私立聖陵学院・剣道部!
10
![]() |
桐哉、復活? |
「桐哉、ちょっとおいで」 ある日の部活の後、加賀谷はそう言って、桐哉を連れて茶室へ向かった。 本日茶道部はない日なので茶室は開いていないはずなのだが。 しかも加賀谷は愛用の太刀を袴の腰ひもに差したままだ。 11月に入るとさすがに肌寒い日も多く、茶室の周囲も枯れ葉が舞って、掃除もかなり大変だ。 だが、加賀谷・坂枝と一緒に話をしながらの掃き掃除は、話題が尽きることもなく、それはそれで楽しい作業なので、桐哉は気に入っている。 それに、桐哉は最近加賀谷の気持ちがよくわかるようになっていた。 それは『ここへ来ると気持ちが落ち着く』と言う加賀谷の言葉の意味だ。 剣道部に入ってから、日々はこれ以上ないほど充実しているけれど、ここへ来ると、いつの間にか体を覆っていた余計な力が抜けてくれるのだ。 加賀谷が同じ体感をしているかどうかはわからないけれど、でも言葉の意味はこうなんだろうなと想像がついた。 それに加賀谷は先月部長になったため、更に忙しく、だからこそ余計に茶道部での時間を大切にしていた。 けれど、今日は部活はない日で…。 「これ」 茶室の軒下に、細長い袋が立て掛けてあり、加賀谷がそれを手に取り、桐哉に手渡した。 もちろん桐哉には見覚えのある物だ。中に入っているのは竹刀…のはずだが、重さが違う。 「開けてごらん」 言われて袋を開けてみれば、中身は竹刀ではなくて木刀だった。 でも、やっぱりなんだか少し、感じが違うような気がする。 竹刀同様、長らく触っていなかった所為だろうか。 いや、よく見てみるとやはり少し違う、ちょっと短いのだ。 多分、小学生用くらい…。だが、それだけではなく、重心もちょっと違うような気がした。 右手の握力の所為だろうか。 そんな風に考えた色々が顔に出ていたのだろうか、加賀谷は『やっぱり桐哉にはわかるみたいだな』と笑った。 「先輩…?」 「これ、クマさんと相談して、ちょっと細工してみたんだ」 「細工?」 「そう。ちょっと短いのは見てわかると思うけど、重心をほんのちょっと左手の方へずらしてあるんだ」 言われて桐哉は木刀を構えてみた。確かに、右手が楽な気がする。けれど左が辛いと言うほどではない。 「あんまり変なクセをつけると体のバランスが崩れてまずいだろうけど、でも右手への負担をできるだけ少なくして、その分ちょっとだけ左手にがんばってもらうのはどうかな…って考えたんだ。そもそも素振りには竹刀より木刀…だしな」 確かに竹刀だと軽すぎて、コントロールが効かないと振り回してしまうだけに終わってしまうかも知れない。 だが、木刀と加賀谷の顔を交互に見て、桐哉はきっと、少し不安そうな顔をしてしまったのだろう。加賀谷はそれを払拭するかのように、優しく微笑んだ。 「そろそろいいかなって思ってたんだけど、体育館でやるとギャラリーがうるさそうだろ? ここなら誰にも邪魔されないし、二人きりでゆっくり稽古ができる。まあ、クマさんが時々様子を見に来るって言うのは仕方ないけどな」 何と言ってもクマさんは信頼できる顧問なのだ。 加賀谷は高校日本一だが、クマさんは全日本でベスト4に入るという人なのだから。 「桐哉、形(かた)の一本目、覚えてる?」 形…とは、『日本剣道形』のことで、それまで流派によってまちまちだった基本形を大正時代に一本化して制定したもののことだ。太刀の形7本と小太刀の形3本の、計10本で成り立っていて、「打太刀」と「仕太刀」の2人一組で行う、昇段試験には必須のものだ。 桐哉は2段をもっているのだから7本目まで修得しているはずで、加賀谷は3段なので全てを修めている。 「…覚えて、ます」 剣道から離れて2年近く経っているが、体が覚えた物は忘れていない。いや、忘れてくれなかったのだ、体が。 「打太刀と仕太刀、どっちがいい?」 「…どっち、でも…」 答える声が掠れた。 本当にやるのかと思うと、体中が緊張で震えそうになった。 「じゃあ、桐哉は仕太刀な」 ずっと憧れていた加賀谷と刀を交える事ができるなんて、夢のような出来事なのだが、桐哉にそれを喜ぶ余裕はなかった。 どうしよう…。本当に…? そんな言葉が頭の中を渦巻いていたが、お構いなしに加賀谷は愛用の太刀を引き抜いて、左上段に構えた。 相手に構えられてしまっては、もうどうしようもない。 とにもかくにも――どうせ無様には違いないのだからと腹を括って――桐哉は右上段に構えた。 そして、気付く。『桐哉は仕太刀な』と言った加賀谷の言葉の意味を。 右上段の方が、右手の負担が少ないのだ。 加賀谷はそこまできちんと気を配って、そして桐哉の稽古につき合ってくれようとしているのだ。 ならば、預けてしまえば、何も不安に思うことはないのかも知れない。 間合いを詰めて、加賀谷がかけ声と共に桐哉の正面に太刀を振り下ろしてきた。 桐哉は左足を引き、突きつけられた剣先を抜くと、右足を踏み込んで加賀谷の正面を打つ。 加賀谷が左足を引くと、桐哉は正面に剣先をつけたまま、踏み出しながら左上段に構えを…。 「…っ…」 構えを左にした瞬間、右手からするりと太刀が抜けた。 一瞬のことで、支えきれなかった左手からも太刀は抜けて、鈍い音を立てて地面に落ちた。 「桐哉っ。大丈夫かっ?」 加賀谷が駆け寄り右手を取った。 「ごめんな、いきなりすぎたな」 右手を柔らかく揉みながら加賀谷が謝ったが、その言葉に暗い色はなく、『思った通りだった…』と嬉しそうに呟いた。 「…え?」 問い返した桐哉に、加賀谷は笑ってみせる。 「全然変わってない。桐哉が剣を握ったときに出るオーラ、あの時と一緒だった」 あの時…とは恐らく、桐哉が準優勝した中2の夏のことだろう。 「オーラ…って…」 そんな大げさな…と、桐哉は緊張していたのも忘れて笑ってしまったのだが、ふいに加賀谷が真剣な面もちになった。 「桐哉。ゆっくり、がんばっていこう?」 ジッと目を見つめて、加賀谷が桐哉の返事を待つ。 不安は尽きないけれど、両手をそっと握られて、その暖かさに桐哉は、『この手を離さないでいる限り、絶対に、大丈夫』…と確信して、しっかりと頷いた。 それから、2人の秘密の稽古は重ねられた。 時折――というか、かなり頻繁に――クマさんが覗きに来てアドバイスをし、坂枝は稽古後の2人のために美味しい抹茶を点ててくれた。 『疲れてるときは甘いモノが一番!』と言って、茶菓子は種類を取り混ぜ増量されて――全て院長の差し入れなのだが――稽古後にはそれらを楽しみながら、右腕を中心に加賀谷にマッサージをしてもらい、坂枝がそれを冷やかしながらその日の稽古を振り返る…という、桐哉にとっては幸せなことの繰り返しだ。 そうして稽古を重ねているうち――右手の握力は戻っては来ないが――神経が無事だった肩の辺りは随分しなやかに動くようになり、全体の動きからぎこちなさが取れてきはじめた。 そうなると、封じられていた『本当の桐哉』が顔を覗かせてきた。 ![]() 関東地方に少々早い初雪が降り、裸足での部活には辛い寒さがやって来た12月のとある放課後。 2学期末の試験を終えた開放感に溢れている校内で、第2体育館の1階だけは張りつめた空気に満ちていた。 中学1年から高校3年まで、全学年の剣道部員が勢揃いして、その時を待っている。 ワクワクと期待に満ちた顔で待つ中学生もいれば、高校1年生の中には若干心配顔を見せている者もいる。桐哉のクラスメイトたちだ。 普段の学校生活の中でもっとも身近にいて、桐哉の右手が想像より不自由だったことをよく知っているから、この日が楽しみでもあり、心配でもあった。 「大丈夫だよ、桐哉。いつもの通りにやればいい」 部室でそう言ってくれたのは、加賀谷。 いつになく緊張の面もちでいる桐哉の肩をそっと抱き、それでもまだ表情の硬い桐哉の唇に、小さくキスを落とした。 「せ、せんぱいっ」 まさかこんな時にこんなところでキスされるとは思わなくて、慌てた桐哉の肩からは一気に力が抜けた。 今日、桐哉は部員たちの前で『形』を10本、全て披露する。相手をつとめてくれるのはもちろん加賀谷だ。 実戦に復帰できないのなら、『形』を中心に稽古をしてみたらどうだろうかと相談し合ったのはもちろん加賀谷とクマさんで、桐哉は昇段試験以来となる『形』の稽古をゆっくりと積み重ねてきたのだ。 稽古を始めた頃はどうにもぎこちなくて、思うようにいかないことに落ち込むこともしょっちゅうだったが、右手の手先に頼らない構え方を習得できた辺りから、急に体が動くようになった。 もちろん今でも思うようにいかないことはたくさんあって不安も不満も残るが、それでも加賀谷と一緒に剣道ができる…という喜びが全てに優った。 けれど、それを人前で披露するとなると、また別の話で…。 「行こうか、桐哉」 時間になった…と、加賀谷は桐哉の手を取った。 「俺だけを、見ていればいい」 力強い瞳で見つめてくれた加賀谷は、そう言って桐哉の全てを引き受けてくれようとする。 「はい」 だから桐哉は、不安も期待も、丸ごと抱えて加賀谷の懐に飛び込もうと決めた。 ![]() 静まり返った体育館。 響くのは、木刀が当たる重く乾いた音と、桐哉と加賀谷が放つ『形』通りのかけ声だけ。 部員たちは魂を持っていかれたような顔をして、体育館の中央を見つめていた。 桐哉は本当に右手が不自由なのだろうか。 いや、確かに不自由なのだ。それは皆が知っていること。 だが桐哉の所作の美しさは、ここにいる誰よりも優れていて、見る者を引きつけて離さない。 やがて10本目である『小太刀の3本目』が終わり、間合いを引いた桐哉と加賀谷が蹲踞の姿勢を取り、全てが終わった。 誰も、声がない。 そんな中、クマさんの一際通る声が桐哉の耳にも入った。 「みんなわかったか。これが最年少で2段に昇段した気迫だ」 全員が深く頷き、やがて大きな拍手がわき起こり、それは暫く絶えることがなかった。 「よくやった。桐哉」 クマさんが、ちょっと強面のクマ顔をくちゃくちゃにして――ついでに桐哉の頭もくちゃくちゃにしてくれたが――喜んでくれた。 「先生、本当にありがとうございました」 何もできずに、ただジッとしているだけだった自分をここまで引っ張ってきてくれた、クマさんや剣道部の仲間たち、そして、誰よりも大切な人に心から感謝したい。 見上げた先には加賀谷の優しい瞳があった。 その加賀谷は…と言えば、この場で抱きしめたいの必死で堪えていた。 高等部剣道部の中で、一番と言っていいほど小柄な桐哉。 それが誰よりも大きく見えて、加賀谷は演武中だというのに何度も桐哉を見つめてしまった。誰よりも陶然とした眼差しで。 幸せ、だった。 ![]() 「よっ、お疲れ」 見に来て欲しいと頼んだのだが、坂枝は『いやー、汗くさい野郎どもは苦手なんだよ。俺って、風流人だしさー』なんて、妙な遠慮して体育館にはやってこなかった。 けれど、やっぱり見ていてくれたのだ。 桐哉が以前、剣道部をそっと覗き見していた絶好のスポットで。 「先輩!」 「桐哉、よくやったな。綺麗だったぞ」 頭をヨシヨシと撫でられて、桐哉はえへへ…と恥ずかしそうに笑う。 いつも、『ここ一番』で背中を押してくれた坂枝の存在がどれだけ大きかったことか。 「先輩の、おかげです。ありがとうございました」 「あはは。そうだな、少なくとも加賀谷よりは役に立ったと思うぞ。肝心なところではな」 そう言われると、本当の事だけに加賀谷にも返す言葉がない。 ウッと詰まって視線を泳がせるだけだ。 「そうそう。奈月くんも感動してたぞ」 「えっ、葵も来てくれてたんだ…」 「ああ、しっかり最後まで見ていったよ。で、部活にすっ飛んでった。管弦楽部も定演目前だからな」 その言葉に桐哉は頷いた。 葵は協奏曲でソロを吹くのだ。とてもとても練習が忙しそうだったから、今日のことは言ってなかったのに、きっと坂枝が誘ってくれたに違いない。 御礼に定演の時には『ブラボー!』とか声かけちゃおうかな…なんて、内心で桐哉が笑ったとき、坂枝がグッと肩を抱き寄せてきた。 「ところでさ、知ってるか? 桐哉」 「え? なんですか、先輩」 「加賀谷ってばさ、密かにお前の写真、持ち歩いてるんだぜ?」 「ええっ?」 「坂枝っ!」 何ばらしてんだよ…っ、と慌てる加賀谷を桐哉がジトっと見上げてきた。 「先輩、いつの間にそんなもの…」 「や、その、袴姿が可愛くて…だな。つい、こっそり…」 デジカメでぱちりとやってしまったんだ、しかも複数枚。あ、制服も私服もあるぞ……なんて、正直に告白してくれた加賀谷に、桐哉はちょっと拗ねた様な口調で、可愛いことを言った。 「…そんな、言ってくれたら…。僕だって、先輩と一緒に撮りたかったのに…」 口を尖らせて、拗ねたように上目遣いをしてみせる桐哉に、一瞬、加賀谷と坂枝が押し黙った。 ――やば…、鼻血吹きそう…。 思わず口元を押さえた加賀谷に、坂枝が呆れきった視線を流す。気持ちはわからないでもないけれど。 「あー、やだねー。雪も降ろうかって日に暑い暑い」 パタパタと扇ぐ真似をしながら、わざとらしく視線を泳がせていた坂枝が、ふと加賀谷の視線を捉えてニヤリと笑った。 「あ、茶室での『ご休憩』はご遠慮いただいてるからな」 「せ、せんぱいっ」「さかえだっ」 これ以上なく湯で上がった二人に、坂枝は『してやったり』と豪快に笑った。 ![]() それから1週間ほどが経ち、冬期休暇が始まった。 休暇の初日には管弦楽部の定期演奏会があるので、管弦楽部員が寮内に残っているのは当たり前なのだが、今年は何故か――恐らく『葵効果』だろう――相当数の生徒が定演を聞くために残っていて、結構寮内は賑やかだ。 だが、それも今夜までのこと。定演が済んだら、ほとんどの生徒が退寮していくことになる。 桐哉は加賀谷と坂枝に連れられて、音楽ホールへ定演を聞きに行った。 演奏は言わずもがなの素晴らしいものだったが、終演後、偶然出くわした守――桐哉は面識がないのだが、有名人の『守先輩』のことは当然知っている――に、『お、加賀谷。これが噂のお前の子猫ちゃんだな』なんて言われてしまい、なんでばれているんだと加賀谷と2人で呆然としてしまった。 もちろん、坂枝は隣で肩を震わせていたのだが。 案の定、夕方になると寮内は途端に静かになった。 海外や遠方に帰省する生徒が交通事情のためにチラホラ残っているだけだ。 だから、廊下も寂しいくらいシンとしていたが、それを怖いとか思う余裕は桐哉にはなかった。 初めて訪ねる加賀谷の部屋。 同室者も剣道部の先輩だから、『遊びに来ていいよ』とは言われていたし、同級生は結構気楽に尋ねていたようだけれど、やはりなんとなく気恥ずかしくて、桐哉は行くことができないでいたのだ。 部屋の前に立つ。 心臓が、怖いくらいに高鳴った。 |
11へ続く |
*注!* 文中に『右上段の方が、右手の負担が少ない』とありますが、
これはあくまでも『左上段よりは…』という管理人のクセによる個人的見解です(^_^;)
経験者のみなさま、すみませんが突っ込みナシでよろしくお願いします(笑)
次回の剣道部は…? |
「桐哉〜!」 思いっきり手まで振っているではないか。 ――誰だ? この親しげな様子からすると、身内…か。 ところが、桐哉は驚愕の事実を呟いた。 |