「I Love まりちゃん」外伝
秘書室長のつまんない休日
〜魅惑の33階への前哨戦〜
前編
『室長の呟き』
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目覚ましもかけずに寝たというのに、定刻にはぱっちりと目が覚める。 そんな自分が少し哀しい。 和彦は自室のベッドでじっと天井を見つめていた。 時刻は時計をみるまでもない。きっと…6時。 遮光カーテンの裾はほんのりと白んでいて、確かに窓の外は朝なのだと告げている。 海外出張慣れしてしまったせいでもなかろうが、まったく時差ボケ知らずとなってしまったこの身体は、どうやらとてもできのいい目覚まし時計でもあるようだ。 世界中のどこにいようが、哀しいことに、現地時間の午前6時には起床ボタンのスイッチが入ってしまう。 まあ、その代わりというわけでもないだろうが、どんな枕でも眠れる身体なのだから、恐らく睡眠時間の収支は合っているのだろう。 それにしても遮光カーテンの内側にいても太陽光の恩恵を感じ取れるだなんて、なんとも健康的な身体としか言いようがない。 もうすでに、完全覚醒してしまった身体は、二度寝などできそうもなく、さりとて起きたからと言って、何もすることはない。 強いて言えば、新聞とTVニュース、そしてメールのチェックくらいか。 しかし、それでも何もないよりましかと、和彦はもそもそとベッドから起き出した。 枕元の目覚まし時計は6時2分。ということは、ベッドの中でそれでも2分はゴロゴロしていたと言うことだ。 そう言えば、“惰眠をむさぼる”……というのはいったいどんな状態なんだろうな…と、思わずどうでもいいことを考えてしまう。 朝刊を取りに行って戻ってみても、家の中は物音一つしない。 現在唯一の家族である一番下の妹は、まだ夢の中のようだ。もしかすると“惰眠をむさぼって”いるのだろうか? いや、“惰眠をむさぼる”というのは早朝に使う言葉ではないな…と、またしてもどうでも良いことを考える。 ……要は、思考回路が暇を持て余しているということか。 仕事の何もかもが順調と言う状態も何だかな…などと、世のサラリーマンたちを敵に回してしまいそうなことまで考えたところで、ダイニングテーブルについた。 新聞を細部にわたって熟読し、朝のニュースに一通り目を通し、メールをチェック。 それでもまだ7時。 久しぶりに朝食でも作ってやろうかとキッチンにたった。 数年前まで、和彦の休日は、勤務中以上の忙しさだった。 まだ子どもだった妹たちの世話に明け暮れ、炊事洗濯掃除――みな一生懸命手伝いはしてくれたが、それでも『親代わり』としての仕事はいくらでもあった。 それが、今や何もない。 自分のために時間を使う習慣などこれっぽっちも持てなかった和彦は、今さら時間をもらったところで当然暇を持て余す。 だから、本音をいうと『休暇』などいらないのだが、社員の福利厚生がこれでもかと言うほどしっかりしているMAJECでは、よほどの非常事態でない限り『休暇』は完全消化が『義務付け』られているのだ。 会長も今日は休暇だ。 彼こそMAJECで一番休暇を取らない人間だろう。 むろん事業主であって社員ではないのだから、福利厚生の対象ではない。 だから、休暇をとらなくても誰に文句を言われる筋合いもないのだが、たまにこうして自ら休みを取り、秘書全員が心おきなく休みを満喫出来るように配慮してくれている……ようだ。 だが、趣味の一環として仕事をやっているような人だから、きっと彼も暇を待て余してしまい、一人息子をテニスにでも誘いだして迷惑そうな顔をされているんだろうなと思うと、少し笑ってしまう。 それにしても。 サラダにするつもりで冷蔵庫から出したレタスを手に、和彦はふと、昨日別れ際に見た新米秘書の、まだあどけなさを十分に残した笑顔を思い出した。 それは自分に向けられたものではなかったのだけれど。 ☆ .。.:*・゜ この春入社した長岡淳は、予定通り『秘書室勤務』の辞令を受け、一月ほど前から正式に秘書として勤務している。 和彦の見込んだ通り、彼は何を教えても、まるでスポンジが水を吸収するように自分の中に取り込んでいく。そして、次の機会にはきちんと自分のものにしている。 何より人に頼ろうとしない点がいい。 彼が何かを尋ねてくるとしたら、それは、何とか自分で道を模索して、ちょっとした分岐点で先輩にアドバイスを求める…といったくらいだ。 そして、それも決して秘書室長である自分には向けられない。 第2秘書である大二郎、そして、第3秘書である学――この二人が彼の相談ごとを引き受けているようだ。たまに、新米秘書同士、春奈となにやら勉強会をしているようでもあるし…。 (やはり厳しく接しすぎたせいだろうか……) がらにもなく、そんなことを、ふと思う。 もともと秘書室内の雰囲気は固くない。 自分と大二郎は、口数こそ多くないが冗談だって言うし、なにより学が天真爛漫なおかげでむしろ研究所などよりよほど明るい部署だと言ってもいい。 さらにそこへ初めての女性秘書・春奈と、まだまだ10代の雰囲気を残している淳を迎えたのだから、一層華やいでも良いはずだ。 だが。 『お前と淳が一緒にいる秘書室は暗くてかなわんな』 そう言ったのは、彼らの主、MAJEC会長・前田春之だ。 どちらかが席を外していてもそんなことはない。 ただ、二人が揃うと……淳がやたらと緊張するのだ。 しかし、それも元を正せば自分のせいだ。 研修の段階から殊更彼には厳しく当たった。 それこそ、大二郎と学が『室長、人格が変わったみたい』などと、こそこそと――しかし、聞こえるように――囁きあうくらいには。 だが殊更に厳しく当たったのも、元はといえば、自分自身の後ろめたさに起因している。 それを十分自覚しているだけに、淳が順調に成長している今、和彦の口から漏れるのは吐息の方が多くなるのも致し方ない。 あの日……。 ☆ .。.:*・゜ あれは去年の秋。 本社採用の最終面接の時だった。 最終面接に残ったのは僅かに15人。その中に、淳の姿を見つけた和彦は、思わずその姿を目で追っていた。 だがその時の自分は、その行動の理由をつきつめることをしなかった。 ただ、書類選考の時に目を付けていた者が、ここまで残っていてくれたことに対する、あくまでも『純粋な』喜び……なのだと思いこんでいたから。 現在の和彦の肩書きは『秘書室長・第1秘書』であるが、それは表向きのこと。 実際には会長の右腕として経営の中枢に関わっている。 この会社では、なんらかの理由で会長が決済出来ないなどという緊急事態が発生した場合の代理を、社長ではなくて和彦に託しているのだ。 それほどの立場である和彦だが、社員採用に関しては最終面接にしか関わらない。 そこまでに至る厳しい試験に残ることの出来ないものに、用はないから。 むろん試験の内容は多岐にわたる。 専門知識と一般教養はもちろん、いくつもの課題で行われる論文提出。 それらすべての内容を和彦は把握しているし、また採点する試験官も和彦が信頼をおいている人間ばかりだ。 だから、自分は最終面接を見ていればそれでよかった。そして、その段階で次年度の人員配置を決める。当然今までの人事にミスなど、ない。 その年も、面接をモニターで見ていた和彦の決断は早かった。 来年度の本社採用は2名のみ。2名とも将来のMAJECを担う秘書に育てる。 その時の自分の決断にもむろん、自信があった。 自分の目に狂いはないのだと。 しかし、入社式の日、期せずして淳と言葉を交わすことになった和彦は、その真っ直ぐな瞳と対峙した瞬間に、その自信を足元から揺るがせてしまったのだ。 自分はもしかして、何か別の理由でこの決断をしてしまったのではないだろうか…と。 こんな思いは生まれてこの方経験したことがない。 だからつい、開口一番で挑発するような態度を取ってしまった。らしくもなく。 『初日から迷ったんだ』 そんな自分が今までこの身体の中のどこに潜んでいたのか、言葉を発した本人が戸惑うくらいに挑発的な態度を。 しかも会長はちゃっかりと肩なんて抱いているし。 『いきなり会長のエスコートとは、ね』 その言葉に、肩を抱いているその人が僅かに表情を変えた事にすら気がつかなかった。 まさか和彦の口から「その手の嫌み」を聞こうなどとは、さすがの怪人も予想外だったようだ。 最終面接で思わず淳の姿を追ってしまった理由。 そして、初めてあったその日に自分の自信を足元から揺るがせてしまった理由。 それが『一目惚れ』などという――その手の事に関してはかなり淡泊であることをきちんと認識している自分にとって――極めて厄介な代物であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。 ☆ .。.:*・゜ 「はあ…」 まだ気温も上がりきらない、爽やかな夏の朝。 瑞々しいレタスを持ったままという姿にあまりに似つかわしくない陰鬱なため息。 いや、そもそも『レタスを握りしめたTシャツに綿パン姿の小倉和彦』というもの自体が、会社関係者が見れば十分すぎるほどに奇異な姿ではあろうが。 しかも『それ』がため息なんてものをついているのは奇異を通り越して、もはや不気味といってもいいだろう。 何しろ、新米秘書の春奈にして『室長って、ベッドの中でもビシッとスーツを着こなして真っ直ぐ上向いて眠ってそうですもの』なんて言われてしまうくらいだから。 とにかく…だ。何か間違えてしまったような気がしてならない。 そうだ、まるでシャツのボタンを掛け違えたままで放置してしまっているような、どうにも据わりの悪い心地。 かといって今さら甘やかす気などさらさらない。 甘やかすのは、淳が一人前の秘書になってからだ。 ということは…。 いつになるのかわからないその時まで、自分の気持ちは宙に浮いたまま…だ。 (それもなんだかな…) 自分の力でどうにも出来ないことが、こんなにも歯がゆいものだなんて、今まで知らなかったような気がする。 そして、青々としたレタスも枯れてしまいそうなため息を、もう一度ついたとき…。 「お兄ちゃん」 いきなり声がした。 「いつになったらサラダ食べられるのかなぁ」 いつの間にか末っ子の春姫(はるひ)がテーブルについていた。 |
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