「I Love まりちゃん」外伝
魅惑の33階
〜4〜
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自分が居ない間に何かあったのか? そう尋ねた和彦に、頼みの綱である春奈の返事はこうだった。 「…申しわけありませんが、私にはわかりかねます」 ――心当たりならあるけれど。 だが、ここでそれを言うのは時期尚早だろうと春奈は判断する。 「そうか…なら仕方ないな」 疲れた様子で肩を落とした和彦に、春奈は内心で『まどろっこしいことしてないで、ちゃっちゃとモノにしなさいよっ、妹にとられても知らないわよっ』なんて突っ込んでいるのだが、もちろん表情はいつもの仕事顔。 「…だが、やはり気になるからな。本人に話を聞いてみるよ」 ――やっとその気になったか。 ニヤリと春奈は笑う。 おっと、うっかり顔に出てしまった。 ついでだからだめ押しもしておこう。 「室長…」 「なんだ?」 「差し出がましいようですが、あの…できるだけ優しく…」 本当なら『怯えさせるんじゃないわよっ』と啖呵の一つも切りたいところだが、ここは職場、相手は上司、しかも表面上は至って真面目な話だ。 「ああ、もちろん仕事でミスがあったとかそう言うわけじゃないからな。何か悩みでも抱えているのなら相談に乗ってやれればいいなと思うだけだから、心配には及ばないよ」 「お願いします」 春奈は仲の良い友人として頭を下げる。 どうか、淳くんの悩みをさっさと昇華させてやって下さい。 もっとも本人はまったく自覚してませんけど…なんて思いながら。 ☆ .。.:*・゜ 「室長、お疲れでしょう? あとは僕たちがいますから、今日はもうお帰り下さい」 午後から会長と共に研究所へ出かけていった第2秘書の沢木大二郎以外の4人が揃っている秘書室で、第3秘書の佐保学が心配げに声を掛ける。 月曜から月曜まで、休みなく――しかも精力的に――働いていた彼らの上司の表情にはうっすらと隠しきれない疲労が滲んでいる。 だがこの疲労、仕事の所為ばかりではない。 いや、主な原因は、ちょっと離れたところにいる新米秘書・長岡淳の不可解な行動にある。 ちらっと視線を投げると、まだ淳に帰る気配はない。 自分がここにいる限り、『お先に』とは言いにくいのかも知れない。 もっともMAJECはそんな社風ではない。やるべきことをやれば、あとはいつ帰ろうが本人の自由だ。 だが、今の淳にそれを求めるのは酷だろう。 漸くそんなことに気を回せるようになった自分に、和彦はまたしても内心だけで深いため息をつく。 「…そうだな。じゃあ、今日は帰らせてもらうか」 そう言って席を立つ。 「お疲れさまでした」 学が声を掛けると、春奈と淳もそれに倣う。 「ああ、お先に」 とりあえず社を出て、淳を待とう…。そして直接話を聞こう。 そう決めて、秘書室を後にする。 すれ違う社員たちと挨拶を交わしながら、半ばぼんやりと和彦はエレベーターを待ち、そして都心の高層ビルを出る。 ――さて、どこで淳を待ち伏せするか。 一番いいのは、ビルの正面がよく見えるところに位置する、ファーストフードのコーヒーショップだ。 そこの窓辺で待っていれば、淳が通るのは必ず見えるはず。 ショートサイズのコーヒー一つを持って、中途半端な時間にも関わらずそれなりに賑わう店内で、正面玄関がよく見える窓辺の席に腰を下ろす。 どれほど経っただろうか。 ふと巡らせた視線の先に、見覚えのある姿が過ぎった。 ――…春姫? 軽い足取りで駆けてくるのは確かに末っ子の春姫だ。 そしてその姿は、和彦に気づくことなく店の前を通り過ぎる。 どうしてこんなところに妹がいるのか。 しかもかなりめかし込んでいるではないか。 いつもはラフなシャツにジーンズ姿で、およそ『女の子らしい』とは言えない出で立ちを好む子なのに。 釘付けになる視線の先で、春姫がぴょんと伸び上がり、大きく手を振った。 その先には…。 ――淳! ついさっきまで、秘書室で見せていた表情からは想像もつかないほどの明るい笑顔で想い人が立っていた。 桜色の唇が柔らかく動く。 『お待たせ』…とでも言ったのだろうか? 春姫は飛びつかんばかりの勢いで、淳に向かって駆けていく。 どうしてあの二人が。 いつの間に…。 瞬きも忘れて見つめているうちに、腕を組むとか肩を抱く…なんていう体の触れ合いこそなかったが、柔らかく視線を絡めあいながら、二人は駅の方向へ去っていった。 ――どういうことだ。 まったく予想外の展開に、いつもはイヤになるほど冷静に回転する思考も完璧に凍り付いてしまった。 昨夜、出張からの帰宅はかなり遅い時間だったが、春姫とはちゃんと言葉を交わした。 その時も、変わった様子はなかったし――いや、そう言えばなんだか、こっちを見て意味深に笑ったような気はしたが――淳の名前はおろか、それを匂わせるような話も一切でなかったはずだ。 ――もしかして…。 ある、とてもイヤな考えに辿り着いたとき、和彦の視界がふと暗くなった。 背後に立った影が、遠慮がちに声を掛ける。 「室長…」 「……甘木くん、か」 振り返らずに答える。 もしかすると自分は今、とても醜い顔をしているかも知れないから。 そんな顔を、部下に晒したくはない。 春奈が静かに言った。 「…申しわけありません。実は先ほどお話できなかったことがあります」 |
☆ .。.:*・゜ |
どうしてこういう展開になるのかしら。 室長が帰った後、沢木さんからの連絡待ちをしているからと――あの様子だとプライベートな連絡待ちよね。だって会長は研究所からそのままご自宅へお帰りになる予定だったし――佐保さんが一人秘書室に残り、私たちは『帰っていいよ』と微笑まれて遠慮なく退社してきた。 多分、きっと、残ってる方がお邪魔だろうし。 で、二人してエレベーターに乗ろうとしたところだったのよね。淳くんの携帯に春姫ちゃんから電話が入ったのは。 ったく、どういうタイミングよ。 下では多分――ううん、絶対、室長が退社する淳くんを待ち伏せしているはずで…。 なのに淳くんったら、『え?もう下にいるの?じゃあ、急いで降りるよ』なんて言ってんだから。 あああ、もう、どうしてこう上手くいかないのかしら。 ほんと、室長じゃないけど苛々しちゃうわ。 で、『春奈さん、お先に!』なんて駆けていった淳くんの先には案の定、春姫ちゃんの姿。 そして、私が視線を巡らせた先には……やっぱりというか何というか……凍り付いた室長の姿。 …これは、なんとかしなくちゃ…! ☆★☆ 「室長…」 「…甘木くん、か」 意を決して声を掛けた私に、室長は振り返らずに答えた。 その、僅かに震える声が、私に室長の気持ちの深さを知らしめる。 いついかなる局面にも冷静で、誰にも弱点なんて見せたことのないであろう室長が、静かに動揺する姿は私にも酷く緊張を強いる。 そりゃあもちろん、面白がってこの二人の成り行きを見守っている私だけれど、でも、大切な同期と尊敬する上司だもの、絶対幸せになってもらわなくっちゃ…って思って行動してるわけよ。 「…申しわけありません。実は先ほどお話できなかったことがあります」 だから、私は今、私に出来ることをしなくちゃね。 見てしまったものはもう取り返しがつかない。だから、ちゃんと説明しなくちゃ。 「春姫さんと淳くんのことですが…」 私が静かに話し始めると、室長は漸くこっちを向いてくれた。 無理に作ったように、冷静な表情。 うーん、この場面で不謹慎かしらと思うけど――恋に悶える良いオトコって堪らなく素敵よね。壮絶な色気だわ、室長ってば。 「…甘木くんも知っていたのか? 春姫のことを」 「はい。事情はいろいろ混み合ってまして、順序を追ってご説明しなくてはいけないのですが…」 「…聞かせてくれるか?」 「はい」 室長は、私に正面に座るよう促した。しかも、さりげなく立って、私のコーヒーまで買ってきてくれて。 でも、それは室長が、これから私が話すことをできるだけ冷静に受け止めようとしている努力の現れ…なのかも知れない。 それから私は、かいつまんで…なんてことをせず、できるだけ――私の知りうる限り詳細に、『運命の悪戯』としか思えない二人の出会いを室長に語った。 だって、こんなところでまた妙な行き違いとか誤解があったらバカみたいじゃない? もちろん私がその現場に立ち会っていたわけではないから、どれだけ詳細に話したところで、あくまでも『聞いた話』でしかない。 けれど、淳くんと春姫ちゃん、両方から別のシチュエーションで話を聞いていたから、二人の言うことに大きな食い違いがないことを知っている。 まあ、淳くん視点の話が『室長の大事な妹さんに万一怪我なんてさせたら、あのバイク便、ただのクビではすまないよね』…ってところに重きを置いているの対して、春姫ちゃん視点の話が『王子さまとの運命の出会い』が中心になってるところが笑えるけど。 あ、笑ってる場合じゃなかったわ。 室長は私の話を黙って聞いている。 視線は一点に定まっているようだけれど、話の端々で時折揺れるのが堪らなく切なげで色っぽい。 そして私は、私の友人も交えて楽しく語り合った週末のことまで報告して、すべてを話し終えた。 もちろん、春姫ちゃんが思い描いている、室長と私の『あり得ないロマンス』とその周辺の話はこの際『黙殺』よ。 どうでもいい情報と必要な情報の振り分けは秘書としての常識だもの。 ほんと、『室長と私のロマンス』なんて、この楽しいイベント――『室長と淳くんのロマンス』――にはまったくもって無関係なデマなんだから。 まあせめて、私がいろいろ水面下で動いた為に春姫ちゃんに誤解をさせてしまった分のお詫びだけは、いつか必ずしようと思うけれど。 室長が、少し落としていた視線をふと、上げた。 ☆ .。.:*・゜ 自分がいない間にそんなことがあったなんて…。 出張中も、仕事に集中しているようで、何度も意識をとられる自分を自覚していた。 誰にも負けない…と自信を持っていた己の『集中力』を簡単に覆してしまうのは、淳の笑顔。 早く出張から戻りたい…と思ったのも、そう言えば初めてのことだった。 それほど心を囚われていたのに、いつの間にかあの笑顔は自分の側をすり抜けて行ってしまったと言うのだろうか。 ――堪らない…。 春奈が話し終えて数呼吸…漸く視線を上げてみると、春奈はそれはそれは心配そうな顔でこちらを見ていた。 ――そういえば、誰かさんと違って聡い彼女にはお見通しだったな…。 つい自嘲的に唇を歪めてしまう。 そんなつもりは毛頭なかったのに、今や自分の気持ちは大二郎にも学にも、そして春奈にもバレバレなのだ。 しかし、そんな自分の――世間から見れば道を外しているだろう『思い』にも、春奈はまったく嫌悪を見せなかった。 それどころか、喜んでいる節すらある。 そもそも秘書室内ではすでに『大二郎と学』などというカップルが堂々と出来上がってしまっているのだが、春奈を見ていると、むしろその方が仕事がし易い…とでも思っているようにも感じさせるのだ。 つくづく不思議な――しかしとても信頼のおける女性である。 そう感じているからこそ、今の春奈の表情にも、妙に素直になってしまえるのだが…。 「甘木くん」 「はい」 キリッとした表情で春奈が答える。 きっと彼女ならヘタに隠し立てをしたり、言葉をオブラートで包むようなことはしないだろう。 だから、聞きたくはないのだが、聞いてみる。 いや、聞いておかなければならないから。 「もしかして、あいつの様子がおかしかったのは、私に内緒で春姫とつき合っていると言う後ろめたさから…だろうか?」 そうだとしたら、自分はきっと、地球の裏側まで落ち込めるだろう。 そして、戻って来るには相当の時間を必要とするだろう。 いや、果たして戻ってこられるのか。 だが春奈はキッパリと言い切った。 「いえ、それはありません」 「どうしてそう言える?」 春奈が根拠のないことを言い切るわけはないのだが、それでも食い下がるように尋ね返してしまう。 「淳くんは春姫さんの気持ちにはまったく気づいていませんから」 「どうしてわかる?」 あんなに晴れやかに笑っていたのに? 「そんなの側で見ていれば十分わかります。淳くん、そう言うことには人一倍鈍いですから」 ――もっともだ。 春奈の言葉は、あまりに説得力がありすぎて可笑しくなるくらいだ。 けれど、先ほどの春姫の表情と、今し方の春奈の言葉ではっきりとした。 春姫が淳に恋をしたということは事実、なのだ。 そして、淳の気持ちも、いつ春姫の方を向くかわからない。 いや、むしろその方が『当たり前』だろう。 同性の上司と『どうにかなる』確率の方が圧倒的に低い。 だから淳はきっと、自覚のないままにどこかで『春姫の兄としての小倉和彦』を警戒しているのだろう。 恐らくそれこそが、淳のぎこちなさの理由…。 12歳で両親を亡くしてしまった春姫。 自分も一生懸命やっては来た。 だが『父の代わり』はそれなりにつとまったかも知れないが、『母の代わり』には到底及ばなかった。 幸せになって欲しい。誰よりも。 だったら…この気持ちには蓋をするしか……ない。 |
5へ続く |
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