日付が変わって数時間後。

 悠人は一次会の会場となったホテルから歩いて10分ほどの、アメリカ資本のホテルに部屋を取っていた。

 向こうの知り合いに取ってもらったんだ…と言って小さく笑う。

 そして4次会場となったショットバーから『送っていく』と言ってきかない航平に、悠人は『俺、いくつだと思ってるの?』と呆れた顔をしてみせた。



「あ、あの…ちょっと休んでく?」
 カードキーで鍵を開けると、まず、悠人がそう言った。

 結局航平は『送られるのがイヤだって言うのなら、ついて行くまでだ』と言って、悠人の部屋までやって来たのだ。

 悠人の身体は部屋の中にあり、航平の身体はまだ廊下にある。

「泊めて」
 航平が部屋に入ろうとはせずに、言う。
 目を見開いた悠人に、何も言う隙を与えずに更に言う。

「もう、電車がない」

 あ、なるほど…と、悠人が思う。

 だが終電は確かに終わっているのだが、ここは街のど真ん中。
 タクシーならいくらでも走っている。
 しかし、航平は、そんなことは知らない振り…だ。 

「じゃ…どうぞ。アメリカンタイプの広いツインだから、一人じゃちょっと寂しいなって思ってたんだ」

 扉を大きく開けて、航平を招き入れる。

「さんきゅ」
 二人が入ると、センサーが感知して淡い光をつけた。

「何か飲む?」
「もう飲めない」

 即答した航平に、悠人が小さく笑う。

「アルコールじゃないよ。ソフトドリンク」

 笑いながら、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取りだした。

「でも、航平、そんなに飲んでなかったと思うけど」

 当たり前だ。今日の同窓会は飲みに来たのではない。
 あの日を取り返しにきたのだ。

「いつまでこっちにいられるんだ?」

 ボトルを受け取りながらも、視線は悠人から外さない。
 目を離すと、また失ってしまいそうで、それが、とてつもなく怖いから。

「1週間。明日からは実家へ泊まって、今週の金曜の夜のフライトで帰るよ」
「帰る…のか?」

 航平の声が少し震えたような気がした。

「航平…?」
「悠人が帰るのは、こっち…だろ?」

 酔ってなどいないのだが、絡んでしまいそうな気分だ。

「行くなよ、悠人。帰るなら、こっちに帰ってこいっ」

 腰掛けていたベッドから勢いよく立ち上がった航平は、その勢いのまま悠人の腕を掴んだ。

「頼むから…行かないでくれ…」

 航平の行動に、目を丸くした悠人だったが、特に慌てる風もなく、柔らかく微笑んだ後、何かを思い出したようにキュッと口を弾き結んだ。

「悠人…?」
「ごめん…何だか、目が熱くなって…」

 言った途端に、一筋だけ、光るものが頬を伝った。

「航平から…戻ってこいって言ってもらえるなんて…思わなかっ…」

 最後まで言わせずに、航平は悠人をきつく抱きしめる。


 ニューヨークを発つときも、日本に着いたときも、今朝ホテルを出るときも、同窓会場に着いたときも…航平の姿はないものと諦めていた。
 そもそも、航平が来ないと知らなければ、帰っては来なかったのだから。

「悠人、戻ってこい…。戻ってきて、一緒に暮らそう。…いいな?」

 航平はもう一度確認するように悠人の耳に言い含める。

 帰ってくる返事は当然「イエス」のはずだったのだが…。


 悠人は静かに首を振った。

 数時間前は、取り戻した航平の温もりの心地よさに酔い、自分もやり直せるのかと思った。
 だが…、きっとそれは、その暖かさが見せた幻で…。

「悠人…」
 航平の声に、あからさまに、落胆とも驚愕ともつかない色が混じる。

「俺…10年の間に変わった…」

 悠人は抱きしめられている腕をそっと外した。
 そして、静かな声で問う。

「航平…男を抱いたこと…ある?」

 航平の目が、大きく見開かれた。

「悠人…」 
「ない…だろ?」

 航平は肯定も否定もしない。ただ、きつく口を噛みしめた。
 それが何よりも『肯定』を物語る。

「俺…あっちに行ってからしばらく…3年くらいかな…。酷かったんだ」

 力の抜けている航平をそっと押して、ベッドに座らせる。
 そして、隣に座りたいという気持ちに蓋をして、悠人は窓辺へ歩み寄った。

 天井から床までの大きな硝子の外は、もう、光の落ちた街並。
 月灯りと、小さな街灯だけが街路樹を照らしている。 
 静かな室内で、悠人は何処を見るでもなく窓の外へ視線を遣り、航平はかける言葉なく、悠人の横顔を見つめていた。

「俺…あっちのアカデミーに入ったんだけど、入ってすぐに提出した課題が、いきなり飲料品メーカーの目に留まったんだ。それで、学生を続けながら企業とも専属契約をして売り出してもらった…」

 それは、サクセスストーリーと言うのではないだろうかと航平は思う。
 今、確か悠人は『酷かった』と言ったはずだ。

「ただね、他の学生の作品も数点…候補にあがってたんだ。その中で、俺のだけが契約に至った…。どうしてだと思う?」

 悠人は、昔と変わらない可愛らしい笑顔を航平に向けた。
 だが、その笑顔の後ろに、航平はたしかに昔の悠人とは違うものを感じて取った。

 輝いていた高校生の頃にはなかったそれは…。

(諦め…?)

 返す言葉が見あたらない。

 悠人はほんの少し、航平の返事を待ったが、何の言葉も発さない航平を見て、もう一度微笑んだ。

「…俺の見た目が、こんなだから…なんだよ」

「ゆう…と…」

 漸く紡いだ言葉は掠れていた。

 悠人はまた、視線を窓の外に戻す。

「まず、メーカーの社長が俺に狂った。そして、俺に近づこうとする側近を次々と切って捨てた。そのうちに、会長までがおかしくなった。同族企業だったんだけど、俺の取り合いで会長と社長の全面戦争になって…結局他社に吸収合併された。…その間約3年。俺は、ずっとどちらかの屋敷に軟禁されて、絵を描く以外は…ベッドに繋がれてた」

 見えないところで、航平が立ち上がった気配がする。
 しかし、その表情に目を向けることもせず、悠人は何事もなかったように、殊更静かに先を続けた。

「表の世界では、俺の作品は売れに売れて、俺の名前は陽の当たるところにあったけれど、本当の俺の姿は誰にも見せられないほど…ボロボロだった。ただ…」

 言葉を切って、そこで悠人が航平に向けた微笑みは、先ほどまでの可愛らしさを剥ぎ、壮絶な美しさを纏っていた。

 航平が息をのむ。

「…ただ、救いだったのは、二人とも、俺を真剣に愛してくれたこと…。俺は…二人を愛することはできなかったけど…」

 その美しさは、何もかもを諦めてしまったものだけが纏える、強さ、のようなもの。

 航平は動こうとしない足を、無理矢理引きずる。
 悠人の傍に行きたい。
 行って抱きしめたい。

 そんな航平の心を知らず、悠人はさらに、淡々と続ける。

「会社がなくなった時点で、俺は自由になった。そして、専属契約も切れた。けれど、なくしていた3年間の自由と引きかえに、俺は…いつの間にか成功していたんだ…」

 最後は独白のような呟きとなり、つかの間、沈黙が訪れる。

 しかし、悠人は何かを吹っ切るように明るい声を出し、顔をあげて、その視線を天井にまで向けた。

「後は結構平和な生活を送ったよ。やっぱり言い寄ってくる男は後を絶たなかったけど、マネージャーのジェフリーがみんな蹴散らして、守ってくれた」

『ジェフリー』

 初めて悠人の口からでた固有名詞に、航平の心臓が音を立てた。

 一足、悠人に近づく。

「そいつは…どうなんだ?」
 また、近づく。

「航平?」
「そいつは言い寄ったりしなかったのかっ?」

 いつの間にか航平と悠人の距離は、少し手を伸ばせば届くところまできていた。

 悠人が視線を落とす。
 それだけで、次にくる言葉が想像されてしまう。

「ジェフとは…3年ほど前に一度だけ…」
「………」

 なぜか、最初に話を聞いた、メーカーの経営者どもに対するものよりもっと激しい感情が、航平の中を荒れ狂う。

「ジェフが、俺を欲しいと言ったから、身体だけならいくらでも差し出そうと思ったんだ。どん底にいた俺を、助けてくれた人だから。だけど、彼は、人形のような悠人はいらないって…。でも…俺…心は差し出せなかった…」

「悠人…」

 心を差し出せなかったそのわけは…。 

 航平が悠人に手を伸ばす。

 僅かにその肩に触れようとした瞬間、悠人は背後にあったカーテンを掴み、くるりと身体を反転させた。

 年齢に似つかわしくない華奢なその身体が、スッポリと、サーモンピンクの分厚いカーテンに包まれる。 
 顔だけ出した悠人は、大きく真っ黒な瞳で航平を睨み上げた。

「航平…俺の話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いたとおりに言ってみろと言われたら、多分、ほとんど間違わずに復唱できると思うよ」

 間髪入れずに答える航平に、悠人は聞こえるように吐息を漏らした。

「だったらどうして…」
「どうして?」

 一言ごとに航平の声は柔らかくなっていく。
 それが悠人には理解が出来ない。

「俺たちが最後にあったのは、卒業式の何日か前。…俺はもう、あの時の垣内悠人じゃないっ」

 逆に、努めて冷静に話していたはずの、悠人の語尾が上がってくる。

「じゃあ、今、俺の前にいるのは誰なんだ?」

 静かに問い返されて、悠人が言葉を失う。

「垣内悠人じゃないのか…?」

 悠人は激しく首を振った。

「でも…何も知らなかった頃にはもう…戻れないんだっ!」

 涙で少し、声が掠れる。

「戻らなくていい…。その10年間も、俺に、くれ」


 …今、航平は何と言った…?


 驚き、見開かれる悠人の瞳に、微笑む航平が写った。
 しかし、すぐにその姿は、ゆらゆらと涙の中に溶けてしまう。

「こっちへ来い、悠人。それとも…俺にも身体しかくれないのか?」

 差し出された手が、動こうとしない悠人を辛抱強く待つ。

「悠人は、どうしたい?誰に心を預けたい?」

 悠人の頬を、涙が幾筋も伝い始めた。

 しかし、肝心の言いたい一言が、どうしても喉を通過してこない。心の底に、溜まったまま…。

「俺の心は、悠人、お前に預けたい」

 それは、力強い言葉だった。

「こう…へ…い」

 悠人の手が、カーテンから覗き、おずおずと航平に向けられた。
 そして、手と手が触れた瞬間、悠人の身体は航平の腕の中に包まれた。

「取り戻すっていったろ?」

 きつい抱擁の後は、優しい唇が降ってきた。









 シャワーを浴びて少し火照った身体には、些細な刺激もたまらない。

 枕元の小さな灯りだけがともる、アメリカンタイプの広いベッドの中で、悠人は、身体に落ちてくる航平の唇を感じるたびに、小さく身を震わせる。

 今までに一度も感じたことのない疼き。
 もっとも信頼していたジェフリーにさえ、こんな感触は覚えなかった。

 もしかすると、抱かれるということは気持ちのいいことなのかもしれない、と悠人は思う。

 航平にならば、身体も心も渡してしまえると思ったのは事実だ。
 しかし、それは悠人自身が身体の快楽を求めた結果ではない。
 他人の意志で施される行為の中で心を解き放ったことのない悠人は、まだ本当の快楽の訪れを受けていないのだから。

「悠人…」

 熱い吐息混じりに囁かれる自分の名ですら心地よい。 

 体中を優しく愛されて、悠人は初めて、心地よいと感じて息をつく。

「悠人…どうすればいい?どうすればお前は辛くない?」

 少し身体を離して訊ねてくる航平に、悠人は熱っぽい瞳を返した。

 航平は女性しか知らないはずだから、きっと自分の身体は傷つくだろう。 

 それでも、構わない…。

 目尻をほんのりと紅く染めた悠人を見て、航平は小さく笑いを漏らした。

「俺…いい年してこんな事言ってさ…。たかだか18のガキの頃、どうやってお前を抱こうとしてたんだろうな」

 きっと無茶をしたに違いないと思う。

「航平は、きっと…大切に抱いてくれたと思うよ…」

 そう言って悠人は、うっとりと航平の身体を引き寄せた。

「大丈夫…。俺、平気。…慣れてる、から」

 その呟きに、航平は、今度は慌てて身を離した。

「悠人…っ」

 悲愴な顔を見せる航平に、悠人は何でもないよ、と言わんばかりにゆったりと微笑んだ。

「そんな顔しないで。航平の思うように愛してくれたら…嬉しい…」
 



 しかし、航平の熱は、悠人を翻弄した。

 過去に知っていたのは、ねじ伏せられるような抱かれ方だけ。
 慣れていたのは、身を裂かれるような痛みだけ。

 初めて自分に降りかかってきた、どこまでも、高く追い上げられるような抱かれ方に、悠人はただ、身を任せるばかり。

「こう…へい、あ…っ」
「何?…悠人」

 動きを止めることなく航平が問い返す。
 それに答える余裕は、もう悠人にはない。 

「悠人…全部俺にくれ。心も身体も…、お前が生きてきた、昨日も…、今日も…、明日も…」

 航平が大きく伸びをするように身体を進めた瞬間、悠人は上り詰め、そして…、心をも解き放った。







「嘘つきだね…航平」

 嵐のような時間が過ぎ、穏やかな息が戻ってきた頃、悠人はクスクスと笑いながら航平の胸に顔を埋めて、そう言った。

「何…?!どうして!」

 見に覚えのない指摘に、航平が慌てて身を起こす。

「だって…何にも知らないようなこと、言うから…」

 身体が酷い状態になるのを覚悟していた。
 なのに、航平は悠人の身体には傷を付けることなく、完璧にやってのけたのだ。

 航平は、また少し顔を紅くした悠人の額に口づけて、端正な口元の端を僅かにあげて笑った。

「いっただろ?俺、悠人を取り戻すことに決めていたって」

 その言葉の意味を、一瞬考える。

「もしかして、それって…」

 心の準備は出来ていたと言うことだろうか。
 結局は、慣れているはずだった自分の方が、翻弄されてしまったのだ。

「バカ、それならそうと…」

 軽く一つ、航平の逞しい胸板を叩く。
 航平は、その手を取って、そっと口づける。

 航平の心の中で、時を止めて潜んでいた18才の悠人は、もうすでに28才の悠人へと、鮮やかに塗り替えられた。

 その背負ってきた重荷と共に。



「悠人…頼みがある」

 顔をあげた悠人の額にまた一つ、キス。

「俺の知らない10年間を、すべて話そうとしなくていい。話したいことだけ話せばいいし、隠しているという負い目も持つな。ただ、俺はどんなことも受け止めてみせる。二人で生きて行くんだから、荷物は一緒に持とう」

 悠人の目が、また潤む。
 解き放った心は、しっかりと受け止められていたのだ。

「だから、必ず帰ってこい」

 その言葉に、悠人はただ、頷いた。
 







 金曜の夜。

 航平が仕事を終えるのを待って、食事に行ったり、ドライブに行ったり、普通の恋人同士のように過ごした1週間は、あっという間に過ぎた。

 薄暗い空港の駐車場。
 しかし、深夜便の便数が増えたため、ターミナルの方は賑やかそうだ。

 運転席の航平は、助手席の悠人の手を握る。

「ありがとう、航平」
「その言葉、ちゃんと帰ってきてから聞かせてくれ」

 握っていた手を離し、肩を抱き寄せる。

「どれくらいで帰れそうだ?」

 それはこの1週間、何度も何度も訊ねたこと。
 悠人がクスッと笑いを漏らす。

「1ヶ月で何とかするよ」

 それもまたこの1週間、何度も何度も答えたこと。
 そこで航平が大きなため息をつくのも、同じだ。

「仕事はね、フリーだから、事務所を移転したって言う挨拶一つで何とでもなる。パソコンと通信手段さえあればどうにでもなるし…。ただ、生活の方はね…」

 それは航平にもよくわかっている。
 10年に及ぶニューヨークでの生活をたった1ヶ月で片づけてくるなど、かなり厳しいことには違いがない。

「毎日メールするよ…。電話もする」

 子供のように拗ねた顔を見せる航平に、悠人は宥めるように言って聞かせる。

「俺も…」

 そう言って、悠人の身体をギュッと抱き込む。

「お前が安心して仕事が出来る新しい家、探しておくから、安心して帰ってこい」

 航平はそう言うが、彼にも自分にも『親』がいる。
 二人で暮らすことなど、本当に可能なのだろうかと、悠人は内心でため息をつく。

 それに、…ジェフリー。
 彼の説得に、きっと骨が折れるだろう。
 けれど…。

『荷物は一緒に持とう』

 航平はそう言った。

 それに、きっと『なくしていた頃』の痛みより辛いことなど絶対にないはず。

 今度は『二人』なのだから。


「航平…待ってて…」 

 悠人はありったけの思いを込めて、航平の身体を抱き返した。 








 轟音を残しながら夜空に溶けていく、悠人を乗せたジェット機を見送りながら、航平はそっと自分の胸に手を当てた。

 結局、一番罪深いのは自分であった。
 何も知らなかったという罪。知ろうとしなかった罪。
 悠人を追いかけることもせず、自分一人が不幸なのだと思いこんできた。

 兄は自らの犯した罪を精算して逝った。
 悠人は自らに足枷をはめて生きてきた。
 つまりは自分が一番、平和だったのだ。

 星に紛れて見えなくなった機体のランプに、一つため息をついて、航平はターミナルの屋上を後にする。
 
 さぁ、準備を始めよう。
 
 明日を悠人と生きるために。



END


2001.5.28 UP


44444GETの瞳様からいただきましたリクエストです。

「君の愛を奏でて〜楽興の時」もしくは「今日という日が終わるまでに」
このどちらかの続編と言うことで、リクエストをいただきました。
そこで、以前から「航平と悠人のこれからが知りたい」と言うご要望を
かなりいただいていましたので、「今日という日〜」の続編を書かせて
いただいた次第です。
前編は「これから」ではなく「これまで」になってしまいましたが(^^ゞ
さて、「今日」「昨日」と来ましたが、「明日」はあるのでしょうか?(笑)

瞳様、リクエストありがとうございました(*^_^*)

続編『明日を君と生きるために』へ

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