「I Love まりちゃん」外伝

魅惑の33階
〜2〜





 その日の夜。
 重要案件がいくつか片づき、会長も久しぶりに定時に帰られて、僕も退社した。


 春姫さんとの待ち合わせは、会社の最寄り駅近くにある小さなイタリアンレストラン。

 沢木さんたちがよく行く店で、僕も何度か連れていってもらったんだけど、こぢんまりしてアットホームな雰囲気が心地いいところなんだ。

 しかも、入社1年目の僕の給料でも安心してオーダーできるお手頃価格だし。




「お待たせしました」

 僕が到着したときには、春姫さんはすでに席――相談事にはもってこいの、ちょっと奥まったところ――に着いていた。

「いいえ、こちらこそごめんなさい。お忙しいのに無理を言ってしまって…」

 立ち上がって、ちょこんと頭を下げる仕草が可愛い。

 うーん。何度見ても『あの』鬼室長と血の繋がった妹…とは思えない。


「いえ、忙しいといっても僕はまだ新米の秘書で、仕事どころかまだ室長の足を引っ張ってる状態ですから」

 自分でいうのも情けない話だけど、室長の妹さんにカッコつけても仕方ないしな。

 それに、いいかっこしたところですぐにばれちゃうだろうし。
 ばれたら格好悪いどころか、マジで怒られそうだし。


 手振りで座ってもらうようにすすめると、春姫さんはニコッと笑ってスカートの裾を気にしながらそっと腰を下ろした。


「でも、さっきお仕事されてたときの長岡さん、とっても素敵でした」

 は?

「ええと…」

 あんなの仕事のうちに入らないんだけど…。

「それに、私ってば、かばってもらったお礼もちゃんと言ってなくて…。本当にすみませんでした」

「とんでもないです。悪いのはこっちなんですから。春姫さんに怪我をさせたりしたら、僕、室長に殺されちゃいますよ」

 そう言うと、春姫さんも小さな声を立てて笑う。

 笑うとちょっと室長に似ているのかも。
 いや、僕は『室長の笑顔』なんて智雪くんに向けられたものをチラッとしか見たことがないわけだから、定かではないのだけれど。

 改めて自己紹介しようとしたら、顔見知りのウェイター氏がワインリストを持ってきた。

 ええと、春姫さんは…いくつなんだろう? 未成年だと思うんだけど…。


「あ、私、大丈夫です。こう見えてもお酒強いんですよ」

 リストを横目に彼女の様子を伺う僕に向かって、察しのいいことに彼女は何のことだか気がついたようで、ニコッと笑ってみせる。

「春姫さん、おいくつですか?」

「ええと、大学生ですから!」

「おいくつですか?」

 殊更明るい顔で、でも年齢を言おうとしない彼女に、僕は笑いながらもう一度同じことを尋ねる。

「…ええと、2年生です」

「現役合格…だよね?」

「はい。…あ、でもあとたった2ヶ月で二十歳ですから!」

「じゃあ、ダメ」

「え〜!」


 不服そうに頬を膨らませる彼女は、全然嫌みでなくて、天然に可愛い感じ。
 もし室長が同じように頬を膨らませたら…………不気味だからヤメ。



「室長のお留守にこうやって二人で会うだけでも怒られそうなのに、この上ワインまで飲ませた…なんてばれたら、僕はきっとクビですよ」

 わざと茶化したようにそう言って、僕は笑ってみせるんだけど、ない話ではないと思う。

 タダでさえ睨まれてるんだから、『仕事もろくに出来ないうちからうちの妹をたぶらかすとは何事だ!』なんて、これ以上心証を悪くしちゃ大変だしな。


 ちょっと残念そうに口を尖らせている春姫さんに、僕はいくつか食べ物の好みを聞いて、それをウェイター氏に伝えた。


「じゃあ、改めて…」

 そして、彼が僕たちの席を離れるのを待って、僕は彼女に改めて自己紹介した。

「今年MAJECに入社したての新米秘書、長岡淳です。室長にはいつもお世話になっています」

 お世話になってると言うよりは、お荷物になってる…って方が正しいけどね。

 頭を下げた僕に、春姫さんもニコニコしながら同じように頭を下げて…。

「今日はありがとうございました。小倉和彦の4番目の妹の、小倉春姫です」

「え?4番目?」

 そんなにいるのか、妹が。

 まあ、うちにもやかましいのが3人もいるけど、でも同じやかましいなら姉より妹の方が絶対いいよな。姉じゃあ頭があがらないから。


「はい。うち、兄を筆頭に男一人に女四人の五人兄妹なんです。で、私が末っ子で」 

 ペロッと舌を出して肩を竦めるその様子に、何となく、室長がこの末っ子ちゃんをとても可愛がっているのが知れた。

「なんだか、仲良さそうですね」

 それは感じたままを口にした、根拠のない当てずっぽうの感想なんだけど。

「はい。みんな、仲がいいんです。…とは言っても、私たち4人がお兄ちゃんにぶら下がって生きてきた…って言う方が正しいですけれど」

 言って、春姫さんはちょっと目を伏せた。

「だから、どうしても兄には幸せになって欲しくて…」

 …どういうことだろう。そりゃあ、大好きなお兄さんなら、誰だってそう思うだろうけれど、でも、春姫さんの口調には普通とはちょっと違うものが感じられて…。


「ここのところ、兄の様子が変だったんです」

 う。いよいよ『本日のメインディッシュ』――春姫さんの『兄のことでお聞きしたいこと』――の始まりか。


「この春から、やたらとため息をつくようになったんです」

 …室長が…ため息? ぷぷっ、似合わない〜。

「そう思ってよく観察してみると、時々遠いところを見ているし…」

 …室長が…遠い目? なんだか不気味だよな〜。

「で、いろいろ考えたり、情報を集めたりした結果、どうも兄は誰かに恋をしているようなんです」


 へ…………………………? こ・い・し・て・る?


「こ、こいって…、あの、『恋』?」

 いや、『あの、恋』以外になにがある…って言われてももちろん困るけど。

 でもでもでもっ。室長が恋って………なんか、考えられない……。


「はい、その、恋…です」

「だっ、誰にっ?」

 …って、声が裏返っちゃったじゃないか。

 あ、でも、聞いたところで多分…というか絶対、知らない人だろうな。
 だって、僕は、室長のプライベートなんて何一つ知らないんだから。

 けれど、そんな僕に、春姫さんはやけにキッパリと言い切った。



「秘書の甘木春奈さんです」

 は…………………………? は・る・な・さ・ん?



「長岡さんは甘木さんのことご存じですよね?」

 そ、そりゃあ…

「もちろん、ど、同期入社の友人…だから…」

 やば…なんで声が掠れてるわけ?

「甘木さんってどんな方ですか?」

「あの、ええと、そりゃあ、と、とても素敵な人、だよ。頭もルックスも抜群、で、面倒見はいいし、さっぱりしてる…し、優しい……し」

 そう。僕が今まで出会ってきた女性の中でも最高級の人…だ。
 あの人と同期入社で本当に良かったと、心から思える大切な友人で…。


「…じゃあ、兄には望み薄な方なんでしょうか?」

 え?

「どうして?」

 だって、室長ほどの男性だよ? いくら春奈さんが優秀だからって気後れするようなことなんて絶対にない。あり得ない。



「…多分、うち明けられずにいて、苦しんでるんじゃないかと思んです…。兄はそういうことに器用な方ではなさそうですし…」

 そう言われると……。正直僕にはわからない。

 だってまだ『小倉和彦』という人に出会って半年足らず。
 プライベートはもちろん、会社での『上司と部下』っていう関係すらまだまだ築けていない段階で、僕は彼のことをあまりにも知らなさすぎる。


 だいたい、今の春姫さんとの会話で、室長が現在フリーであるということを初めて認識したくらいなんだから。


 ただ、あまりにも『仕事の鬼』っぽいから、彼女になる人は気の毒かも…って、チラッと思ったことも、あるにはあるんだけれど。


 でも…。


「…多分、大丈夫…だと思うよ…」

「長岡さん…」

「春奈さんも、室長のこと、とても尊敬してる。だから、室長はちゃんとその時期を見極められると思うんだ」


 …『仕事の鬼』が思いを寄せたのは、とてつもなく優秀な――そう、彼にとても相応しい女性、だから。

 ずっと仕事を続けていくであろう春奈さんにとっても、きっと最高のパートナーになるだろう。


「…大丈夫。僕もちゃんと応援…する、から…」

 途端に春姫さんの顔が輝いた。

「ありがとうございます!」


 ちょうどそこへ、頼んだ料理が湯気を立てて運ばれてきて、僕らはそれっきり、室長のことも春奈さんのことも話題にしなかった。


 話したのは、春姫さんの学校のことや、僕の学生時代の話、ばかり。

 歳も3つしか違わないから、そりゃあ話も盛り上がって、3時間に及んだ食事の最後の頃には、『春姫ちゃん』『淳くん』と呼び合う気安さになっていた。


 でも、僕の意識の片隅から、室長はずっと消えてくれなかった。

 そして、その隣には春奈さんの姿。

 あんなに素敵で、まったくもってお似合いの二人だもんな…。

 祝福しなきゃ…いけないよ、な…。

 でも、なんだか…ちょっと寂しい、かも…。



                    ☆ .。.:*・゜



 そして、結局出張が大幅に伸びた――途中で別件の出張が絡んで、本社へ戻る間もなく今度はシンガポールへ飛んでいった――室長は、週明けまで帰ってこられないこととなり、僕は春姫ちゃんと初めて会ってから、一度もその『お兄さん』と顔を合わせないままに週末を迎えた。


 そう、今日は春姫ちゃんと春奈さんがご対面する日なんだ。

 なんでも小倉兄妹の住むマンションに春奈さんの友人がいるらしく、春姫ちゃんはその人から春奈さんの情報を仕入れたのだというのだ。

 しかも、ここへ来てこれ以上ないほどはっきりしてしまったのは、春奈さんも室長に関心を持っているってこと。

 春姫ちゃんによると、その友人は『春奈さんが室長のことを知りたがっている』と言い、『春姫ちゃんを食事に誘いたいんだけど…』とまで言ったそうなのだ。

 まさに相思相愛。成就目前。

 この1週間、僕は仕事中にも春奈さんの横顔を見つめては、『二人が結婚するときは、やっぱり仲人は会長かな』…なんて想像してしまって、何だか急に落ち込んだりもした。

 僕が落ち込む筋合いじゃないんだけどさ…。
 




 そして、僕は春姫ちゃんと一緒に、待ち合わせに指定された、六本木のお洒落なフレンチレストランに向かった。

 どうして僕までもが一緒なのかというと、春姫ちゃん曰く、『春奈さんにはお友達の川上さんがついてくるの。私、一人は心細いから、お願い、淳くん一緒に来て』ってことらしい。


 僕は、そう言う場面で役に立つような器用さは持ち合わせていないと思うんだけど、まあ、相づちくらいは打てるだろうから、いないよりはマシなのかもしれない。
 僕の気は進まないけれど。




 春姫ちゃんは、それはそれは清楚で可愛らしい出で立ちでやって来た。

 きっと、将来義姉になるかもしれない春奈さんへの第一印象を考えてのことなんだろう。


『私、お兄ちゃんの足かせにはなりたくないの』

 微笑みながらではあったけれど、真剣な眼差しで春姫ちゃんはそう言った。

 妹が4人もいることがマイナスポイントになると彼女は思っているのだ。

 そして、『春姫ちゃんみたいに可愛い子が足かせになったりするもんか』…と、笑いながら返した僕に、その事実は告げられた。


 室長が、4人の妹たちの親代わりだったことを。
 しかも、それは今の僕と同じ歳――22歳の頃から…なのだ。


 だから、春姫ちゃんはこんなにも『お兄ちゃん』の心配をしているんだ。

 自分たちのことはもう大丈夫だと。
 だから、今度は『お兄ちゃん』自身の幸せを掴んで欲しいと。


 あの優秀な人が、会社以外でも大きな責任を背負って生きてきたという事実は、何故か僕を酷く打ちのめした。


 そして、早く一人前になりたいと、また強く思う。
 少しでも『室長』の助けになれるよう、『使える人間』になりたいと思う。


 そして…。

 きっと『小倉和彦』という個人を助けるのは、春奈さんの役目になるんだ…。いや、春奈さんのことだから、『室長』という公の立場も楽々と支えるんだろうな…。



 …あ、春奈さんだ。


 一足先に、約束しているレストランへ、友人らしき人と入っていく春奈さんの姿を遠くから見つけた。

 見慣れているはずのその姿――ごく自然に背筋を伸ばして歩くその姿が、やけに眩しい。



 ついこの間までまったく意識の外だった事柄が、いきなり絵空事のように僕の前に現れ、そして徐々に現実のものへとすり替わっていく…。


 この焦れた感じが、堪らなく居心地悪い…。


3へ続く



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