今日〜午後

(うそ…、どうして航平がいるわけ…)

 日曜の昼下がり、垣内悠人(かきうち・ゆうと)はきらびやかなシャンデリアの煌めくホテルの宴会場へ足を一歩踏み入れた瞬間に…固まった。

 悠人の視線の先では、あの頃と変わらない――いや、十分大人の色香を身につけた稲葉航平(いなば・こうへい)が、様になる仕種でグラスを片手に談笑していた。


(俺…帰ろ……)

 そう決めて、クルッと踵を返した瞬間、悠人は盛大に柔らかい壁にぶち当たった。


「あ、すみませ…」
「悠人?悠人じゃないか!」

 目の前の壁が、ワシッと悠人の肩を掴んで揺さぶった。

「へ?」
「俺だっ、館野だよっ。やー、ホントに悠人だ〜。お前、可愛いまんまじゃねえか〜」

 悠人が見上げた先には、犬っころのような人なつこい笑顔。

「あ…もしかして、哲也…?」
「おうよっ、10年ぶりだなっ」

 あの頃と変わらない、人を安心させる笑顔に、悠人も思わず笑顔を返す。

「ん〜、悠人やっぱ可愛いっ」

 笑顔に釣られたのか、大きな図体の哲也が、どちらかというと小柄な悠人を思いっきり抱きしめ、挙げ句に頬づりまでしてくる。

「や…ちょっと…何やってんだよぉ」

 身体を捩って抗う悠人。
 大きな宴会場の入口で繰り広げられている『感動の再会』に周りが何事かと注目する。

 そして…。

「悠人だ…」
「ホントだ!」

 大型犬に懐かれている子犬の姿を見るや、周囲がどっと押し寄せてきた。




 それからしばらくのことを、悠人はあまり覚えていない。

 とにかくもみくちゃにされて、頭をなで回され、抱きしめられ…好き放題触られたあとは、お決まりの『元気だったか?』の嵐…。

 やっと解放された時は、すでにトンズラの機会を完全になくしていた。

 そして、自分をジッと見つめる視線に気づくこともなかった。
 いや、そちらを見ることができなかったのである。



 県下でも有数の進学校、私立青峰学園高等学校。
 10年前にそこを卒業した者たちの、今日は同窓会である。

 学年の同窓会が毎年あることを、悠人は知っていた。
 もちろん毎年案内が来るからだ。
 しかし、過去9回の同窓会に、悠人は一度も出席したことがない。

 それは、彼がアメリカという遠い土地にいるから…というのが理由だった。
 もちろん同級生達はそれで納得していた。

 高校を卒業と同時にアメリカへ渡り、今や売れっ子のイラストレーター「垣内悠人」は超多忙の身で、一時帰国もままならないと…。

 しかし、悠人は帰国がままならなかったわけではない。

 確かに多忙な身ではあるが、そこは「イラストレーター」と言う名の自由業。
 自分の管理さえきちんと出来ていれば、1週間程度の帰国はどうとでもなるのである。

 そして、実際悠人は同窓会に出席したいと思っていたのである。

 だから毎年、その年の同窓会幹事にさりげなく連絡を入れて聞いていたのだ。
『うちのクラスって誰が来るの?』と。

 その結果が、9回にも及ぶ『欠席』なのである。



 そして今年出席したわけは、『稲葉航平は欠席』と聞いたからに他ならない。

 毎年必ず出席していた航平が、今年は来ない。
 それを知った悠人は、若干ためらいながらも『出席』と返事をし、帰国したのだった。



 しかし、会場に入ったとたん目にしたのは、10年離れていようが絶対に見間違うことのない、航平の姿。
 高校時代の鮮烈な雰囲気をそのままに、大人びた優しさすら滲ませている、かつての『親友』がそこにいた。

(来なければよかった…)

 悠人はクッと唇を噛みしめる。
 どうして来てしまったのかと後悔するが、今さらである。
 今まで一度も姿を見せなかった悠人が現れたことで、すでに会場の雰囲気は盛り上がりまくっているのだ。




 愛校心が強いのか、はたまた単に暇なのか、例年270人の同級生の9割がやって来るという同窓会は、ホテルのもっとも広い会場を使い、立食式で、これでもかと言うほど賑やかに行われている。

 そしてもっとも賑わっているのが悠人の周りである。
 皆があれこれ世話を焼く。
 かつてのように。
 あの頃、何もかもが輝いて見えた頃のように。

 まるで失っていた10年間を取り戻したような錯覚さえ起こす居心地の良さに、悠人は我知らず笑みを漏らした。

 それだけで、周りはまたいっそう賑やかになる。
 皆が思っていたのだ。
 あの頃の悠人の笑顔が見たいと…。
 突然、何も言わずに姿を消してしまった、あの、悠人の笑顔をもう一度見たいと…。

 しかし、そんな周囲の期待とは裏腹に、悠人はふと思い至ったように表情を凍り付かせた。
 自分は笑ってはいけないのだ…。
 航平の前で、笑ってはいけないのだ…。
 自分のしたことを考えれば、笑えるはずなどないのだ…。



「お前…卒業してから一度も航平に連絡取ってなかったんだってな」

 やっと周囲が静かになったとき、それでもずっと悠人の傍にいた哲也が口を開いた。

「あ…うん」
「何か、あったのか?あいつと…」

 何かあったか…?
 悠人は心の中で繰り返す。が、答えは決まっている。

「何も、ないよ」
「悠人…」

 困ったような顔で、哲也が見おろしてくる。
 悠人も困ったような顔で、曖昧に微笑む。
「何もないってば」

 それは本当だ。
 航平とは本当に『何も』なかった。 
 ただ、ほんの一時、優しい思いに満たされただけ…。
 ただそれだけのことだ。
 けれど、自分に、その思い出に浸る資格はない。

 悠人はぼんやりと視線を漂わせた。
 航平は、自分に気がついているだろうか。
 そう思ってから、また一人で沈み込む。
 気がつかないはずがない。あの騒ぎだったのだから。


(気分悪くしてるだろうな…)

 きっと自分が来るなんて夢にも思っていなかったに違いない、と悠人はため息をつく。
 そして、ため息の先に…。

(航平…)  

 それは射抜くような眼差しだった。
 逸らそうと思っても、まるで魅入られたように、自分の身体が意志を失っている。

 10年の月日が過ぎてなお、痛みを訴えているのは航平の瞳なのか、自分の心なのか…。

 しかし、航平はもう3年も前に結婚したと聞いた。
 その時は、心ならずもホッとしたものだった。
 自分はもう許されたのだと思いたかったからだ。
 もちろん、それ以上に、自分自身の想いに対する胸の痛みは激しかったが。

 視線を絡めたまま、航平がゆっくりと歩みを進めてくる。

(ああ…)

 会いたかったのだ。やはり自分は航平を忘れてなどいない。
 会いたくて会いたくて、何度あの日のことを恨んだだろう…。
 もう取り返せない時間を何度呪ったことだろう…。

「垣内…久しぶりだな」  

 しかし、静かに告げられた再会の言葉は、悠人にとっては死刑宣告と同じだった。

 ずっと傍にいた高校3年間。
 一度も『垣内』と呼ばれたことなどなかった。
 航平はいつも優しい声で『悠人』と呼んでくれていたのだから。

 大人になったから…、もうあの頃のような、何も知らないガキじゃないから、だからそう呼ぶのか。

 悠人は心の内で静かに息を吐いた。
 そうではないことくらい、痛いほどわかっている。
 すべては自分の犯した罪だ。

「元気そうだね、稲葉」

 悠人も、今初めて航平を『稲葉』と呼んだ。

「ああ、おかげさまで元気だよ」

 その言葉は、『お前なんかに傷つけられてやしない』と言う意味を含んでいるように、悠人の耳には聞こえた。

 が…。

「変わってないな、お前って」

 そう言って航平は、クシャっと悠人の髪をかき混ぜた。

 それは、ずっと昔、じゃれ合っていた頃の航平の癖。
 思わず身を竦ませた悠人に、航平は慌てて手を引いた。

「…悪い…つい…」

 引いた手をグッと握りしめ、唇を噛む。

(今のは…何…?)
   
 竦ませた身を伸ばせないまま、悠人はその意識すら凍り付かせていた。

 今の航平の行動はまったく理解できなかった。

 何も告げずに、悠人から一方的に断ち切ってしまった二人の関係を、航平は何と思っているのだろうか。
 それとも、もうすべてが過去の出来事、忘却に値するものに成り下がったのか。



 しばらく考えを巡らせた後、悠人は自分自身に言い聞かせる。
 航平はきっと、もう、幸せなのだと。
 あの頃のことなど、ちょっぴり苦い青春の一コマに過ぎないのだと。
 抜け出せないでいるのは、たぶん、自分だけ。

「航平〜、お前なぁ、いつまでも悠人をおもちゃにしてんじゃないよ」

 哲也が絶妙のタイミングで悠人の身体を引き寄せた。

「な〜、悠人ぉ、今日は俺と飲み明かそうぜ〜。な、航平も来るよな」

 航平が頷く前に、悠人が口を挟んだ。

「お、俺もう帰る…。こっちでも仕事あるから…」
「へへっ、悠人ちゃ〜ん、嘘ついて逃げようたってそうはいかないなぁ。1週間完全オフでの里帰りって、幹事から聞いてるぜ」

 悠人は、しまった、と内心で舌打ちした。

「さ、行こう行こう。これから楽しい二次会、三次会だっ」

 ガタイのいい哲也にがっちり拘束され、悠人は引きずられていく。
 航平は何も言わずについてくる。

 そして、特に話をするわけでもないのに、なぜかずっと悠人の近くにいて、様子を伺うような素振りを見せ続ける。




 そして、最後になだれ込んだ4次会のショットバーで、悠人はカウンターの奥に追いやられ、その隣、悠人の姿を周りから隠すように、航平が座った。

 他の連中はなぜか、カウンターから離れた数少ないテーブル席に、ひしめくように座っている。



「元気…だったか」

 水割りの氷を『カラン』といわせて、航平が口を開いた。

「あ…うん…」
「すごいよな。街歩いてると、どっかで必ずお前の作品…っていうか、お前の描いたもの見かけるよ」

 悠人は始めは企業で商業用のイラストを書いていたのだが、いつしか人気が出て、『Yuto Kakiuchi』という一つのブランドとして成功していた。
 こうなればもう、アメリカだろうが日本だろうが、どこででも出来る商売だ。
 それでも帰ってこないのは、自分自身にはめた足枷なのだった。

「こうへ……、い、稲葉こそ、いい所にいるって聞いたけど…」

 航平は大手ゼネコンの設計部で、エリートの道を着々と歩いている。

「…俺のこと、気にしてくれてたんだ…」

 その言葉は責める口調ではないのに、悠人の心には深く切り込んでくる。

 航平は飲むわけでもない水割りのグラスを、軽く口に付けた。

 悠人はその左手をそっとのぞき見る。
 薬指には、指輪があるはずなのだ。
 3年前、親切な友人が電話でわざわざ教えてくれたのだから。

 そして、その視線を航平はしっかりと捉えていた。

「何?」

 言われて、慌てて悠人は視線を外す。

「もしかして、結婚したとか聞いてる?」
「や…あの、誰かがそう言ってたから…」

 言いにくそうに俯く悠人を、航平は複雑な思いで見つめていた。

 悠人の思いは、もうすでに自分へは向けられていないと確信しているのに、この反応はいったい何なのだろうかと。


「俺、独身だよ……悠人」

 グラスを弄びながら呟かれた言葉は、悠人の背筋に過剰な反応をもたらせた。

 それは、告げられた事実に対する反応なのか、それとも昔のように優しく呼ばれた名前によるものなのか。

 ビクッと竦んだ悠人の背中に、航平はおずおずと手を伸ばした。

「どうした…?気分悪いか?」

 悠人は声もなく首を横に振って、否定を示す。
 その様子に、航平は触れかけていた手を引っ込め、小さくため息をついた。

「俺、ドタキャンやっちまったんだ。結婚式の2週間前に『ごめんなさい』しちゃってさ」

 悠人が恐る恐る顔を上げて、航平の表情を見る。

「このまま逃げちゃいけないと思ったんだ」

 正面を向いたまま、航平は少し、遠い目をしていた。
 悠人にはその表情の奥にあるものが読めない。

「逃げ…だったんだ…?」
「ああ、逃げだったよ」

 しばらくの間、揺らすだけだったグラスの中身を、少しだけ喉に流し込む。

「でも俺、自分の選択は正しかったと思ってる」

 グラスをコースターの上にそっと乗せ、航平はほんの少し、悠人の方へ身体を向けた。

「今日っていう日が、巡ってきたから」






10年前〜早春

「ごめん…ごめんね、航平。忘れてっ」

 背を向けて走り出そうとした少年の腕を、大きな手ががっちりと掴んだ。

「待てって…っ、悠人っ」

 掴んだ腕を、そのまま広い胸に引き寄せる。

「何で忘れなきゃいけないんだ…」

 うっとりと呟いて、一際体格のいい青年は、華奢な少年を抱きしめる。


 どちらも18歳。それでも、見た目にはいくつかの年の開きがあるように見える二人は、高校3年間を『親友』として過ごしてきた。

 あと1ヶ月で卒業。

 航平は大学の建築科へ、悠人は美大への進学が決まっていた。

 これから二人が歩む道は別々…。
 その思いが、悠人を突き動かした。

『航平が…好き…』

 人気のなくなった、まだ肌寒い教室で、悠人は小さく呟いた。

 3年間ずっと思い続けてきた。
 それでも悠人は、毎日を航平の傍で過ごせることだけで満たされていた。

 けれども別れの時が近づくにつれ、悠人の胸を不安と悲しみが塞ぎ、自身で『決して言ってはならない』と戒めていた一言を漏らしてしまったのだ。

 驚いて目を見開く航平を目の当たりにして、悠人は目の前が暗くなるのをしっかりと感じていた。
 失うことを怖れたあまりに、失わなくてもよいものまで失ってしまったのだと思いこんだ。

 そして気づいたときにはもう走り出そうとしていた。
 一刻も早く、航平の目の届かないところに行きたいと願い…。

 しかし、次の瞬間には、その身体は航平の腕の中に捕らわれていた。


『悠人…好きだよ…』


 航平はしっかりと悠人の温もりを感じながら、ありったけの思いを込めて囁き返した。

 最初から悠人をそう言う目で見てきた訳ではない。
 ただ、気がついたら、悠人のいない自分が考えられなくなっていた。

 3年の月日をかけて、ゆっくりと築いてきた想い。
 その想いが『恋』という種類である事を気づかせるのに、悠人の小さな呟きは十分だった。

 自分の胸の中でくすぶり続けていたものの正体をやっと確かめ、航平は心底満足そうに吐息をついた。
 そしてもう一度耳元で囁く。


『悠人が…好きだ』


 囁きの最後にゆっくりと暖かいものが降りてくる。
 悠人の柔らかい唇に、航平の唇がふわりと重なる。
 慈しむように、大切に大切に重ねる。
 悠人の頬を、一筋暖かいものが伝わり、航平はそれを唇でそっと拭った。



 そして、あの日はやって来た。
 あとは卒業式を残すのみとなった、3月上旬の日曜日。


『今夜は一人で留守番なんだ』

 そう言った航平は、悠人を自宅に誘った。
 泊まりにおいで…と。



後編に続く