「I Love まりちゃん」外伝
魅惑の33階
〜5〜
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結局あれから淳と春姫は何処へ行ったのだろう? いくら春奈の言うとおり、淳にまだその気がないにしても、あの親しげで楽しそうな様子から察するに、食事に行くくらいのことはするだろう。 今から誰もいないうちへ帰って、頬を紅潮させて帰宅するであろう春姫を待つなんて、到底できそうにない。 和彦は、それでもまだ心配げな様子を見せる春奈に、『大丈夫だよ』と無理に微笑んで見せ、『じゃあ、また明日』と、殊更明るく別れを告げたあと、帰宅することなくそのまま社へ戻ってしまった。 こんな気分を背負ったままで行くことのできる当ては、なかったから。 「…会長」 「なんだ、帰ったんじゃなかったのか、和彦」 すでに学も帰り、無人だと思いこんでいた秘書室に――いや、正確には隣の会長室に、だが――灯りがついているのを見て、和彦は少なからず動揺する。 「申しわけありません。今日は直帰なさると伺っていましたので」 出迎えなかったことを詫びると、会長はデスクについたまま、『いや』と言って軽く片手をあげた。 「大二郎が連絡をいれると言ったのを止めたのは私だ。別にたいした用ではない。ちょっと気になることがあったから戻ってきただけだからな」 「何かありましたか」 『気になること』というフレーズに、和彦の秘書としての神経が敏感に反応する。 「いや、お前たちのおかげで仕事はこれでもかというくらい順調だが」 「では…」 「顔色が悪いぞ、和彦。何かあったか」 いきなり和彦の一番奥底まで見透かすような一言。 「心身共にタフなお前が、たかだか1週間程度の出張で顔色を悪くするほど疲れを溜めるとは思えんのだがな」 見つめてくる視線も、まるで何もかもお見通しだと言わんばかりの鋭さだ。 「…お心遣いいただいて申しわけありません。…が、特に何も」 言いながら、思わず視線を逸らせてしまったことに、和彦は気がついていない。 「その台詞、もう一度私の目を見て言ってみろ」 そして、この言葉で初めて気づく。 「…会長…」 いつもの『余裕』など、いったい何処へ吹き飛んでしまったのか。 「まったくお前は…」 会長は呆れたようにため息をつく。 「初めて会ったときから、そう言う点はまったく進歩していないんだ、お前は。 どんな状況に陥ってもどんな場面に遭遇しても、これでもかというくらい冷静かつ柔軟に対応出来るお前が、ことプライベートとなると途端に貝のように口を閉ざす、いや、口だけじゃない、心も…だ」 穏やかな口調の中に、僅かに苛立ちを滲ませる。 しかしその言葉の端々に、気遣うような色を見つけてしまえば、和彦にも返す言葉がない。 「そういえば、末っ子ももう直に二十歳だろう? お前もそろそろ自分のことを考えたらどうだ」 そんなことは言われなくてもわかっている。 だがやはり、和彦にとっては末っ子――春姫の幸せが優先なのだ。 そして、何故今ここでいきなり春姫の話がでてきたのか、普通なら不審に思うであろう和彦の思考は、やはり正常には作動していないようだ。 「見合いでもするか?」 「…は…?」 あまりに唐突で何を言われたのかわからない。 「お前も来月には三十だからな。そろそろ生涯のパートナーを選んでもいいんじゃないか。お前の釣書なら、世話好きの役員連中がいくらでも持ち歩いて喜んでばらまいてくれるぞ」 …全身から力が抜けてしまいそうだ。 たった今、生まれて初めての『一目惚れ』が、生涯最悪の『失恋』になろうという地獄を目前にしているというのに、のんきに見合いの話なんてしないで欲しい。 「…会長…いきなり何のお話ですか。…せっかくですが、私にその気はありません」 「淳がいるからだろう?」 ――この人は、どうしてこう…。 「……いいえ、違います」 「違わない」 「会長…!」 思わず声を大きくしてしまった和彦に、会長はチラッと視線を投げると、優雅な仕草で足を組み替えた。 「少し前、淳と末っ子が歩いているのを見かけた」 「…っ」 「そのすぐ後、大二郎と学が、お前と春奈くんが話し込んでいるのを見かけたそうだ」 何もかもお見通しと言うことのようだ。 「お前の考えていることなんて、手に取るようにわかるさ」 悔しいが、こういうところは絶対勝てない。 経営能力云々だけではなく、この怪人は人の心を読む術にも異常に長けているのだ。 「まあ、確かに麗しい兄妹愛ではあるがな」 会長は今までの穏やかな表情を一変させて、小馬鹿にしたように『ふん』を鼻を鳴らす。 「会長っ、そんないい方は…っ」 いくらあなたでも…。 だが、そう続けようとした言葉は、スッと向けられた鋭い視線に封じ込められた。 「お前、いい年をして何か勘違いしてないか? 恋とか愛とか、そんなものは譲ったり譲られたりするものじゃないだろう」 だが和彦も負けじと会長を見返す。 「…では、奪うものだとでも仰りたいんですか?」 「はっ、馬鹿馬鹿しい。どうしてもお前たち兄妹側の視点でしかものが見えていないようだな。私はそんな視野の狭い人間に、このMAJECを任せる気はないぞ」 色恋での視野の狭さを仕事になぞらえられても困る。 和彦は、『そういうこと』には不器用なのだから。 だが、本当の意味でこの世界的企業を引っ張っていこうと思うのなら、すべてにおいて『神の如きバランス』を備えていなければならないのかもしれない。 目の前の、この人のように。 そう思った瞬間、会長はふと表情を和らげた。 「本当に淳を想うのなら、淳の気持ちを真っ先に考えてやってくれないか」 「会長…」 「あれは私の大切な義弟だ。たとえ血は繋がってなくても、幸せになって欲しいと思う気持ちは、お前が末っ子を思う気持ちと変わらんと思うがな」 『さて、帰るとするか』と呟き、会長は立ち上がると二度、半ば呆然と立っている和彦の肩を叩いて扉へ向かった。 和彦は我に返ると慌てて後を追い、扉を開け、一礼して送り出す。 そして、インターフォンをとり、会長が帰宅なさいます…と警備室に告げる。あとは警備担当に任せておけばいい。 主のいなくなった会長室に一人、ポツンと残され、静寂がのし掛かる。 だが、霞んでいた視界は一気にクリアになったような気がした。 淳の幸せを思うのなら、自分のすべきことは、今は、一つしかない。 彼を将来、MAJECの後継者である前田智雪の片腕に育てること。 彼は、ここで働くことを強く望み、自力でやって来たのだ。 その気持ちに応えてやれるのは、自分…だ。 和彦は強く、そう思った。 淳のためなら、この心に蓋をしてみせる。 淳を、伸びやかに育ててやろう……。 |
☆ .。.:*・゜ |
「「お帰りなさい!」」 月曜日。 1週間振りに室長が出社してきた。 今日・明日くらいは代休をとるだろうと思い込んでいた僕は、まさに不意打ちを食らわされた形でその場に固まった。 「…お帰りなさい…」 だから、他の3人が元気よく掛ける声に遅れてしまって…。 妙に暗く、僕の言葉はコロンと床に落ちる。 ダメだ…顔が上げられない。 でも、きっと室長は気にしていないだろう。ううん、僕が顔を上げていないことにすら気がついていないかも知れない。 「淳くん、これお願い」 隣のデスクの春奈さんから書類が回ってきた。 「はい」 ついでに言うと、春奈さんの目もまともにみられない。 どうしてこんな…。 自分で自分がよくわからない。 僕はいったい、何に動揺しているんだろう。 室長と春奈さんのことは、これ以上ないほどおめでたい話なのに…。 これじゃあまるで……。 「淳くん、ちょっと」 「はいっ!」 佐保さんによばれて、僕は頭の中に居座る不可解な気分を捨てて勢いよく立ち上がる。 沢木さんや佐保さんの側にいると、何だかホッとするんだ。 だから、昼の休憩も、僕はべったりと二人に張り付いていて…。 でも、午後になると沢木さんが会長のお供で研究所へ行ってしまい、佐保さんは重要な書類を作っているらしくてパソコンから顔を上げなくなって…。 僕だって、半人前だけど一応仕事は任されているから、一生懸命それをこなしているんだけれど、あまりにも静かな室内に、ふと息苦しくなって顔を上げてみれば…。 …う。室長がこっち見てるっ。 慌てて作りかけの資料に視線を戻したけれど…。 今のって絶対わざとらしかったよな…。 きっとまた怒られる。『集中力が散漫だっ』って。 …ううん、もしかすると呆れられるだけかも知れない。 足を引っ張るばかりでなかなか一人前になれない僕と、そんな僕の遥か先を行く春奈さん。 そして、その春奈さんの隣には…。 …はぁ……また想像しちゃった。 「甘木くん」 室長の穏やかな声が春奈さんを呼んだ。 その声だけで、僕の心臓はドキンと大きな音を立てる。それに合わせて体も揺れたような気がするくらい…。 「はい!」 「ちょっと聞きたいことがある」 隣のデスクから春奈さんが立ち上がる。 「先に行っててくれ」 「はい」 春奈さんは返事をすると、隣の小会議室へ消えていった。 顔を上げることが出来ず、気配だけでそれを追う僕。 「…長岡」 「あ…は、はいっ」 神経を春奈さんに集中させていた所為で、室長に突然呼ばれた僕は、滑稽なくらい慌てて顔を上げた。 おまけに思いっきり言葉に詰まってるし…。 室長と、正面から視線がぶつかる。 不機嫌そうな…表情。 僕には絶対向けられない笑顔は、春奈さんにはいつも向けられているんだろうか。 そして、これから先もずっと、春奈さんだけのものになるんだろうか。 …どうしてだろう…胸が…痛い…。 「さっき渡した資料、明日の午前中までに関係箇所の訂正を確認しておいてくれ」 室長は、僕の不自然な態度にも特に何も言わず、必要最小限のことだけを告げて僕から視線を外した。 「はいっ」 せめて、せめて仕事だけはちゃんとこなして、あなたにそんな顔をされなくてもすむようにしたい。 一言でいいから『よくやった』と言われるようになりたい。 笑顔を向けてもらえなくても、せめて…。 ☆ .。.:*・゜ 「淳くん!」 「春姫ちゃん!お待たせ」 退社しようとした僕の携帯を鳴らしたのは、春姫ちゃん。 特に今日約束していたわけじゃないんだけれど、いつでも携帯は鳴らしていいよ…って言ってあったんだ。出られないときには留守電になってるからって。 だから、もう下まで来てるって聞いた時にはびっくりした。 「ごめんね、淳くん、急に来たりして」 「ううん、構わないよ。食事にでも行く?」 「うん!行く!」 春姫ちゃんの笑顔は僕を救ってくれる。 異性の兄妹なのに、不思議なほど二人は雰囲気が似ているんだ。 もちろん室長は男らしい顔立ちだし、春姫ちゃんはとても女の子らしい顔立ちなんだけれど。 けれど、室長の顔を真っ直ぐに見られなくなってから、僕はこうして春姫ちゃんの笑顔でその辛さの紛らわせている。 春姫ちゃんの向こうに、室長の面影を重ねて。 そして、あまりに遠くて、どんなに手を伸ばしても届かない人よりも、こうして側で笑っていてくれる存在に…。 「淳くんは何が食べたい?」 「うーん、そうだなあ…。春姫ちゃんは?」 でも…やっぱり僕は、室長…あなたに笑って欲しい…。 |
6へ続く |
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