「I Love まりちゃん」外伝

魅惑の33階
〜1〜





 僕は長岡淳。
 この春大学を出たばかり。あと2ヶ月ほどで23歳になる。

 7月の正式配属から一ヶ月と少し。
 情報通信産業の最先端をいくMAJECの、まだまだ全然使い物にならない名実共にペーペーの新米秘書だ。



「淳」

「はい!」

 会長がお呼びだ。

「コーヒーを淹れてくれ。思いきり濃いのを頼む」

「はい!」


 ここのところ重要案件が溜まっていて、会長は連日休む間もない。

 そんな会長の、ちょっとでもお役に立ちたいのだけれど、僕に出来る仕事と言えばまだ雑用ばかり。



「どうぞ」

 疲れがピークにさしかかると、会長のコーヒーの好みはどんどん濃くなっていく。


「うん、いい味だ。ありがとう、淳」

 ずっと書類に伏せたままだった目を、僕に向けてニコッと笑って下さる会長は、現在43歳の男盛り。
 年齢より軽く5つくらいは若く見えるんだけれど、それでもこの貫禄は損なわれない。

 思わず見惚れてしまう、僕の大切な……義理のお兄さんだ。


 会長の実のお母さんは、今、僕のお母さんでもある。

 僕は幼い頃に実の母を亡くしていて、今の母は僕が小学生の頃に父と再婚して我が家へやって来た。

 その時すでに、会長は成人して独立されていたから――その頃は大学の先生だったと聞いている――長岡家との縁は結ばなかったんだ。

 だから、僕は高校生になる頃まで、この偉大な経済人が僕の義理の兄にあたるのだと言うことを知らなかった。


『この人の側で働きたい』


 そう思ったのは、そろそろ進路を確定しなくてはいけなくなった高校3年の初めの頃。

 そもそも『前田春之』という人に興味をもったきっかけは、僕が響子さんという継母をとても好きで尊敬していて、その響子さんが産んだ――それもとても若い頃に――たった一人の子供だから…という、わかったようなわからないようなものだった。

 けれど、メディアでこの人が取り上げられるのに触れるたび、僕はこの人自身に強く惹かれていくことになった。

 その口から発せられる一つ一つの言葉は、穏やかなのに確かな説得力を持ち、強固な意志と聡明な光を同居させている瞳に滲む優しさ…。


『MAJECに入る』


 そう決めた僕は、大学の4年間をその準備に費やした。
 秘書業務の基本はもちろん、語学、経済、経営、そしても情報科学・情報工学等々…。

 どれか関連の専門分野を極めるか、もしくは『響子さん』というこれ以上ないほど強力なコネを使えば、MAJECのどこかへ入ることは可能だけれど、僕が目指したのはあの人のすぐ側…秘書室。

 MAJECの秘書室が特殊だというのは、この分野に明るい人間なら大概知っていること。

 企業のTOPを支えるだけが仕事ではなく、企業そのものを、TOPたちと共に支えている、いわば中枢なのだ(まさか秘書室長が人事権まで握っているとは思わなかったけれど)。


 だから僕はオールマイティでなければならなかった。
『使える人間』にならなければならなかった。 




「淳」

「はいっ」

「このサンプルを今すぐ研究所へ回してくれ」

「はい!」


 今すぐ…ということは、常時待機させているバイク便が一番早いな。

 小さな箱を受け取ると、僕は携帯でバイク便を呼び出しながら秘書室を後にした。


 会長も響子さんも何も言わないけれど、多分、もう会長にはばれているのだと思う。僕が響子さんの息子だということ。

 だってそうでなければ、まだ研修中の身で会長の自宅へ連れて行かれ、智雪くんと対面出来るなんて、あり得なかっただろうから…。

 ということは、もちろん室長もこのことを知っているということで…。


 僕は口から漏れかかったため息を飲み込んだ。

 僕がまだなにも出来ないうちから秘書室に入れたのは、もしかしたら、会長の『響子さんへの配慮』があったのかも知れない。


 そう思うと酷く落ち込んでしまいそうだけれど、でも、それをはね除けるだけの仕事ができるようになって、いつの日にか本当の意味で『長岡淳は秘書室に必要な人間だ』と思われるようになりたい。


 だから、ため息をついている暇なんて、ないんだ。



☆ .。.:*・゜



「危ないっ!」

 咄嗟に掴んだ腕を引っ張ると同時に、バイクは急ブレーキを掛けてスピンした。

 その派手な音に、真昼のオフィス街が一瞬騒然とする。

 研究所行きのサンプルを積んだバイクが、植え込みの影から現れた女の子を引っかけそうになったんだ。


「大丈夫かっ?」

 とりあえず、女の子を腕の中に確保したまま、派手に転んだバイク便に声を掛ける。

「…あ〜、びっくりした…」

 怪我は…なさそうだ。

「びっくりしたじゃないっ」

「あ、はいっ、すみませんっ」

「いくら急ぎの便だからって、事故を起こしてちゃ何にもならないだろうっ! だいたい、歩道でエンジンを掛ける事自体間違ってるっ」

「はいっ、すみませんっ」


 …ったく、最近の学生は…って、僕もつい数ヶ月前までは学生だったんだけれど…。

 中のサンプルの無事を確認して、僕はバイク便が体勢を立て直すのを待つ。


「いい? 同じミスをしないように。それと、彼女に謝って」

「はいっ、あの、すみませんでしたっ!」


 けれど、女の子はキョトンとしたままで…。
 もしかして、轢かれそうになったこと、わかってないとか。


「あ、ええと」

「怪我はない?」

 僕が声を掛けると、女の子はゆるゆると顔を上げた。

「あ、はい、なんとも…」

「…よかった」

 ほんと、よかった。何もかも無事で。息を詰めて見守っていた風のギャラリーも、ざわざわと動き始める。


「あの〜」

 バイク便がおずおずと声を掛けてきた。

「ここはいいから、早く…あ、でも気をつけて行って」

「は、はいっ。で、あの…」

 …ああ…言いたいことはわかる…。

「大丈夫。室長には言わないでおくから。その代わり、今度同じ事したら報告だからね」

「はいっ! な、長岡さんっ、ありがとうございます! これから気をつけます!」


 本当に気をつけてくれよ。こんなこと、室長の耳に入ったら大変なんだから。まったくもう。

 バイク便はぺこっと頭を下げると、これでもかって言うくらいしつこく左右確認をしてから、走り去っていった。



 やれやれ…。さて…。

「本当にごめんなさい。あれ、うちのバイク便なんです。二度とこんな事のないように十分気をつけますので許して下さい」

 まだぼんやりしている様子の女の子に声を掛けてみる。
 もしかして、びっくりしすぎたんだろうか。悪いことしたな…。

「あの…君、大丈夫?」

 うーん。本当に大丈夫? あんまり反応がなくて、不安になってきた…。

「もしどこか痛むようだったら…」

 後から何かあってはいけないからと思い、僕は名刺を出して自分の身分を説明しようとしたんだけれど…。

「僕はこのビルの中の…」
「MAJECの社員さんですね」

 …え? どうして?

「あの、うちの兄もMAJECの社員なんです」

「…えっ?!」

「私、秘書室に勤めている小倉和彦の妹で、小倉春姫といいます」


 ………。


「えーーーーーーーーーーーーーーー!?」


 秘書室?小倉和彦?妹〜?!

 室長にこんな可愛い妹がいたなんてっ。だってだってっ、歳も随分離れてやしないか?


「あれっ?長岡さんって、秘書さんなんですね!」

 僕が名刺を出しかけたまま固まっていると、室長の妹さんはニコニコと笑いながらさっさとそれを手に取った。

「いつも兄がお世話になってありがとうございます」

 礼儀正しくお辞儀してくれるんだけど、とんでもない。一方的にお世話になっているのは僕の方であって…。


「ええと…お、小倉さん」

「春姫、です」

 そうだよな。小倉さんって呼ぶと、どうしてもあの不機嫌な仏頂面が目の前をちらついちゃって…。

 目の前の可愛い女の子のイメージとは全然かけ離れてるし。

「あ、では春姫さん」

「春姫って呼んで下さい」


 へっ?ま、まさか、ご冗談でしょうっ?
 お、おそれ多くも室長の妹さんを呼び捨てだなんてっ。

 こうなったら、話題を変えて誤魔化すしか…。


「あ、あのっ、室長は今日から出張でいらっしゃらないんですが…」

「え?兄は室長なんですか?」

 はい〜?

「ごめんなさい。兄は自分の話は全然しないので…」

 …なんか、室長らしいけど…。

 それにしても…春姫さんは今日、室長が出張でいないってことを知らずに来ちゃったんだ。

 可哀相に…と思ったのが顔に出たのか、春姫さんは慌てたように、小さな手のひらを顔の前で振って見せた。


「あの、違うんです。兄が今日から出張だって言うのは知ってるんです」

「え?じゃあ…」

「今日は…その…」


 春姫さんが何事かを言い淀んだ時、僕の上着の内側で、携帯が震えた。

「うわっ、やばっ」

 秘書室からだ。

「はい!」

 慌てて電話に出ると春奈さんの声。


 でも、『長岡っ、どこまで『お使い』に行ってるんだ〜!』…なんて、室長そっくりの口調で言わないでよ。寿命が縮まるよ〜。


「あの、ごめんなさい、春姫さん。僕、もう戻らないといけないんだけれど…」

「あ、こっちこそごめんなさい!」

 春姫さんも慌ててくれるんだけど、その瞳には何か言いたげなものが宿っていて…。


「「あの…」」 

 声を出したのは同時だった。思わず漏れる笑い。

「あの、実は兄のことでお聞きしたいことがあるんです。もし…、その…ご都合が悪くなければ…」

「いいですよ」

 最後は消え入りそうな声になった春姫さんに、僕は出来るだけ優しい声で即答した。

 僕なんかで役に立つのかどうか、わからないけれど。

 でも、この人が、『小倉和彦』の妹…という事実が、何故か僕をとても大胆にしていた。


 知りたかったんだ、僕は…室長のことを。

 どんなに些細なことでもいいから…。


2へ続く



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