰ることもまた、無理なのだ。 



「悠人くん、すまなかったね、突然」

 優しくかけられた声に、悠人は力無く首を振る。

「いいえ…こちらこそ…」

 両手をついて、許しを乞いたい気分だった。

「申し訳ないんだが、君に一つお願いがある」
「父さん…っ」

 航平が慌てて父親の言葉を遮ろうとする。
 よもや、母と同じ言葉を繰り返すとは…。

 だが、父は落ち着いた様子でそれを、視線だけで止めた。

 そして、でた言葉は意外なものだった。

「私たち親子にはゆっくり話し合う時間が必要なんだ。だが、今の航平に私たちの言葉は耳に入らない。君からも言ってくれないか?逃げずにきちんと話し合うように…と」

「俺は逃げたり…っ」

 身を乗り出した息子の肩を、父親はやんわりと押さえる。

「頼むよ、悠人くん」
「…わかりました」

 悠人は真っ直ぐに顔を上げた。

 真正面から見据えられて、それを逸らすことなどできなかった。



 その気持ちが、痛いほどわかるから…。



4へ続く