3年間、何度も訪れた航平の家、航平の部屋。

 しかし、そこにいたのは『待っている』と言った航平ではなかった。
 3歳上の航平の兄、亮平だけがいたのだ。

「悠人…悪いけど、今日航平は帰ってこない」

 さも嬉しそうに告げる亮平は、明らかに今までの穏やかな『親友の兄』ではなかった。 

 活動的な弟・航平とは好対照の兄・亮平は、遊びに来る悠人をいつも優しく迎えてくれた。
 悠人を弟と同じように可愛がり、一人っ子の悠人も亮平を兄のように慕っていた。

 優しい亮平さん…。
 その姿はどこにいったのか。

 目の前の男は、まるで舌なめずりをせんばかりに、悠人の全身を、視線で舐めあげる。

「でもっ、航平が今日は一人だからって……!」

 視線一つで壁際まで追いやられた悠人は、さらに退路を求めて視線を彷徨わせる。
 しかし、一瞬でも亮平から目を離すと、この身が食いちぎられてしまいそうな気がした。

「航平はでかけたよ」
「…どう、して」
「あいつ、兄貴思いだからね。俺の悠人に対する気持ちを聞いて、快く譲ってくれたってわけだ」

(譲る…?譲るって、なに…を)

 状況を掴みきれないでいる悠人に、亮平はさも親切そうに言い聞かせた。

「悠人を俺にくれるって」


 …この人は今、何を言ったのだろう。
 

「航平が…?」
「そう、航平が俺に、悠人を譲ってくれるって言ったんだ」

 お気に入りのおもちゃを手に入れたようにはしゃいでみせる亮平。

「嘘だっ、航平がそんなこと言うはずがないっ」
「ならどうして航平はここにいない?」

 悠人のあがきなど、どこを吹く風。
 今ある事実を突きつけて、亮平は余裕の笑みを見せつける。

「好きなんだ…悠人のことが…。航平なんかにはもったいないよ…可愛い悠人は」

 うっとりと夢見るように呟く亮平の声に、悠人の視界を絶望が覆う。

 今までそんな目で見られていたとは、まったく気がつかなかった。
 やがて微笑んでいたはずの亮平の瞳に、陰湿な影が落ちる。

 鈍く澱んだ瞳。
 深く暗い欲望。

「ずっと、ずっと好きだった……」

 欲望に裏打ちされた告白が、どれほどの意味を持つと言うのか。

「亮平さん…お願いだから……」

 悠人の震える声も、もはや亮平の耳には子守歌にしか聞こえない。

 そして、悠人がどれほど懇願しようが、制止の言葉を叫ぼうが、その暴力は当然の権利を主張するかのように、悠人の身の上に降りかかって来た。

「やめ…!!離……せっ」

 抵抗の限りを尽くしてなお、その身体は無惨に引き裂かれていく。

「助けてっ、航平!」

 そう叫んだ刹那、鋭い音と共に悠人の頬一面に痛みが走った。

「航平の名前なんて呼ぶな。どんなに叫んだってあいつは帰ってこない」
「な……」

 亮平は片手で悠人の顎を掴むと、怯える悠人の耳元に言い聞かせるように囁いた。

「悠人を頼む…ってさ」

 その言葉は悠人の身体から抵抗する力を奪った。

(航平が、僕を、捨てた…)

 身体の力を抜いた悠人を、亮平は満足そうに眺める。

「いい子だね、悠人」

 亮平の掌に力がこもった。






 ……ずっと、航平の名を呼んでいたような気がする。

 暗いトンネルの中に、ふと光が射し込む。
 視界に入るのは、面立ちは似ているが、呼び続けた人とは別の男。

 どうしてこれが、航平ではなかったのか…。
 何度願っても、航平はいない。
 航平は自分を捨てて行ったのだという…。
 
「悠人……」
 呼びかけられる名も、似て非なる声…。
 
「…俺のものだ…」
 抱きしめられてそう囁かれたとき、悠人は初めて亮平の顔を見た。

「平気でお前を捨てるようなヤツのことは忘れろ。…悠人はもう、俺のものだ…。俺がずっと傍にいて幸せにしてやるからな」

 航平は自分を捨てたのだという。
 もし、それが本当だとしたら、自分は亮平のものになるのか。

「ど、して…?どうして僕が、亮平さんのものにならなくちゃいけないの…」

 力無く呟いた悠人に、亮平の瞳が険を含んでいく。

 たとえ、航平が自分を捨てたのだとしても、自分が好きだったのは……。 

「僕が好きなのは、航平だっ」

 たった一つしかない真実を叫んで、悠人はもう一度暴れた。

「航平しかいない!航平じゃなきゃダメなんだ!」

 しかし、暴れるその身体も、痛めつけられた後ではたいした抵抗もできない。
 悠人は再び易々と亮平に押さえつけられ、そして、悪魔は平然と囁く。

「航平はもう、お前のことなんか何とも思っちゃいないよ」
 

 やがて悠人は一切の抵抗をやめ、解放されるまでの数時間を、ただ、絶望の中で人形のように抜け殻同然の身体を横たえていた。

 それが自分の心を守る唯一の方法だったから。
 そしてその心は今、瓶の底に沈む澱のようにゆらゆらと行き場をなくして漂っている。

「悠人…もう、後戻りは出来ないよ。君は、最後には自分の意志で身体を投げ出したんだからね」

 うつろな瞳を向ける悠人に、亮平は幸せそうに宣言した。

「ああ…。やっと手に入れた…」

 柔らかく唇が合わせられ、そしてその口は最後に呟いたのだ。


「航平…悔しがるだろうね…」

 ………と。






 送っていくという亮平を振りきって、ズタズタにされた身体を引きずりながら悠人が自宅へ戻ったとき、航平から電話が入った。

『悠人?昨日から何度も電話してるのに、誰も出ないから心配してたんだぞ。どこ行ってたんだよ』 

 その口調に、悠人は確信する。
 航平は平気で嘘などつける人間ではないのだ。
 やはり航平は、何も、知らない…。

『悠人?どうした?具合でも悪いのか?』
「航平は何処へ行ってたの?」

 口をついて出た言葉は、酷く冷たく尖っていた。

『あ、俺?悠人が都合悪くなって、もう来ないって兄貴に聞いたから、兄貴の代わりに…』
「わかった。もういい」
『悠人……』

 航平も悠人の声色の変化に気がついたようだった。

『具合が悪いんなら、俺今からそっち行くよ』
「大丈夫。もうすぐ母さん帰ってくるから。気にしないで」

 今まで聞いたこともない、突き放した物言いの悠人に、航平が慌て始める。

『悠人!どうしたんだよ、怒ってるのか?』
「ごめん、ちょっと忙しいから切るね。明後日、卒業式で会おう」

 一方的にそう言い置いて、乱暴に受話器を置いた。
 数秒も経たずに再び呼び出し音が鳴る。
 悠人はその場に力無く崩れ落ちた。

 自分はなぜ、航平を信じなかったのだろうか…。
 航平があんな事をするはずがないのに。 





 しばらくの後、悠人は泣き濡れた顔を上げた。

 許せないのは自分。
 亮平でも、まして航平でもなく。

 そう、自分こそが、航平を裏切ったのだ。
 信じていたのなら、最後の最後まで、抵抗できたはずだったのだのに…自分は抵抗を…やめてしまった……。



 電話は何度も繰り返し鳴った後、沈黙した。

 きっと航平はやって来るだろう。

 悠人は手近な荷物をさっとまとめ、そのまま家を後にした。
 向かうのは、両親が共同経営しているデザイン事務所。
 熱心にアメリカ留学を勧めていた両親を振りきって、美大への進学を決めたのは自分だった。

 アメリカへ行きたいと言うと、きっと両親は手放しで喜んでくれるだろう。

 そして、悠人が家に帰ることは、もう、なかった。






 花曇りの卒業式。

 航平はいたたまれない思いで教室にいた。
 まだ誰も来ていない時間だったが、家にいる気になどならなかったのだ。

 あの日、電話の後で悠人の家へ行った。
 何時間も待ったが誰も帰ってこなかった。
 次の日も…。何時間も…。

(悠人、早く来い…っ)

 3階の教室の窓から、正門をジッと見つめる。
 ただ一人の人を待って。
 しかし、悠人の姿がその門をくぐることはなかった。
 
 担任から告げられた言葉を、航平は一生忘れることがないだろう。

『突然なんだが、垣内は昨夜の便で日本を発った。アメリカへ留学したよ』

 人気者だった悠人が、何も言わずに行ってしまったことは教室中を混乱に陥れたが、特に航平のうろたえ方は常軌を逸していた。

 襟首を掴んで詰め寄る航平に、担任は意外な顔をして見せた。

『なんだ、お前一番仲良しだったくせに何も聞いてないのか?』
 
 そしてその日の午後、卒業証書を受け取りに来た悠人の母親は、にこやかに航平に言った。

『落ち着いたら連絡しますからって言ってるの。ごめんなさいね、何の連絡もなしに』
 

 取り乱す航平を、何人もの級友が心配して自宅へ連れて帰った。

 そこには…、さらに取り乱す航平の両親の姿があった。





今日〜夜

「兄貴…死んだよ」

 ふと、こともなげに航平が告げた。

「知ってた?」

 訊ねるが、大きく見開かれた目を見れば、答えは聞かなくてもわかる。

 悠人に向けた視線を正面に戻し、航平は、ゆっくりと語り出す。

「お前がアメリカへいっちまった次の日。俺たちの卒業式の日だ。バイクに乗っててカーブを曲がり切れずにさ、そのまま…。即死だったよ」

 今初めて聞く事実に、悠人の目は驚愕に見開かれたままになった。

「知らなかっ…た。じゃ、亮…平さんは、もう10年も前に…」

 10年も前、しかし、忘れようとしても忘れられないあの日から、僅か2日後のことだ。

「ブレーキをかけた跡がなかったんだ」

 抑揚なく付け加えられた言葉に、悠人は息をのんだ。

「自殺で処理された。もちろん、俺は信じなかった。何でも出来て、優しくてかっこいい俺の兄貴が、自分で死を選ぶような理由はどこにもなかったからな」

 悠人の指先が、人知れず震える。
 航平にとっての亮平は、今でも尊敬してやまない存在なのだと思い知る。

 そして、その亮平の死の理由は何だったのか。
 事故だったのか。それとも……。

(まさか…)
 そう思い、慌てて否定する。
 それこそ思い上がりだと。
 あの行為に真実の想いなどあったはずがない。
 自分は騙されただけなのだから。



「でも…自殺だったんだよ」  

 まるで近況報告をするかのような口調で、航平は付け加えた。

「俺んちさ、今度建て直すことになって、10年近くそのままにしてた兄貴の部屋も整理することになったんだ」

 そこで言葉を切った航平。
 悠人はその横顔を盗み見ようとして僅かに顔を向けた。

(え…)

 前を見ていたはずの航平は、こっちを向いて、じっと悠人の瞳を捉えていた。

引き出しの奥から、遺書.が出てきた」

 悠人の心臓が早鐘のように鳴り響く。

「俺は…俺たち兄弟は、お前に取り返しのつかない事をしてしまったんだな」

 そう言ってジャケットの内ポケットから、少し黄色みを帯びた一枚の封筒を取りだした。

「読んでくれないか」



 しかし、それをすんなり受け取れるほど悠人の気持ちは穏やかではなかった。

 航平は、封筒を渡すために悠人の手に触れた。

「悠人…」

 その手が細かく震えていることに気づく。

 そして、その様子に航平は『遺書の内容』が真実であろうと確信をし始めていた。

 悠人の受けた仕打ちは本当だったのだと。

 逡巡の後、悠人は震える手でそっと封筒を開いた。



 優等生らしい几帳面な字が、淡々と綴られている。
 書かれていた内容は、何年も呪い続けてきたあの夜の『事実』。
 騙し、手に入れた悠人の『身体』。
 しかし、心までは手に入れることができなかった『絶望』。
 自分を信頼してくれる弟を裏切った『後悔』。
 そして、行ってしまった悠人に対する『思い』。



 そこに書かれていることは、確かに亮平の真実だったが、それでもまだ封印されたままの事実が残っていた。

 最後に耳元で囁かれたあの言葉。


『航平…悔しがるだろうね…』 


「俺は、兄貴がお前にしたことをまったく知らなかった。兄貴がついた嘘も、何も知らずに…。だから俺はずっと悠人を恨んできた。何も言わずに突然去って行ったお前を、ずっとずっと恨んできた。俺の気持ちは弄ばれたんだと思ってきた」

 航平の瞳には、何も知らずにいた自分に対する、もどかしいまでの怒りの色が漂っている。

「それでも捨てきれない思いに、ずっと苦しんできた。でも……一番苦しんだのはお前だったってこと、やっとわかった。俺に裏切られて、兄貴に乱暴されて……お前がいなくなってしまうのは当然だったんだ……」

 航平は、言葉の終わりにそっと悠人の震える指先を握った。

「ごめん、悠人。俺たちのこと、許せないと思うけど、俺の気持ちは変わらないままなんだ」

 そう言って、もう一度確かめるように力強く握りしめられた指先を、悠人はそっと解いた。

「ゆうと…」

 見つめられて悠人は静かに首を振る。

「違うんだ、航平…。俺が許せないのは自分自身だ。亮平さんの力に屈した俺自身だ」
「仕方ないじゃないか、兄貴は最初からお前を騙すつもりで…」

 航平の言葉を瞳で遮り、悠人は静かに封印を開いた。


「俺…知ってたんだ。騙されたってこと…」
「悠人…?」

 なぜ亮平はその『事実』を遺書に残さなかったのか。
 なぜ『悠人は知っている』と書かなかったのか。

「亮平さんは、最後に俺に言ったよ。『航平…悔しがるだろうね…』って。俺はその時に気がついてた。航平は何も知らないって…」

 周囲の喧騒が嘘のように消え去って、二人が座るカウンターの隅だけが、ぽっかりと離れ小島のように時間に取り残される。
 そしてそこでは、二人が10年の時をたぐり寄せようと、時間の波間を泳いでいた。

「なら…どうしてすぐ俺に言わなかった。兄貴に騙されたって、どうして俺に言ってくれなかったんだっ」

 縋るように航平が言う。
 そうすれば、この10年の苦しみもなかったかもしれないという思いを込めて。

 しかし、悠人は浅く息をついて、首を振った。

「俺はあの時…航平よりも、亮平さんの言葉を信じたんだ…。航平に捨てられたと思った。航平を……信じなかった…。それが…許せなかった……自分自身が許せなかったんだ……だから、逃げた」

 言い終わり、唇を噛みしめた悠人の手を、航平はさらにきつく握りしめた。

「じゃあ、お前が俺から離れたのは、自分自身に対する制裁だったというのか…」

 悠人は僅かに頷いた。


 航平は兄の遺書の最後の部分を思い出した。


『悠人を迎えに行ってくれ。
悠人はお前に裏切られたと思っている。
それでも、最後までお前の名を呼んでいた悠人を、幸せにしてくれ。』


 兄は、縛り付けた悠人の心を、完全に被害者のまま置くことで、解放しようとしたのだ。

 悠人の心が何も背負わなくてすむようにと。
 悠人は何も知らないのだ…と。



「なら………もういいだろう?もう十分だろう?俺も、何も知らずにいたっていうことに対する罰を受けてきた。10年も苦しんだ。もう、やめよう」
「こうへい…」

 見開いた悠人の目に映るのは、あの頃の瞳をした航平。
 優しい微笑みで包んでくれていた頃と何も変わらない真っ直ぐな瞳。
 そして、航平の目に入るのは、真っ直ぐに航平を見つめていた頃の、悠人の瞳。

「思い合ったまま、10年も別れて苦しんだんだ。もう、許されていいと思う。お前も、俺も」

 航平の掌が、そっと悠人の頬に触れた。
 暖かい掌は、悠人の心を溶かしていくように、頬を包む。

「悠人…うん、って言ってくれないか」

 その時の悠人に、何を逡巡することがあっただろうか。

 ただ、航平の眼差しに包まれて、ゆったりと漂う優しい気持ちがあるだけで。
 悠人はゆっくりと頷いた。
 自分自身に確かめるように。

 その時、薄暗い隅っこにひっそりと立っていた柱時計が、時を告げた。

 日付が変わる。

 柱時計の低いチャイムが、しばしその余韻を響かせる中で、航平は噛みしめるように言った。

「俺、今日っていう日に賭けたんだ。どうしても今日、10年前に見失ったものを取り戻してみせるって」

 航平は少し不安げに、それでも優しい笑顔を向けてきた。

「もう、お前に許してもらえないかもしれないって思ってた。でも……」
「俺も…許してもらえないと思ってた…」

 悠人がそう言った時、航平はその広い胸に、悠人を抱き込んだ。

「取り戻した……やっと……」

 周囲の喧騒が徐々に二人の耳に戻ってくる。

「明日から…ううん、今日からやり直すんだ?俺たち…」
「いや、違うな。やり直すんじゃない。あの日に帰るだけだ」

 航平は、胸に抱き込んだ悠人の背中をあやすように撫でる。

「帰る…?」

 悠人が僅かに顔を上げ、航平の表情を伺った。
 航平は、その額をそっと悠人のそれに合わせる。

「そうだ、あの日に戻って、続きを二人で作っていくんだ」
「航平…」
「止まったままの時間を取り戻そう…。な、悠人」 

 吐息が、近くなる…。
 
 こんなに穏やかな時の流れがあったなんて…。

 悠人は、今しがた過ぎ去っていった『今日』という時の余韻に身を置いていた。

『昨日』になってしまった10年間が無駄だったとは思わないでおきたい。

 航平も自分も、それぞれの道で生きてきた。
 一人の人間として、自分の道を築いてきたのだから。

 そしてこれからは、その道を二人で歩いていける…? 

 そんな二人を、たくさんの優しい瞳が見守っていたことに、悠人はまだ、気がつかないでいた。



今日という日が終わるまでに 
END

2001.1.22 UP


22222をGETしてくださいました、氷川雪乃さまのリクエストです。
『昔の恋人と、同窓会で再会したら…』
なんてロマンチック〜…と思ったのもつかの間…。
見事玉砕です(^^ゞ すみません(汗)
あ、そのあたりに亮平兄さんの『遺書』が落ちているかもしれません。
運悪く見つけてしまわれた方、ごめんなさい(笑)
見つけられなくても、続編で内容が明らかになりますので、
お話の進行には影響ありません。そのまま続編へどうぞv

続編『昨日の君も愛しくて』へ

短編集目次書庫入口

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