第6幕への間奏曲「薔薇園の3悪人」





 暑いこの季節、薔薇園に花はなく、濃い緑が時折吹く風に揺れている。

「悟のヤツ、いつ頃出かけて行った?」
「んー? 朝早かったよ。昼過ぎには京都につくんじゃないの」

 少し遅めの朝食が済んだ桐生家のダイニング。
 モデル張りの男前とフランス人形が、テーブルでコーヒーカップを弄んでいる。

「いいよなぁ、幸せなヤツは…」

 守はボーッと天井を見上げて、大げさにため息をつく。

「守、麻生はどうしたんだよ」

 昇はハンサム台無しの惚けた顔をさらす守に、意地悪く聞いてみた。
 思うようにいっていないのは見ていればわかる。



 1年生で管弦楽部のヴァイオリン奏者、中等部の頃は学院内のトップアイドルの一人だった麻生隆也が、夜の練習室で葵の出生の秘密をぶちまけて泣きながら走り去った後、気になって様子を見に行ったときから守はおかしくなった。

 聖陵ナンバー1のプレイボーイが、たった一人に執着を見せるようになり始めたのだ。

 守のぼやきの断片を組み合わせてみると、『ただ可愛いだけの子だと思っていた隆也が、あんなにも情熱的で一途だったことにグッときた』らしいのだが…。

 その後、守はいろいろな下級生の間を渡り歩かなくなり、気がつけば隆也の側にいて、隆也の失恋の傷が癒えるように、なにくれとなく世話を焼いていたのだ。

 なのに…立ち直った隆也は、あろう事か、憎悪の対象だった葵に心を寄せ始めたのだった。

「オレ、結構自信あったんだけどなぁ…」

 惚けたままで呟く守をチラッと見て、昇はさらに意地悪く囁いた。

「今まで不誠実に遊んできたツケが回ってきたんじゃないの」
「隆也と葵かぁ…。無理だよなぁ…。どっちが攻めるっていうんだよなぁぁ…。」
「……」

 真剣に悩んでいるとは思えない。


『ガタッ!』

 いきなり守が立ち上がった。

「な、なんだよ、いきなりっ」

 危うくカップを落とすところだった。

「昇、お前こそ、ここのところおかしいんじゃないか。葵、葵って。あの子は悟のもんだぞ」

「……言われなくてもわかってる」

 低い声で、不機嫌そうに答える昇に、守は肩を竦めた。

「光安先生とはどうなってんだよ」

 ついでのように付け加えられた言葉に、あからさまに昇がムッとなる。

「別に…どうも…」

 夏休みに入って約2週間。こちらから電話でもしない限り、光安直人と話すことはない。

 保護者と被保護者…という関係から、どうにか今のような関係になって約1年。ずっとそうだった。向こうから触れてくることはないのだ。
 いつも、自分一人の気持ちしかそこに存在しないような気がする。

 遊ばれているとは思わないが、それよりももっと…場合によってはたちの悪い、絶対に越えさせてもらえない溝のようなものを、彼、光安直人は昇との間に持っている。

 もう疲れた。越えられない溝の前で一人泣くのはもう嫌なのだ。
 直人を想えば想うほど、愛されないこの身が厭わしく、そんな自分に嫌気がさし…。

 昇は出られないループの中に、その足を踏み入れていた。
 あとは、出口を求めてもがくばかり…。





 晴れた朝、花のない薔薇園から小鳥の鳴き声が零れてくる。
 朝の風はまだ熱を持たず、爽やかに吹き抜けていくというのに、二人をくるむ空気だけは、重く、澱んでいる。


「葵と…悟って…もう…」 

 誰に言うでもない、つぶやきのような言葉だった。

 蒼い瞳がくすんだ光を宿す。
 その思い詰めた様子に、守が思わず息を詰めた。

 ビスクドールのような肌は今も変わらずに美しいが、『お人形』と表現するには、最近の昇はふさわしくなくなりつつあった。

 それは少年期を抜けて、大人へと羽化していく様を見せつけているようで、『ちょっと惜しいかな』と守に思わせるような変化でもある。

 (けど、こいつ…マジでやばいかも…)

 自分の恋患いよりも、もっともっと根深くて陰湿そうな昇の様子に、守はそれっきり、かける言葉を無くしてしまった。



                   ☆ .。.:*・゜


 悟が京都へ行ってから4日後の朝。
 目は覚めていたが、起きる気にならない昇の部屋で電話が鳴った。内線だった。

「はい〜?」
『昇様、おはようございます。悟様からお電話ですよ』

 朝っぱらから元気で爽やかな声は、桐生家に勤めて10年、ベテラン家政婦の佳代子のものだ。

「ん。ありがとー。……よ〜、悟? ん、おはよ〜。……今夜?! 何時?! …うん、うん、…わかった!」

 受話器を置くなりベッドを飛び出し、隣の守の部屋へ駆け込む。

「守っ! 今夜、葵が帰って来るよっ」
「…ふぁ…?」

 守はまだ寝ぼけている。 

「ああ、そうだ! 今夜はパーティーだ! 用意頼んでおかなくちゃ!」

 昇は一人で騒いで、一人で完結して、出ていった。 
 


                   ☆ .。.:*・゜



「さ、入って」
「…お邪魔、します…」

 桐生家の玄関ポーチ。
 葵は落ち着かない様子で辺りをキョロキョロ見回している。
 玄関だけでも自分の京都の家くらいありそうだ。

「…どうしたの?」
「や…別に」

 あまりの広さ、見たこともない豪奢な洋館。
 自分が生きてきた世界とのあまりの違いに、葵は少し戸惑っていた。

(ほんとにこんなところに住んでる人がいるんだなぁ)
 しかも、それが自分の恋人ときている。

(うっわー、シャンデリアやぁぁ…。う〜ん、まるで円○公園の長○館みたいやなぁ。映画のロケとかできそうやん)

 なんていうローカルな話題を、それにふさわしいお国言葉で思いめぐらせていると、悟がそっと肩を抱き寄せてきた。

「実は僕らも、ここにはあまり慣れてないんだ」

 葵の戸惑いを察したのか、少し照れくさそうにいう。

「え? どうして?」

 ここは自宅のはずだ。

「ここに引っ越してきたのは小学校6年になる時で、中1から僕らは寮に入ったからね。実際にここで過ごした時間は短いんだ」

「そうなんだ…」

 葵はまた、広い玄関を一通り見渡す。

 …と、いきなり正面の大きな扉が開いた。

「葵っ! お帰りっ!」

 駈けてきたのは、さらに背が伸びた様子のフランス人形。

「昇先輩…」

 にこっと微笑もうと思ったのに、その前にいきなり抱きしめられていた。
 知らない間についてしまった身長差に、葵がちょっとムッとした顔をして見せる。

「…昇…」

 氷点下の声で名を呼んだのは悟。

「あ、いたの、悟」

 そのリアクションに、悟がしばし呆然となる。

「葵、いらっしゃい。疲れたろ」

 守がやってきた。

「こんばんは。しばらくお世話になります」

 今度こそ、にこっと微笑もうと思ったのに、その前に昇に引きずられて、身体はリビングへ向かっていた。


「昇のやつ、どうしたんだ?」

 ヒソヒソと悟が守に耳打ちをした。

「…悟。マジ、気をつけた方がいいぞ」

 負けないほどヒソヒソと耳元で言う。

「どういうこと?」
「葵から目を離すなよ」

 悟の目が見開かれた。

「どういうことだよっ」

 声が荒くなる。

「昇のヤツ、葵しか見えてない」

 悟が息を呑んだ。

「まさか…」
「オレとしては、原因は光安直人にあり、と見たね」

 腕組みして口をへの字に曲げてみせる。

「光安…先生が?」
「うまくいってないんじゃねーの。昇だっていつまでも愛らしいばかりのお人形さんじゃいられないってよ」

 おどけた口調とは裏腹の、引き締めた表情。
 悟も最近の昇の不安定な様子は気になっていた。

 同い年の3兄弟の中でも一番お子さまだった昇に、肉体的にも精神的にも変化が訪れているのであろうことは、そこを通過してきた者にはよくわかる。


「ハッ、うまくいかないねぇ。オレの思い人も葵にぞっこんだし」

 ふいに繰り出された容赦のないパンチに、悟は瞬きを忘れていた。

「誰のことだ」
「隆也だよ、あ、そ、う、た、か、や」

 麻生隆也と聞かされて、悟はやっと瞬きをする。

「それは…ちょっと違うんじゃないか」
「ならいいんだけどね。…ま、この件に関してはオレと悟の利害は一致してる。だが、昇は…」
「わかった。気をつける」

 強引に守の言葉を遮って、悟はリビングへと足を向けた。

 たとえ理由がどうであれ、相手が誰であれ、葵を傷つけることは許さない。絶対に。




 その夜、家政婦の佳代子が用意してくれた心づくしの歓迎を受けて、葵は楽しそうにしていたが、夜も更けると、さすがにその表情に疲労の色が見え始めた。

 葵は昨夜から明け方近くまで悟につき合わされた上に、今日は5時間もかけて移動している。

 本当ならば今日一日、京都でゆっくりすれば良かったのだが、早く『連れて帰りたい』と言う思いが先に立ってしまい、無理を承知で帰ってきた。

 だから、今日は早く休ませてやりたい。
 そう思ったのだが、昇はまだ、葵を離そうとしない。

 やむを得ず悟は、昇がほんの少し席を外した隙に、守に目配せして葵を連れだした。
 廊下へ出るなり、悟は葵を抱き上げる。

「さ、悟っ」

 葵は頬を染めてもがいた。

「じっとして。…疲れただろう」

 そのまま階段をゆっくり上がる。

「昨夜のこともあるからね。…体、大丈夫? もう痛くない?」

 吐息のような悟の囁きに、葵は耳までピンクに染めて頷いた。

「…うん。大丈夫…」

 そう言って、細い腕を悟の首に回した。





 階段下の影に、昇の姿があることに二人は気づかなかった。
 ギリッと唇を噛む昇に、背後から声がかかる。

「へぇ…昨夜が初夜だったみたいだな」

 守は焦っていた。
 事実を突きつけることで、現実に目を向けてくれたら。
 そう願って吐いた言葉だったのだが…。

 振り返った昇の瞳を見て、守は自分の犯したミスの大きさに思わず体を震わせた。




 葵に用意された部屋は、二階の南東の角。
 一番広いゲストルームだった。

「この部屋のもの、何でも自由に使っていいからね。シャワーはこっち。クローゼットはここ。葵のサイズの服、いろいろ入ってるから」

 ベッドに降ろされても、あまりの広さに相変わらずキョロキョロしていた葵は、服のことを聞いて目を丸くした。

「え? 僕の服?」
「そうだよ」
「そ、そんな」
「葵に似合いそうなのを選んでおいたんだ。楽しかったよ、いろいろ揃えるのは」

 そう言って悟はクローゼットを開けた。
 だが。

「……」

 いきなり黙った悟に、葵はベッドから降り、不審そうに近づいた。

「どうしたの?」
「葵、ここから右側の服だけ使ってくれないか」

 固い声だった。

「…うん、…あ、でも、僕、ちゃんと着替えも持ってきてるから」

 その言葉に、悟はグッと葵を抱き寄せる。

「そうじゃなくて…。こっち側の服は無視してくれってこと」
「は?」

 葵は『訳がわからん』と言う顔をして悟を見上げていた。

(昇のヤツ…)

 左側に入れられていた、悟の覚えにない服は、明らかに昇の好みの服だった。

「悟?」

 葵が悟のシャツを掴んで不安そうに見上げていた。

「葵、シャワー浴びよう」

 今夜は静かに寝かせてあげようと思っていたことなど、もう悟の頭には微塵もなかった。
 




「え、やっ、ちょっとっ、うそっ」

 バスルームで次々とボタンがはずされていく。
 葵は焦って身をよじって逃げようとする。

「どうして?」

 悟は腑に落ちないと言う顔で葵を見る。

「だって…。こんな、明るいところで…」

 確かにバスルームは明るかった。
 昨夜は照明を落とした薄暗い部屋、しかも柔らかいシーツの中だったから…。

 クスッと悟が笑った。

「心配いらないって。昨夜も一緒に入ってるから」
「へ?」

 葵が目をまん丸にする。

「ちゃんと全身綺麗に洗ってから寝かせたよ」
「う…そ…」

 全く覚えがなかった。

「だからね、はい、素直に脱いで」
「うわぁっ」
「…そんな、色気のない声出さないの」



 シャワーの水音が消えてしばらくの後、小さなステンドグラスの灯りだけが頼りのベッドルームに、呟くように名を呼ぶ声だけが浮かんでは消える。

「あおい…」

 悟の声が少し上擦っている。

「ちょ…と、ま…っ…て」
「いやだ」
「…こ、われ…る…っ」
「いいよ、壊れて」

 悟は昨夜、持てる限りの精神力で、己を『抑制』しようとした。
 けれど、最後はどうにもならなかった。

 見えないところにも深い傷を負う葵を、性急に求めることなど出来はしない。 
 なのに最後はそれを忘れてしまった。

 そして今夜は、葵をベッドに沈めた時からもう、『抑制』や『理性』などと呼ばれる綺麗な鎧は纏えなくなっている。

 心が体を止められない。
 葵の従順さにつけ込んでしまう。
 ありったけの思いを込めて抱いた後は、その行為が葵の心を癒すものになるようにと願うばかりで…。





 大きな羽根枕に顔を埋めて眠る葵。
 その背中にくっきりと残る凶行の痕に、悟はゆっくりと口づける。

 それはまるで、羽をもがれた痕のように見えた。
 そして、この羽をもいだ人間は、この世のどこかにいる。
 その手から、葵を守らなければならない。
 そして、葵が高く飛び立つための羽を必ず自分が取り戻してみせる。

 だから、もっと早く、大人になりたい。
 自分一人の力で、葵を守れるほどに大人になりたい。
 葵を守ってきたあの人のように、強い大人になりたい…!


 募るばかりの焦りに、悟は葵の背に頬を寄せ、一つため息をつく。

 そして、この天使が羽を取り戻したとき、自分はどうするのだろうか。

 ふと、悟の中で、澱のように溜まったものが揺らいだ。
 …もしかしたら、飛ばせまいとして、この腕から離さないのでは…。

 それでは羽をもいだ人間と変わらない…。

 愛おしいと思う気持ちと同じだけ、いや、それ以上に募っていく自分の中の醜い思い。

 自分一人だけのものに…してしまいたい…と。





 広い屋敷に深夜の静寂が横たわる。
 扉の外。暗い廊下にうずくまる、人の、影。

(悟…出てこない)

 廊下の絨毯にいくつもの雫が落ちた。

(苦しいよ…葵…助けて…)



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 翌朝、演奏旅行から帰国するはずだった桐生香奈子が、飛行機の都合で一日予定がずれると言う連絡を受けたのは昇だった。

(今日しかない)

 暗い決意を秘めて、昇は葵の部屋へ向かう。

 
 葵はベランダから庭を眺めていた。
 悟から、6月は薔薇が満開だと聞かされていた庭だ。

 葵にとって、『庭』と言えば、『枯山水』。
 苔、笹、竹、椿、獅子脅し…という連想しかできない葵の目には、目の前の庭園はまるで、外国旅行に来たような錯覚を起こさせるものだ。

 さっきまで一緒に眠っていた悟は、葵の部屋でシャワーを浴びてから、着替えに隣の自室へ戻っている。

(う〜ん、いい天気)

 京都のような蒸し暑さがない。
 葵は大きく伸びをして、朝の空気を体いっぱいに吸い込んだ。
 昨夜の疲れもそれほどは残っていない。


『カチャ』

 無機質な金属音が背後でした。
 振り返るとそこにはいつも優しい先輩の姿があった。

「昇先輩、おはようございます」

 葵は可愛らしい笑顔を向ける。

 それが昇を更に追いつめるとも知らずに。

「おはよう、葵。昨夜はよく眠れた?」

 昇はいつものように優雅な笑顔を向けて、近づいてくる。

 『昨夜』と言われて葵の頬がうっすらと染まった。

「………っ!」

 見せつけられた表情に、あっけなく昇の理性は限界を超えた。

 音もなく床に組み伏せられ、葵は状況を把握できない状態に陥いる。

(なに? …何でっ…?) 

 乱暴にシャツがはだけられ、ボタンが飛び散る。

 ついさっき、悟が『今日はこれがいい』と言って選んでくれたばかりの水色のギンガムのシャツ。

 叫ぼうとした唇が、唇で覆われ、激しく抵抗する腕が絨毯に縫い止められる。
 全身でのしかかられ、下半身の自由も完全に奪われていた。



 出会った4月には、昇の方が葵よりも華奢に見えた。

 なのに、今、自分を押さえつけている昇が圧倒的に体力で優位に立っているという事実に、葵の恐怖が煽られた。

 息が上がり始める。


 その時、ノブを回す音がした。
 しかし、扉が開くことはない。
 ノブは何度も回される。

「葵っ?」

 悟の声だ。
 昇は葵の唇から離れると同時に、その手で葵の口を覆う。

「大丈夫。鍵がかけてあるから」

 昇はゆるりと笑った。





「葵っ?」
 悟の尖った声を聞きつけて、守が部屋から出てきた。

「どうした、悟」
「鍵がかかっていて、返事がない」
「喧嘩でもしたの?」
「まさかっ!」

 尋常でない悟の様子に、守は瞬間顔色を変えて昇の部屋へ向かった。

 扉を大きく開け放つ。
 しかし、そこに主の姿はない。

(まさか…)

 その時、鍵のかかった部屋からわずかに悲鳴のようなものが聞こえ…。

 顔を見合わせる二人。
 悟は自分の部屋へ向かって走り出した。

「悟! どこへ!」
「ベランダから入る!」
「ばかっ、よせっ、飛べる距離じゃないっ」





「うあ…っ!」

 首筋に歯を立てられ、葵は大きくのけぞった。

「葵、僕のものになって…!」

 抵抗を封じられるたびに、葵の中で暗い恐怖の影が見え隠れする。
 はだけられ、腕に絡まっていたシャツを、昇が引き剥がす。
 細い悲鳴が短く上がり、はずみで葵の体がうつ伏せになり…。

「…………!?」

 昇の動きが、止まった。

 緩んだ拘束に、葵はありったけの力で自身の体を引き抜く。 

 そして、シャツをひっ掴み、その瞳は昇を捉えたまま、全身を固くして床の上を後ずさる。
 背中がベッドに突き当たった。

 もう、後がない。

「あおい…その傷…は…」

 昇が呆然と問いかけると、葵がクッと唇を噛みしめた。

「まさか…折檻…?」

 新しい傷ではないのは見ればわかる。
 何も答えず、葵が更に身を固く、自分自身を抱きしめるように小さくなる。




『お、ばあさま…やめ…てくださ…いっ』
『何度言えばわかるのっ! お前なんかにおばあさまと呼ばれる覚えなどないっ』 
『ごめんなさいっ』
『どうしてお前なんかが生まれて来たのよっ!』




「あ…っ」

 昇の蒼い瞳が濡れる。
 水底のように揺れる。

「…叩かないで…」

 何かに引き戻されてしまったような昇と、その瞳からこぼれ落ちるものを見て、葵は悟から聞いていた昇と守の過去を、そして自分自身の過去を思い起こした。

「昇…せ、んぱい…」

 葵はおずおずと手を伸ばす。
 そっと触れると、昇の体は激しい動揺を示した。

「うわぁぁぁぁ……」

 そして、そのまま葵にしがみつき…号泣した。

「あおいっ、あおいっ、許して…っ」

 絞り出すように吐き出される謝罪の言葉に、葵はギュッと目を閉じ、昇を抱きしめた。





「悟! やめろっ、危ないっ!」
「うるさいっ!! 離せ!」

 ベランダの方から聞こえる怒声に、葵はハッと顔を上げた。

「葵っ」
 振り返った葵の眼に、ベランダに立つ悟が映る。
「悟…」

 しかし悟の目に入ったのは、怯える葵ではなかった。

 それどころか、昇をしっかりと抱きしめる葵。
 その背中にははっきりとあの傷跡。

 悟はゆっくりと二人に近づき、そっと跪く。
 怒りに震えた心臓は、徐々にその鼓動を落ち着けていたが、代わりに何か、ざわざわしたものが、悟の足元からはい上がってくる。

 葵の傷が、昇にまで晒されてしまったからだろうか。

「葵、大丈夫か?」

 自分のシャツを脱ぎ、背中を隠すようにフワッと乗せる。
 葵は悟を見上げ、無言で頷く。

「昇…」

 静かにかけられた声に、昇がわずかに顔を上げたが、それでも葵にしがみついたまま、顔を見せようとはしない。

 やがて、聞き取れないほど小さな声が聞こえた。

「ごめん、葵…。ごめん、悟…」

 悟は葵と昇の両方を、大きく広げたその手で、抱きしめた。


「僕は…他人から受ける暴力の恐ろしさを知っていたはずなのに…。それなのに…葵を…傷つけてしまった…」

 呟かれる昇の言葉が、悟の胸を刺す。

 その動揺を感じ取ったのか、葵が悟を見つめた。柔らかく微笑んで、小さく唇を動かす。

『だいじょうぶ』と。

 そしてその唇を昇の耳元へ持っていった。

「昇先輩…。先輩は僕のこと、嫌いなの?」

 昇が弾かれるように顔を上げる。

「違うっ」
「…僕のこと、好きになってくれたの?」

 たおやかな微笑みだった。

「僕は…苦しくて…葵を見ていると…苦しくて」
 それでも、もう抱きしめられない…と微かに聞こえた。

「抱きしめて…」

 葵が小さく答えた。

 悟が驚愕していたが、葵の眼には入っていない。

「…あおい…」

 昇もまた大きく目を見開いた。
 しかし、かまわず葵は昇をもう一度抱きしめた。

 昇がどこまで本気なのかはわからない。
 もしかしたら、何かの気の迷いかもしれないと、葵は何となく感じていた。
 それでも今は、言わなければならない。

「心配しないで。僕は傷つかない…。僕も、昇先輩のこと、好きだから。大切な、大切な先輩だから。それは、これからもずっと変わらないから」

 それは昇の気持ちをそのままには受け入れられないと言う、はっきりとした、残酷なまでの拒絶の言葉だった。

 それでも、今の昇にとっては神々しいまでの赦しの言葉に聞こえる。

「…僕を、赦してくれるの…?」

 答える替わりに、微笑んだ。

 昇は安堵のあまりに、涙で歪んだ顔を悟に向けた。
 悟もまた、微笑んだ。

「ありがとう、葵…。ありがとう、悟…」

 再び溢れた涙は、葵の肩にかけられた、悟のシャツに吸い取られていった。

 そして葵は、昇の肩に顔を埋め、唇を噛んでいた。
 自分自身を、激しくなじりながら。

(祐介の時と…同じだ。僕は…自分が傷つけられたように見せかけて…もっと酷く人を傷つけてしまう…)

 しかし、その毅然とした拒絶こそが、相手に新たな道を拓くことを、葵は気づいていなかった。




 ドアをノックする音が聞こえた。
 悟が立って、鍵を開ける。

「いつまで待たせんだよ。早く来いよ、朝飯冷めるぜ」

 わざと不機嫌を装う守に、3人は感謝して、ゆっくりと立ち上がる。

「ったく…。佳代子さんが騒ぎを聞きつけて上がってきたから…。誤魔化すの大変だったんだぜ」

 守が呟く。

「すまない」
「ごめん」
「すみません」

 同時に出た言葉に、4人が吹き出した。 
 



 笑いながら降りてきた4人を、佳代子は嬉しそうに見つめていた。
 彼女もまた、悟の変化に気づいていたから…。

 それはきっと、昨夜到着したあの可愛いお客様のおかげなのだろう、と。

 ただし、そこに友情以上のものを感じ取るには、佳代子はあまりに、普通の人だった。




第6幕への間奏曲「薔薇園の3悪人」 END

おまけSS「誘って…る?」


*第6幕「ミューズの誘い」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*