幕間 「恋に落ちたら」

【5】





「え…なんでそんなこと、に」

 今夜、渉はお向かいにお預かりで、英が乗り込んで来ると聞いた和真はあからさまに狼狽えた。

 おそらくこんな姿を見たことのある生徒は――いや教師でもほぼ皆無だろう。


「んっと、英がどうしても、和真とゆっくり話せる時間が欲しいって」

 だから、話聞いてやって?…と、ニコッと笑う渉には、まるで何もかもお見通しのような余裕があって、和真はやはり知られているのだろうと、腹をくくった。

「英のこと、黙っててごめん」
「え? なんで? 謝ることなんて何にもないよ」

 観察してるの楽しかったし…、と、ペロッと舌を出す渉は、本当にいつの間にこんな余裕を身につけたのかと思うほどだ。

「渉、いつから気付いてた?」
「えっと、英の気持ちには、多分英より早く気がついたと思う」
「ええっ?!」
「あ、今、渉のくせに…とか思っただろ〜」

 全くその通りだが。

「滅相もない!」
「ウソだあ」

 渉は小さく笑って、意外な事実を和真に告げた。

「夏休みの間も、僕と妹の前で、英ってば和真の話ばっかりしてたんだよ。妹が『和真くんに会ってみたい。連れてきて』って、僕にこっそりお願いに来るくらいだったんだし」 

 確かにあの時、英の意識のかなりの量が和真に向けられていることを知った。
 それが恋になるのかならないのかは、その時にはまだあやふやだったけれど。


「それ、マジで?」
「うん。だから、写真見せたんだ。夏のコンサートの時撮ったの。そしたら、『渉より可愛い』って大騒ぎ。グランマは『実物の方がもっと可愛いわよ』とか煽るし〜」

 自分のあずかり知らないところでいったいなんて会話が交わされていたのかと、和真は頭を抱えた。恥ずかしいったらない。

「だから、来年の夏は絶対泊まりに来て。妹は今から楽しみにしてるから」


『来年』

 その言葉に和真の胸がチクッと痛む。

 その時に、まだ自分が英をつなぎ止めていられるのかどうか、わからない。

 どうしてこんなに後ろ向きになれるのかも、わからない。

 だんだんと、何が怖いのかすらわからなくなってきたような気もするくらい、意識が閉じ始めていて、頭の周りが暗くなる。


「それと、9月になってからも、英は和真ばっかりみてた。演劇コンクールの練習してて、まるで僕に集中してるように見えたと思うけど、本当は違うんだ」

 それも意外な話だった。

「それ、どういう、こと?」

「和真、演出脚本チームだったから、ずっと練習に関わってただろ? 英のテンションが高かったの、和真がずっと側に居たからなんだよ」

「…え、でもあれは、ほら、渉と一緒にできるから…」

「ああ、でもそれは和真も気づいてたんじゃないの? 僕に執着してるように見えてたあれは、直也と桂に対する嫌がらせみたいなものだって」

 確かにそうだ。それは和真もわかっていて、デジカメ映像を見せたりして『嫌がらせ』の片棒を楽しく担いでいたから。


「本番のあれなんて、完全に嫌がらせ以外の何ものでもないし」

 忘れもしない、あの『禁断の兄弟キス』は、 不本意にも演劇コンクール史上にその偉業を記してしまった。

「そう、かな」
「和真?」
「だって、英の『お兄ちゃん大好き』は、ちょっと…」

 言いかけて、口を噤む。

 渉には全く無くても、英には多少なりとも兄弟を少し越えた思いがあったに違いないと思っているが、今ここでそれをわざわざ渉に知らせても、良いことは何も無い…そう思って口を閉ざしたのだが。

「…英が僕に向けているものが、普通とはちょっと違うことには気がついてたよ」

「渉…」

「でも、僕は英を信頼していたし、英もそれはわかってたはずだから」

 和真は驚きを隠せなかった。
 よもや、渉が気づいているとはまったく思っていなかったから。

 引っ込み思案で人見知り故にオコサマに見えてしまう渉だけれど、知らなくてはいけないことは、きちんと、しかも深く静かに見つめているのだと知って、胸が熱くなる。


「じゃあ、渉は、怖くなかった?」

 弟が自分に向ける、少し違う形の、兄弟愛を。

「うん。英は、僕が本当に嫌がることは、できないはずだから」

 それこそが、この兄弟の信頼関係なのだと知れて、ひとりっ子の和真には羨ましいことこの上ない。

「でも、本当に好きな人を手に入れるためなら、英はなりふり構わないと思うし、捕まえておけるのなら無茶もするだろうし、こうと決めたら絶対だし、かなり束縛体質だし」

 ま、それは見ててわかってるとは思うけど…と、渉は笑う。

「だから、英の愛はきっと、重いよ。でも、重い分だけ頑丈だと思うけどね」

 その、『きっと重い愛』が自分に向けられても、少しも嫌だと思っていないことがすでに『答え』になっていることは、和真にももうわかっていた。

「でもね、英の真ん中はいつも優しいんだ。だから、安心して預けていいよ。僕が保証する」

 英が全力で想いを向けてくれて、渉がしっかりと見守ってくれて、それでもまだ怖いだとか思うのなら、それはもう、ただ逃げているだけに過ぎない。 

「僕は、英が恋をしたら、絶対に幸せに成就しますように…ってずっと願ってた。それがまさか親友で叶うなんて、こんな幸せなことない…って、本当に嬉しいんだ」

「……渉」

「…不安、だよね。僕もそうだった。でも、『ここで閉じてしまえばもう何も残らない』って、なんとか踏みとどまった。それと、ゆうちゃんがね、教えてくれたんだ」

「先生…が?」

「そう。『もし恋をする日が来たら、相手の言葉を深く心に留めて信じること。迷ったら必ず言葉に出して確かめること。心から出た言葉は必ず通じるから、諦めずに伝える努力をすること』って」


『信じて、確かめて、伝える』


 省みれば、こと英に関しては何もしていないな…と和真は小さく息をついた。

 逃げる算段ばかりしていた。傷つくのが怖くて目を逸らしていた。
 そして、自分で閉じようとしていた。正しく見ようともせずに。

 そんなのは自分じゃ無い。

 今までずっと、この目で見て、この耳で聞いた事を信じて判断してきた。

 そう。信じて、確かめて、『良いことは良い、ダメなものはダメ』と伝えてきた。

 それをどんな時も誰に対しても貫いてきたから、いつの間にか『切れ者』と呼ばれるようになっていたはず。

 なのに、恋に関してはこんなに意気地なしだったなんて、笑えてしまう。


「僕の大切な和真…どうか、英を幸せにしてやって」
「わたる…」

 あまりに優しく――本当に天使のように――微笑まれて、呼び返した名前はどこか、舌足らずの甘えた響きになった。

 その時。

 小さく鳴ったノックの音に、そっとドアを開けると、そこには英だけでなく、直也と桂もいた。

「渉。迎えに来たよ」
「あ、うん」

 和真の手をキュッと握り、離したその手で英の胸に激励のパンチを可愛らしくお見舞いしながら小さく『頑張れ』と言うと、英もまた小声で『任せとけ』と、ライトなデコピンで応戦してきた。

「おやすみ、和真。また明日」
「うん、おやすみ、渉」

 そして開いた時と同じようにそっと閉じられたドアのこちら側には、英の姿があって、和真は動悸が収まらない。

 そっと胸を押さえて落ち着こうとしたその時。

「わあっ」

 いきなり和真を抱き上げて、そのまま英は和真のベッドに座ってしまった。
 お膝抱っこ状態だ。

「ちょっ…英っ、反則!」

 こんなに密着した状態では、心臓の音まで聞かれてしまいそうで、和真は少し暴れた。

「反則だろうが何だろうが、使える手は全部使って思い知ってもらうつもりだから、観念して」

「…な…っ」

 絶対に引かないという決意がありありと見えて、それだけでもう、頭がクラクラする。

 身長差がある2人は、立っていても座っていても、見上げたり見下ろしたりしなくてはいけないが、膝抱きにされてしまうと、今までになく顔が近い。

 少し動くだけで唇まで触れてしまいそうな距離は、これから話をするにしては落ち着きを無くさせる。

 とにかくこの状態では拙いと、なんとか膝から降りようと身を捩った時。

「どうしたら、わかってもらえるんだろう…」

 和真をギュッと抱きしめて、耳元で呟かれた言葉には、ついさっきまでの強さはなくて、まるで迷子になった子供のような心細さが漂った。

「こんなに、好きなのに…」

 胸がきゅうっと縮まる。

「何をすれば、信じてもらえる? 俺は誰の代わりでもなく和真が好きだ」
「わかってる…。英のことは、信じてる」

 渉の代わりでいようと思ったのは、自分の勝手だ。

 けれどそれは、英も渉も望んでいないこと。

「俺だって、和真のこと、信じてる」
「英…」 

 言葉の重みは和真にそのまま伝わった。

 英が信じてくれるという自分を、自分自身が信じなくては、英に申し訳がない。

 素直にそう思えるほどに。

「俺、頑張るからさ、いつか…で、いいから、俺のことも誰の代わりでもなく好きになって」

 息が止まりそうになった。

 逃げを打とうとして咄嗟に取り繕った嘘が、自分が思っていた以上の威力で英に突き刺さっていることに、激しい後悔が湧いてくる。


「…ごめん…あれ、嘘だから」
「え?」
「初恋の人の代わりなんて、嘘」

 英の視線が怖くて、顔が上げられない。

 でも、言わなくてはならない。

 怒られても詰られても、傷つけてしまった英に正直に打ち明けなければ、先へは進めない。

 自分ももう、怖がらずに一歩踏み出したいと願っているから。

「失恋したのは本当だけど、英は代わりなんかじゃない」
「…和真」
「僕も、誰の代わりでもなく、英が、好き」

 身体に回されている英の腕が、ピクッと震えた。

「…本当…に?」
「…うん」

「俺を、全部受け入れてくれる?」
「…うん」

「離さないよ、ずっと」
「…うん、捕まえておいて、ずっと」

「和真…!」

 きつく抱き締められて、自分はやっぱり嬉しいんだと再認識したとき、触れ合っていた頬が少し動き…。

「…っ」

 和真の唇は英のそれに捉えられて、そのまま深く結びついた。

 表面だけ触れていたのは最初のうちだけで、軽く舐められただけで驚いて少し開いてしまったところから侵入されたら後はもう、英のなすがままに、好き勝手に口の中まで舐め回されて、意識はすでに霞がかかってしまい…。

 ――こんなことなら、渉で練習しとけば良かったかも…。

 骨まで溶けてしまいそうなキスに、有り得ないだろうことが頭をよぎって、『そりゃないだろう』なんてセルフ突っ込みまで入れてしまったり。

 だから、いつの間にかベッドに転がされていて、全身でのしかかられていることに気づくのが遅れ、あれっと思った時にはすでに、体制は抜き差しならない状況に陥っていた。

「す、英っ」
「なに?」

 と言いつつその手は和真のパジャマのボタンを外し始めている。 

「いきなりこれっ?」
「別にいきなりじゃないだろ。今まで散々気持ちは伝えてきたし、ちゃんと『離さない』って宣言したし、和真はそれを受け入れてくれたんだから、流れとしては自然だろ」

 ――ええと。そんなもん? …いや、ちょっと待った!

 危うく説得されてしまいそうになって、慌てて開かれそうになっているパジャマの前をかき集める。 

「あ、あのさ、心の準備ってものが…」

 そう、つい数時間前まで、今夜を英と過ごすことすら予定になかったくらいなのに、この展開はいきなりすぎてついて行けない。

「大丈夫。和真は転がってたらいいから。後は任せて」

 15歳の分際でその余裕はなんなんだと、普段の和真なら突っ込むところだが、身体を防衛することに忙しくて突っ込んでるヒマがない。


「…嫌?」

 声色がいきなり頼りなげなものに変わった。

 見れば、顔まで捨てられた子犬――違う、大型犬だ――みたいに悲しそうで。

「や、別に嫌とかじゃなくて」
「怖い?」  
「こ、怖くなんかない、けど」

 ちょっと声が震えているような気がしたら、英がすかさず抱き締めてくれる。

「じゃあ、俺が渉の代わりに、甘えさせて」

 首筋に顔を埋めて、耳朶を甘噛みしながら言うセリフじゃないだろうと、まだ内心でだが、少し突っ込む余裕が出来たような気がする。 

「んっとに、でっかいくせに」
「…ん…まだ15歳のオコサマだからさぁ…」

 と言いつつ、その手は何だと、今度こそ声にして突っ込んでやろうと思ったら…。



                 やっぱり見たい?



「あの日…」

 腕の中で、うとうとし始めていた和真に静かに声をかけると、とろんと溶けた瞳が向けられてきて、こんな姿を知るのは自分だけなのだと思うと、胸が熱くなる。

「…ん? なに?」

 乱れた髪を梳きながら、額に優しくキスを落として言葉を継ぐ。

「告白した日、俺たち2人を『練習室1』におびき寄せたの、渉の作戦だったんだ」
「…え?」

 やはり驚いたのか、いつものキリッとした瞳が少しだけ戻ってくる。

「俺が2人きりになりたそうだったから…って」

 まんまと嵌められたな…と、小さく笑う英に、和真も笑う。

「渉、英の気持ちには結構早くに気がついていたらしいけど」
「え、マジで?」
「なんか、キミのお兄ちゃんって、意外とコワくない?」

 ひっそりと、実は大物なのはわかっていたけれど、だんだんとその正体が顔を出し始めているのではないだろうか。

「やっぱりあいつ、別次元の生き物だな」

 引っ込み思案で人見知りなところはそう簡単には変わらないだろうけれど、そのまま懐の奥深さがますます育てば、もしかしたらとてつもなくミステリアスな大人になるかも知れない。

 2人で一緒に、そんな渉のこれからを見守っていけるとしたら、それはとても幸せなことだろうと、顔を見合わせてそっと笑った。



 ちなみに。

 朝、自分の部屋へ戻った英を待っていたのは、予想外の光景だった。

「斎樹…」
「…お帰り、英…」

 そこには、一睡も出来なかったのであろう様子の斎樹と、斎樹のベッドで平和に寝息を立てる真尋の姿があった。

「遊びに来てくれたのはいいんだけどさ、なんかこう、警戒心無さ過ぎでさ…」

 話し込んでいるうちに、爆睡されてしまったのだと斎樹は告白して、深く溜め息をつく。

「偉い、斎樹。よく耐えた」

 ポンと肩を叩いて慰める以外、かける言葉の見当たらない英だった。



END

第6幕〜東風』へ


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