「I Love まりちゃん」外伝

魅惑の33階
〜12〜





『淳』

 それは、生まれてからずっと、数え切れないくらい耳にした僕の名前。
 家族が、友人が、そして秘書室のみんなも…会長も呼んでくれる僕の名前。

 けれど、今室長が『淳』と呼んでくれたその響きは、今まで一度だって感じたことのないくらいに甘やかな音になって僕の体に流れ込んできた。


「…はい、もちろんです。でも、そんなことじゃ、誕生日のお祝いには…」

 だって、僕が嬉しいばっかりじゃないか、これじゃあ。

 そう言うと、室長は――不思議なことに――少し照れたように口元を緩ませた。


「…じゃあ、調子に乗ってもう一つ、いいか?」

「はい、なんでも!」

 肩に置かれたままの室長の手に、力がこもった。

 そして、僕が何かを思う間もなく、その手が僕を引き寄せた。

 その弾みで、僕は簡単に室長の腕の中に納まってしまって…。



「抱きしめさせてくれ……淳」

 耳元に囁きが落ちてきたのと同時に、僕の背中に室長の腕が回り、僕は身動きできないほどきつく、抱きしめられた。

 そう………抱きしめられ………………。

 え……?

 う、そ、だ………。

 もしかして室長、この前みたいに酔ってるっ?

 あ、でも、ついさっきまでちゃんと仕事してたし…っ。


「…し、室長……?」

 呼んではみたものの、僕はこの状況をどう理解していいのかわからず、半分パニックになっていた。

 そして更にきつく抱きしめられて、少し仰向いた僕と室長の頬が触れる。
 室長も…熱い……?


「淳…好きだ」

 へ…?

 …うーん、幻聴が聞こえるだなんて。ちょっとヤバイかも。

 でも、抱きしめられている感触は、これ以上ないほどリアルで…。



「初めてあった日から、ずっとお前が気になって…。いつの間にか頭から離れなくなった」

 え…?

「あ、あの…っ」

「頼む、暫く黙って聞いてくれ」

 室長の言葉がどうやら現実のものらしいと認識した途端、驚きのあまり身を捩ってしまった僕を、室長はまたきつく抱きしめ直す。息が苦しいくらいに。


「こんな風に人を想うのは初めてだったから、私は自分の思いに酷く戸惑って、お前には殊更厳しく接してしまった。優しい声を掛けたら、そのままなし崩しに自分は…、いや自分だけではなく、お前も駄目にしてしまうんじゃないかと…怖かったんだ」


 …怖い…?室長が?


「けれど、そんなことよりも、お前を…お前の笑顔を失うことの方がもっと怖いと気がついた」


 そ、んな……。


「好きなんだ、お前が……淳…」

 …信じられない…。
 だって僕は、ついさっきまで、この想いは永遠に伝えられないんだと思っていたのに。

 室長が、僕を…だなんて、信じろって言う方が…無理…。

 それに……そうだ!


「し、室長は春奈さんが好きだったんじゃないんですか?」

 春姫ちゃんは確かにそう言ったんだ。

 けれど、僕をきつく抱きしめたまま、室長は普段の姿からは考えられないほど切ない声で答えてくれた。


「それは誤解だ、淳。私は最初からお前だけを見ていたんだから…」

 ……本当……に?

 僕は必死で言葉を探すんだけれど、何を言っていいかわからなくて、ただ、室長の体に腕を回して思い切りしがみついた。


「…淳…っ」

 …それだけで、室長には伝わったみたいで、僕はまたさらに、息が出来ないほどに抱きしめられて…。


 そして、僕がその抱擁に熱さに陶然としかけたとき…。

 …え…っ? あれっ…?!

 きつく抱きしめられていた力がふいに緩み、ふわっと浮いた感触がしたと思った時には、僕はもう、抱き上げられていた。
 しかも…横抱きっ!
 こ、こんな…恥ずかしい…、それに、怖いってばっ。


「し、室長っ」

「こら、暴れるな。楽々と抱いてるわけじゃないんだからな、落ちるぞ」

 落ちると言われて慌ててしがみついた僕に、室長は嬉しそうに笑うと、そのまま壁際へと向かった。

 そして、唐突に僕の視界は風景を変えた。

 視線の先には天井。そして、背中には張りのある革のソファーの感触。

 そしてそして、息がかかるほど間近に、室長。


「室長…」

「……そんな色気のない呼び方はないだろう?淳」

「で、でも…っ、ここは会社で…」

「就業時間は終わったよ…。ここからはプライベートタイムだ」

「室長…」

「こら。私にはちゃんと名前があるだろう?」

 名前って…。

「え、ええと…小倉…さん…?」

 うー、何か照れるっ。

「それもダメだ」

 はいぃぃぃ?

「じゃあ、なんて呼べばいいんですかっ」

「ファーストネームがあるだろう」

「え、ええと…」

「…まさかお前、私の名前を知らないなんていわないだろうな」

「…と、とんでもないっ。知ってますっ」

「じゃあ、呼べるだろう?」


 ま、まさか、『和彦さん』って言わなきゃいけないわけ? 
 そ、そんな、いきなり…。

 そりゃあ、心の中では何度も呟いた名前だけれど、でも、それを本人を前にして口にするなんて…っ。



 おろおろする僕を見て、何を思ったか室長はふと思い詰めたような瞳になった。

 …息が…かかる…。

 室長の顔がとんでもないほど近づいてきて、僕は堪らずに目を閉じた。

 そして、唇に、暖かくて柔らかいものが触れてきた。
 小さく『淳…』と囁きながら。



 ……。

 室長の唇は何度か僕の唇を啄むように触れて、それから覆うように何度も吸われて…。

 ………。

 下唇を甘く噛まれた刺激で僕が思わず噤んでいた口を薄く開くと、いきなり熱いものが侵入してきて。

 …………。

 それは、好き勝手に僕の口の中を暴れ回って、そして、怯える僕の舌を捕まえると、根元からきつく吸い上げて。

 ……………。


 こ、この人っ、めちゃくちゃキス上手いんじゃないかっ…!?

 だれが不器用でだれが奥手だって? 
 春姫ちゃん、もう少しちゃんと兄貴の観察しろって〜!



 息も絶え絶えになった頃、漸く僕は解放されて大きく息をついた。

「なっ、なんでこんなに手慣れてるんですかっ?」

 一人だけ息を乱しているのが恥ずかしくて、思わず言ってしまったんだけど、もしかして、29歳――いや、今日で30歳、か――にもなっていれば当然のこと…?

 けれど室長は『心外だな』と言わんばかりの口調で、

「手慣れてなんかないぞ。だいたい今まで妹たちの世話と仕事だけに生きてきたんだ。自慢じゃないが経験は…ないとは言わないが、多くもない」

 …なんて、キッパリ言いきった。

「でもっ、その割にはなんか…」

「才能だろ」

 はあ?

「あとは…」
「あと、は?」

「淳…お前への気持ちがそうさせるんだ…きっと…」

「…室長…」

「和彦…だ」

 ふわっと微笑んだ、僕の大好きな室長の表情に、僕はまるで催眠術にかかったかのように、その名を口にしていた。

「……和彦さ、ん…」

「そう、いい子だ…淳」


 また、触れる唇。

 そして、また僕がそのキスに翻弄され始めたとき…。

 腰のあたりで衣擦れの音がしたかと思うと、急にお腹のあたりが涼しくなった……と思ったらっ!


「うわあ!」

 いきなり素肌に熱い手のひらを感じて、僕は飛び上がった…いや、実際は室長が上に乗っかってるから飛び上がれないんだけど…。

「…ああ、悪い。我ながら余裕がないな」

 苦笑する室長がなんだか可愛くて…。

 でも、触れている手は外してくれそうにはなくて、僕はいったいどんな顔をしていればいいのかわからなくなる。


「初めて…か?」

 …それはその、やっぱり経験の有無に関する質問でしょうか…。

「ええと…この体勢は…」

 僕は真面目に答えたつもりだったんだけど、何が可笑しかったのか、室長は吹きだした。

 そんな室長も初めてだから、嬉しいんだけれど…でも、なんだかなあ…。

 僕が内心でむくれたのに気がついたのか、室長はそれでも笑いながら僕の頬をそっと撫でた。

「悪い。笑うつもりはなかったんだが…。じゃあ、この反対の体勢は?」

 うう、それは…。

「…高2の時に…一回…」

「それから?」

「………それ、だけ」

「そうなのか?お前は随分もてただろう?」


 言われて僕はゆるゆると首を振る。
 確かに僕の周りにはたくさんの女性がいたけれど…。

 でも、たった一度の僕の『経験』が、今でも思い出すのが辛いほど堪えるものだったために、僕に『その後』はなかったんだ。 



 ふと、室長の指が僕の唇に触れた。

「こら、噛むな。傷が付く」

 あ、いつの間にか…噛んでたんだ…。


「辛い経験だったのか?」

 優しく尋ねられて、僕はまるで甘えるように頷いてしまった。


「…話してみるか?」

 そう言われて、僕は今まで誰にも言えなかった『あの時』のことを、初めて口にした。


「彼女…目的があって僕に近づいてきたって、後でわかったから…」



 初めて好きになった女の子は高校の同級生だった。
 学年でも評判の美人で、明るくて積極的で。

 そんな彼女に『淳くんが好きなの』と告白されたときは、そりゃあ嬉しくて…。
 そして、誘われるまま、僕は何の疑問も抱かずに彼女と一度だけ身体を重ねた。

 でも、彼女が本当に『好き』だったのは、僕ではなくて、僕の背後にあるもの…だったんだ。

 そう、彼女の目的は、僕と親しくなって、僕の父親経由で芸能界へ入る…ということ。

 彼女が『身体まで使ったんだから、何が何でも淳くんのパパに紹介してもらうわ』と、友達に話しているのを聞いてしまったとき、幸せの絶頂だった僕の初恋は終わった。

 そして僕はそれ以来、親しげに近づいてくる女性たちにどうしても心が開けなくなり、ほんのちょっぴりだけど女性不信に陥っていたんだ。

 だから大学時代も、ただの友達は多かったけれど、どうしても一線を越えられる人には出会えなかった。



 そんな情けない話を、しかもちっとも整理して話せなかったのに、室長は黙ってきいてくれて、そしてまた僕をギュッと抱きしめてくれた。

「よかったな、淳。私を相手にその心配は絶対ないぞ」

 その言葉に、僕は思わず吹きだした。

 室長も、笑い出して…。

 でも、ふいに笑いを止めて、室長は、会長室へ続くドアをチラッと見た。

 …何だろう?


「…さ、淳。これから2人きりで祝杯を上げに行こうか?」

 室長は、笑顔のままだけれど、ちょっといつもの仕事モードの顔になって、僕をそっと抱き起こしてくれた。


 うわあ、よく考えたら、神聖なる職場でこんなことになっちゃって…。

 さっき室長がチラッと会長室の方を見たのは、きっと『ここは職場だ』ってことを認識したからだろうな、うん。


「2人のバースディと、晴れて想いが通じ合った記念日だな」

 …なんだか、凄く照れくさいんだけど…室長って、意外とロマンチストなのかもしれない。 


「…はい!」

 僕は元気よく返事をした。

 この出来事が、どうか夢ではありませんように。


 夢なら…絶対醒めないで…。


 
最終回へ続く



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