日に一度、よほど天気が悪くない限り、この部屋の主だった青年の母親は、この部屋の窓を開けて、風を通す。 それはこの10年間、あの日からずっと続けられてきたこと。 日曜日、稲葉航平は遅い朝食のあと、久しぶりにこの部屋に入った。 まだ春というには早過ぎる。開け放たれた窓から吹き込む風はまだ冷たい。 10年間、帰る者もなくひっそりと時を渡ってきたこの空間は、静かに航平を迎え入れてくれた。 航平は、母が開けた窓を、そっと閉じる。 この部屋の主だった青年は、航平の兄。 航平が高校を卒業した日に、交通事故であっけなく逝った。 3つ年上の21歳。国立大学の3年生を終えたところだった。 何でも出来て優しい兄。幼い頃から自慢だった。 生きていれば、今頃家庭を持って、幸せに暮らしていたかもしれない。 航平は10年前そのままの書棚から、本を抜き取った。 理学部の学生だった兄の、専門書や論文の類。 10年も経てば、もう紙屑同然だろう。 そう思いながらも丁寧に扱い、引っ越し業者が用意した段ボールに詰めていく。 『何もかも、何一つ残さずに詰めてね』 母はそう言った。兄の物は何一つ残さず、すべて持っていくのだという。 航平の家は2ヶ月後に取り壊される。 母方の祖父母を引き取るために、建て替えることになったのだ。 そのために航平は兄の部屋の整理を始めた。 母は未だに、この部屋の物には手が着けられないでいるから。 書棚の本をあらたか詰め終わると、次にクローゼットを開いた。 10年間そのままの兄の服。 整然と並んでいるのは、28年生きている自分よりも、もっとたくさんの衣類。 そういえば、兄は身だしなみに気を配る人だった。 一つ手に取って合わせてみたが、まるで体型が違う。 兄は175cmくらいだったか。どちらかというと、ほっそりとした優しげな体つきだったと思う。 それに比べて航平は、兄より5cm以上高い身長に、しっかりした体躯だ。 これら全部をたたんで詰めるのかと思うと、少々うんざりしてしまう。 もう、着る人もないというのに。 いくつかの服を詰め終わったところで、クローゼットの隅に何か置いてあるのが見えた。 手に取ると、1冊のアルバムだった。 そう言えば、書棚には1冊もアルバムはなかった。 今時の紙製の物と違って、布張りの分厚いアルバムはずっしりと重い。 大切な記憶がしまわれている…そういう印象を与える。 航平はそっと表紙を開いた。 笑っているのは幼い日の航平と、兄。 ページをめくると、二人きりの兄弟はいろいろな表情を見せながら成長していく。 いくつかめくったところで航平の手が止まった。 航平と兄以外の人間が写っている。 そしてそこから後のページはすべて、その、少年。 航平は一つ、深い息をついた。 なぜ兄のアルバムに…。 「悠人…」 航平は、少年の名を呟いた。 愛くるしい表情と素直な性格で、誰からも好かれた高校時代の人気者。 誰よりも傍にいた親友。 航平は、敬愛する兄を失った日に、最愛の恋人…と、当時は信じて疑わなかったこの『親友』も失った。 突然、何も告げずに去ってしまった腕の中の愛しい存在に、航平は今でも捕らわれている。 忘れた日などなかった。 忘れたくて、憎んだ。 騙された、弄ばれたと言い聞かせても、航平の心は納得しなかった。 すべてを捨て去ろうと決意したときには、好意を寄せてくれていた会社の後輩を受け入れ、婚約までした。 しかし、つきあい始めた頃には癒されていたように思えていた心も、式が近づくにつれて、前にも増して軋んだ音を立てるようになった。 何もかもが悠人との想い出に重なってしまう。 逃げ切れなかった。 悠人という檻から逃げることはかなわなかったのだ。 結局、挙式2週間前のキャンセル…という異常事態を起こしてしまい、相手を傷つけ、周りを悲しませるという結果を招いたのだった。 航平は、重いため息を一つ、つく。 アルバムの中の少年は、そのまま時を止めて、未だに18歳。 航平の心の中に住み着いたままの悠人の姿。 だが実際の悠人は、航平と同じ28歳。 すでにイラストレーターとして確固たる地位を築いている。 28歳の悠人の姿は見えなくとも、その作品は街に溢れ、航平のオフィスですら目にすることがある。 女子社員たちの持ち物にそのイラストが入っているからだ。 アメリカ仕込みらしい、そのポップな色使いのキャラクターたちは、航平の前でいつも明るく笑っている。 そしてそのキャラクターの側に、必ず、小さいけれど『Yuto Kakiuchi』の文字。 悠人はいったいどんな大人になっただろうか…。 そんなことをふと思い浮かべ、航平は口の端を歪めて自嘲する。 アルバムから一つ、写真が落ちた。挟んであっただけのようだ。 他の写真は、几帳面な兄らしく、どれも計ったようにきちんと並べて張ってあったのに。 手に取った写真は、航平に見覚えのある場面であった。 制服姿で笑っている悠人。しかし、その写真は明らかに半分切り取られている。 隣に写っていたはずの人間…。それは…自分だ。 なぜ兄の所に、航平を切り取った悠人の写真があるのか。 航平は、開けてはいけないドアのノブに手を掛けてしまったような不快感に陥り、写真を挟むと乱暴にアルバムを閉じた。 閉じられたアルバムは、またひっそりと時を刻むのだろう。 航平はそれを隅へ追いやると、また黙々と兄の服をたたみ始めた。 どれくらい集中して整理をしていたのだろうか。 ふと気がつくと、部屋の中は薄暗くなり始めている。 航平は照明のスイッチを入れた。 あと残されたのは、兄の机のみだ。 航平はデスクの引き出しを引くと、几帳面に整えられたノートの類を取りだした。 一つ一つ確かめながら段ボール箱に移していく。 二つ目の引き出しを引いた。 『航平へ』 それを見たとき、兄が自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。 『航平へ』 10年の時を、誰の手にも触れられずにしまわれていたであろう封筒。 少し黄色みを帯びてしまったその封筒には、確かにそう書いてある。 知らず、手が震えた。 『ブレーキ痕が見あたりません』 あの日、警官はそう言った。 『何か思い悩まれているようなことはなかったですか?』 そう問われて、母は狂ったように叫んだ。 あの子に限って…と。 当たり前だ、と航平も思った。 何でも出来て優しい兄。自分の憧れでもあったあの兄が、自殺などするはずがないのだ。 それをもう一度しっかりと確かめたくて、航平は震えの止まらない手で性急に封筒を開いた。 『航平へ』 封筒の表書きと同じ書き出しのそれは、優等生らしい几帳面な字で丁寧に綴られていた。 『お前がこれを手にするとき、きっと俺はこの世にいない。 突然のことで動揺しているだろうか。 何もかもぶち壊して先に逝ってしまうバカな兄貴を許してくれ』 確かめようとしたそれは、一瞬で脆くも崩れ去った。 これは、紛れもなく、兄の『遺書』。 『2日前、悠人の都合が悪くなって、来られないと言ったのは嘘だ。 悠人は来た。お前に会いに』 2日前…。それは、いったいいつの2日前なのか。 そして、何故、いきなり『悠人』なのか。 航平は混乱する頭を激しく振った。 悠人がやって来た。自分に会いに。 それは…卒業式のほんの少し前の、あの日のことだろうか。 あの日、自分は何をしようとしていたのか。 卒業を前に、確かな約束が欲しくて…悠人を自分のものにしようとしていた、あの時のこと…。 けれど、悠人は来なかった。兄に伝言を残しただけで、自分には何も言ってこなかった。 『俺はもう一つ嘘をついた。 お前が悠人を俺に譲ったと言った。 そして、絶望した悠人を無理矢理抱いた。 悠人はお前に捨てられたと思っている。 だから、行ってしまったのだろう』 悠人を譲った…?悠人を抱いた…?悠人を捨てた…? 誰が? いったい何の話だ…。 『俺がずっと悠人を思ってきたのは本当だ。 悠人が卒業したら、うち明けようと思ってきた。 けれど、その前にお前達に変化が起こってしまった。 俺は焦ったんだ。 手に入れた手段は卑怯だったが、それでも俺は悠人が好きだ。 この2日間、お前が悠人を待ち続けたように、俺は悠人を探し続けた。 そして、今朝、アメリカへ行ってしまったと聞かされた。 俺はようやく、手に入れたのは悠人の身体だけだった事に気がついた。 心を手に入れているのは、航平、お前だったって事にも』 航平は、震える手で便せんをどうにか支えながら、床へと視線を落とした。 片隅に追いやられた兄のアルバム。 悠人の笑顔がページの大半を占めていたあのアルバムは、そのまま、兄の心の中だったというのか。 そして切り取られた写真は、兄の焦燥。 『俺は悠人の体と心を傷つけ、無条件に慕ってくれたお前の信頼を裏切った。 この始末は自分でつける。 だから、許して欲しい』 兄が告白した2つの罪。 兄は、この時間が止まったままの部屋で、10年もの間、許しを乞うていたというのか。 『お前に頼みがある。 悠人を迎えに行ってくれ。 悠人はお前に裏切られたと思っている。 それでも、最後までお前の名を呼んでいた悠人を、幸せにしてくれ。 頼む』 最後には兄の名。 兄は、この手紙がすぐ航平の手に渡ると信じて自分の名を記したに違いない。 どうしてあの時、この引き出しを開けなかったのか。 悠人を迎えに…? 二人の間には、すでに10年もの時間が横たわっている。 悠人は俺に裏切られたと思っている…? 裏切られたのは自分ではなく、悠人だったと言うのか。 10年前のあの日。 冷たい声で電話にでた悠人。 そして誰にも、何も告げずにいなくなってしまった卒業式の日。 何もかもが繋がりを持って見えてくる。 自分の心を10年間も閉じこめていた檻の鍵は、こんなにも側に…あった。 航平は、ハッと顔をあげた。 悠人は…傷つけられた心と体を抱えて、この長い時間を耐えているのだろうか。 この10年間、一度も帰国していないと聞いている。 結婚したとも聞いていない。 悠人は…今でも苦しんで…いる? 「なんてことだ…」 航平は震えの止まった手で、便せんを封筒に納めた。 そしてそのまま、自分の部屋へ戻った。 電子機器ばかりがその存在を主張している殺風景な部屋。 パソコンの横には数日前に届いた同窓会の案内状が広げてある。 今年で10回目になる高校の同窓会は、毎年大勢の参加者で賑わう。 航平も毎年必ず参加してきたのだが、悠人が姿を見せたことは一度もない。 欠席理由は『多忙であるため』そして『アメリカ在住であるため』だと、毎年幹事が説明をする。 しかし、ただ出欠が戻ってくるだけではなく、毎年必ず電話がかかるのだという。 『うちのクラスは誰が来るの』と。 『今年も電話はあったんだけどね』と、この9年間毎回聞かされてきた。 しかし、その事について深く考えたことはなかった。 自分だけが被害者だと思い続けてきた航平には、悠人の気持ちを推し量るゆとりなどなかったのである。 (悠人は…俺が来るのを確かめている…?) 悠人にとって自分は…。 航平は今度こそ身体の中心から震えた。 憎まれているに違いない…。 だが目の前が真っ暗になりかけたとき、ふと光が射し込んだ。 『悠人を迎えに行ってくれ』 自分の心は今でも悠人に縛られている。 悠人を求めて彷徨っている。 ならば、迎えに行こう。 迎えに行って、『知らずにいた』という罪を告白して、許しを乞うのだ。 航平は、携帯電話を手に取った。 「頼みがあるんだ」 電話の相手はかつての級友、今回の同窓会幹事、悠人とも仲の良かった館野哲也だ。 「ああ、今度の同窓会だ。…俺、出席するけど………悠人から電話があったら『稲葉は来ない』って言って欲しいんだ」 まず、悠人が帰国できるように仕向けてみる。 もし、帰国しない原因が自分にあるのなら、悠人は幹事のこの一言で必ず『出席する』と言うはずだ。 「…すまない…今は言えないんだ…。ただ、俺が来ないと言えば、多分悠人は来る。……いや…、この10年間、悠人とは一度も連絡を取ってない…」 電話の向こうの友人は、明るい声で『何だかよくわからないけど、お前と悠人のためなら、何だってやってやるさ』と笑ってくれた。 卒業式の朝、何も言わずに突然渡米してしまった悠人に、誰もが不審を抱いていた。 何人もがその後連絡をとったが、悠人は『ごめんね』と繰り返すばかりだったと言う。 そして、航平は数日後、哲也から連絡を受けた。 『悠人、帰って来るってさ』 高校3年間のほとんどを『親友』として過ごし、卒業を控えたほんの数ヶ月間、恋人になった。 優しいキスだけで終わった、ままごとのような恋だった。 そして、今二人の間に横たわるのは、短く淡い想い出を風化させてしまうには充分過ぎる、10年という月日。 その間に、少年だった二人は、十分すぎるほど大人になってしまった。 それぞれの世界で、この月日を懸命に生きてきた自分たちは、また昔のように話をすることができるのだろうか。 自分はこの10年間の悠人を何も知らない。 もしかしたら、恋人がいるかもしれない。 傷ついた身体と心を癒してくれる人を、すでに見つけているかもしれない。 それでもいい。それでもいいから会いたい。 会って謝りたい。 謝って許してもらいたい。 そして、できることなら、抱きしめたい。 抱きしめて、この腕の中に…取り返したい…! 「あれぇ?航平、欠席だったんじゃないのか?」 開宴前だというのに、すでに賑わっているホテルの宴会場。 中庭に植えられた桜は、満開を少し過ぎた頃か。 10年ぶりに帰ってくる悠人は、この桜を見て何を感じるだろうか…。 航平はそんなことを思いながら、声をかけてきた友人に笑顔を返す。 「ああ、急に都合がついてね」 「そりゃよかった。お前が来ないとつまんねえからな」 「よく言うよ」 気安く肩をぶつからせる。 「それはそうと…悠人が来るらしいぞ」 悠人が来る…それはすでに同級生たちに知れ渡っていた。 それほどに、友人たちは悠人を待っていたのだ。 航平は無理矢理平静を装い、こともないように笑って見せた。 「へぇ…そうなんだ」 「やっぱり知らなかったのか?お前たち、あんなに仲良かったのにな。しかし楽しみだよなぁ…。あいつ、どんな大人になってっかな?あの時のままだったりしたら、俺、悠人さらって逃げちゃうかも」 最後の一言に、航平の表情が曇る。 「何言ってんだよ。あれから10年も経ってんだぞ」 「そりゃま、そうだけど」 友人の軽口を聞きながら、宴会場の奥へ進む。 「よ、航平」 哲也が声をかけてきた。 「ああ、今回は面倒かけてすまなかった」 航平が軽く頭を下げる。 「何言ってんだか」 哲也はそんな航平の背中をバンッと叩いて軽くウィンクをしてみせる。 「…お前、なるべく奥の方にいろよ。たださえハンサム野郎は目立つんだからな」 「哲也…」 「悠人を逃がさないようにしなきゃならんのだろう?」 何も話していないのに、この友人はさりげなく気を利かせてくれている。 「すまん…。頼む」 「ああ、頼まれてやるって」 哲也は後ろ手をヒラヒラさせて、宴会場の入口へと行ってしまった。 しばらくして、急に入り口付近が騒がしくなった。 大勢の人間が取り囲む向こうには誰がいるのだろうか。 航平は、自分の鼓動がうるさいほどに耳に障っていることを自覚していた。 「悠人だ…!」 隣を誰かが駈けていった。 (悠人…) やっと姿が見えたその人は…。 (ああ…変わっていない…) 強いて言えば、無邪気だった表情が、儚げに思慮深くなっている…だろうか。 航平は、誰にも気づかれないように、深く深く息を吸い込んだ。 (今日という日を、必ず10年前に戻してみせる…) まだ随分と距離がある悠人との間。 しかし、悠人の視線はフワッと漂った後、航平を捉えた。 困惑するような眼差し。 航平の胸を、痛みがつき抜けていく。 しかし、視線を外すことなど絶対に出来なかった。 絡めた視線をそのままに、航平はゆっくりと悠人に歩み寄っていく。 会いたかった。会って抱きしめたかった。 裏切られたと思っていた間も、自分の心は悠人を求めて泣いていのだから。 「垣内…久しぶりだな」 静かに再会の言葉を告げる。 『悠人』、と、呼んでしまうと、すぐにでも抱きしめてしまいそうだった。 そして航平は、もう一度心の中で繰り返す。 …必ず取り返す…、見失っていた時を、封印していた思いを、そして…悠人、お前を。 |
後編に続く |