「I Love まりちゃん」外伝

魅惑の33階
〜6〜





「淳くん!今夜の懇親会の資料お願い」

 …え?今夜の懇親会?

「佐保さん、それって…」

 確かに、懇親会で使う資料の作成は命じられていたけれど…。

「ほら、会長が座長をされている半導体メーカーの…」

「あ、あれは、来週の火曜日では…」

「ええっ?何言ってんの!今夜だよ!」


 僕自身が勝手に気まずさを引きずって、それでもどうにか必死で毎日を送る中で、それは突然やって来た。


「…そんなはずは」

 僕は慌てて僕のスケジュールを確認する。
 …やっぱり懇親会は来週の火曜日だ。

 けれど、念のために共有スケジュールを開けてみると…。そこには…。


「…今夜…」

 さ、最悪…。スケジュールをいれる段階で1週間間違えてるだなんて!


「…さほさん…」

 僕の震える声に、佐保さんが顔色を変えて近づいてくる。

「淳くん、もしかして…」

「す、すみませんっ」


 尋常でない僕らの様子に、沢木さんと春奈さんも立ち上がる。

 室長は…社内の定例会議に出席中だ。


「全くの白紙?」

 佐保さんが覗き込む中、僕は今やっている作業を閉じ、慌てて別のフォルダを開く。

「…いえ、手を付けてはいたんですが…」

 そう、確かにまとめ始めてはいたんだけど、とてもじゃないけどこれはまだ『資料』と呼べるような代物じゃない。


「ちょっとごめん」

 佐保さんに押されて、僕は席を明け渡す。


 そして黙って画面をスクロールさせる佐保さんの周囲で僕らは息を詰める。


「……なんとかなる…か」
「そうだな」

 呟いた佐保さんの背後で、画面を覗き込んだ沢木さんが答えた。

「とりあえず急ごう。手分けしてやれば何とか間に合う。春奈くんも悪いけど手伝って」

「はい!」

 慌ただしく動き出す室内。

「佐保さん…」

 僕は、自分が犯したとんでもないミスに、手を震わせていた。

「淳くん、いろんなことは後で聞くよ。ともかく、先にこれをやってしまわないと」

 とんでもなくせっぱ詰まった状態なのに、佐保さんは恐ろしいほど落ち着いていて、僕も震えてる場合じゃないと、一度深呼吸をして席に着いた。


 それから僕らは、室長が戻ってきていることにも気がつかないほど作業に没頭した。




 そして、佐保さん、沢木さん、春奈さんのおかげでなんとか資料は間に合い、佐保さんは時間通り、会長と共に懇親会へ向かっていった。


 出かけ際に、

『淳くんがあの段階まで用意していたから間に合ったんだ。 僕だったら、1週間前だと思い込んでいたらあそこまで用意はしてなかったからね』

 …なんて、涙が出そうなほどの慰めの言葉を掛けてくれて…。

 沢木さんは『仕事を振っておきながら当日までチェックをいれなかった学のミスでもあるよ』と片目を瞑って見せてくれて、春奈さんは『金曜の夜は淳くんの奢りね!』なんて笑ってくれて…。


 僕は改めて、この部屋に席を置くことを許されている人たちの、仕事に関してだけではない優秀さを見せつけられ、ここに僕がいてもいいのかと深く深く、落ち込んだ。



                   ☆ .。.:*・゜



「…信じられんミスだな」

 沢木さんも春奈さんも退社した後。

 デスクで腕組みをする室長の前に、僕は項垂れて立っていた。
 もちろん、今日のとんでもなく間抜け――かつ重大なミスの一件で。


「スケジュール管理は秘書業務の中でも初歩の初歩、基本中の基本だ。まさかこの期に及んでこんなくだらんミスを犯すとはな」

 実際、呆れてものも言えない…とはこのことだろう。

 僕だってそうだ。僕自身に、呆れてものが言えない。
 こんな、バカみたいなミス。


「…申しわけ、ありません」
「二度とするな」

 そんなの、言われなくたって…。


 …きっと、普段の精神状態の僕だったら『二度と同じ失敗はしない』と心に誓って、立ち直っていたのだろう。

 けれど、僕はこの時、自分自身でコントロールの利かない不可思議な感情にずっと支配されていて――そう、室長と顔を合わせる毎日に、一人勝手に疲弊しきっていて――何もかもにマイナスの思考を持ち込んでいたんだ。



「僕は…」

 だから、普段なら言わないであろう事を安易に口走ってしまった。

「なんだ?」


「僕は、秘書には向いていません…」

 僕がここにいられるのは、きっと、響子さんという大きな存在のおかげなんだ。

「…長岡……」

「どうせ僕は、僕の力で秘書室に入れたわけではありませんっ、だから……!」

 言葉を吐き出す勢いに任せて思わず顔を上げた僕がぶつかったのは、室長の冷たい視線だった。


「…いきなり何を言い出すかと思えば…。何のことだ?」

「…母、です。室長ももうご存じでなんしょう? 僕の母が、誰であるかなんて」

 冷たい視線に耐えきれず、また俯いてしまう僕に、室長の疲れたようなため息が聞こえてきた。


「…ああ、知ってるさ。お前の母上は会長の母上で、お前は会長の義理の弟だ」

 …やっぱり…全部知られてたんだ…。だから僕は…。


「だが、それがどうした」

「…室長」

 あまりに予想外な室長のリアクションに、僕は返す言葉をなくす。

「そんなこと、MAJECにはこれっぽっちも関係ない」
「でも…っ」

 さらに言い募ろうとする僕を、室長は視線でも封じ込めた。
 射抜くような、瞳。


「私の言うことを信じないのか?」

「そ、そういうわけでは…」

「私は26の時からMAJECの人事を任されている。それから3年間、一度たりとも会社のためにならない人事をしたことはない。採用も、配属も、だ」

「室長…」

「それをお前は違うと言うんだな。私が『配慮』で採用や配属を決めるような人間に見えたということだな」

「…あ…」

 僕はここへ来て初めて自分の過ちに気がついた。
 僕の、この情けない考えが、室長をも貶めるものだったことに。


「い、いえっ、そう言うわけでは…っ」

「お前ならできる。…そう見込んだのは私の『ミス』だというんだな」

「…室長!」

「もういいっ!そう思うのだったら、今すぐ辞表を書いて出て行け!」


 いきなり荒げた声で言い放たれて、僕は呆然とその場に立ちすくんだ。


 初めて会った日から、ずっと厳しかった室長。
 数え切れないくらい注意を受けたし、何度も怒られた。

 けれど、どんな時でもこの優秀な人は、冷静さを保っていて、こんな風に激高したことなんて、一度もなかった。


「そ…そんなんじゃないんです……」

 僕は、そんな子供のような弁解をするのが精一杯で、それっきり声も出なかった。

 もちろん足なんか動こうはずがない。

 室長の側へ駆け寄るなんて事は当然出来なくて、でも僕の足は、この場を立ち去ることも出来ずに、まるで釘で打ち付けられたかのようで…。



 そして暫くの間、身も凍るような沈黙が秘書室を支配していて……。



 やがて…。



『ドカッ』


 大きな音がして、僕はみっともなくも、ビクッと身体を震わせた。

 室長が、拳でデスクを叩いたんだ…。


 もう…ダメだ…。


 僕はもう、MAJECにはいられない…。


 ギュッと目を閉じると、どうやら水分が溜まっていたらしく、瞼が急に熱く潤んだ。


 落ち着け…落ち着くんだ。
 一つ、深呼吸して、そして…。

 そして、どうする…?

 このままここを出ていくか。
 それとも、許しを乞うて何が何でもしがみつくか…。


 出ていく方がきっと簡単だ。

 そう、『すみませんでした』って素直に謝って出ていく方がきっと楽だ。

 けど……。


 それでいいのか?

 あんなにも憧れて、必死の思いで入ったMAJECを、僕はそんなに簡単に諦められるのか?

 たくさんの、数え切れないほどの夢を抱えて、僕はここへやって来たんじゃなかったのか?

 今諦めたら、僕は永遠に失うんだぞ。
 会長の側に……そして、何よりも、この人の側にいられる、この大切な場所を…。

 それでもいいのか?





 ……いいわけ、ない、じゃないか……。

 だったら…。


 諦めるのは…この次にしよう。
 今はやれるだけの事をやって、それでもダメなら、その時は…諦めよう。


『お前ならできる』

 そう確信して僕を採用してくれた、室長を信じて…。


 とにかく、今は諦めない!!




 僕は意を決して口を開いた。

 室長に謝罪して、もう一度チャンスをもらうんだ!



「室…」
「すまなかった」

 ……へ?

 けれど、僕の悲壮かつ壮大な決意は、思いもよらない言葉であっさりと封じられてしまった。

 ちょっと待った。謝るのは僕のはずで…。


「悪かった。今のは完全に八つ当たりだ」

 や、八つ当たりぃ? 何それ!?

 これでもかってくらい目を見開いて固まった僕を、室長は横目でチラッと流すと深いため息をついた。

 それは、今までの『デキの悪い部下に呆れた果てた』ようなため息ではなく、物憂げで切なげな色が濃く滲む、そう…なんだかかなり色っぽい吐息…で。

 この人、こんな呼吸も出来るんだ…。しかも…。


「最近、どうも思うようにいかないことがあってな…。ちょっと苛々していたんだ。悪かった。謝る。許してくれ」 

 な…。いったい何が起こったんだ?


『思うようにいかない』?
『苛々』?
『悪かった』?
『謝る』?
『許してくれ』?

 天下無敵の秘書室長が?


 まさか、僕の目の前にいるのは、実はダミーだったなんてことないだろうな…。

 それとも『社内どっきりカメラ』とか…。

 ありそうだな。会長だったら嬉々としてやりそうじゃん。



 僕がいつまでもくだらない考えに頭をぐるぐる回していて、なんにも答えないでいると、室長はまたチラッと僕の姿を横目で流した。

「……なんだ。長岡は案外心が狭いんだな。謝っても許してもらえないのか?」

 そ、そんな!

「そんなことないです!僕こそ、くだらない泣き言を並べ立ててすみませんでした!明日から……いえ、今日から、今すぐからがんばりますから、これからも叱って下さい!」

 一気に言い切った僕に、室長はこれまた信じられないことに、ホッとしたような表情を見せた。

 そして…。


「あのな、長岡。頼むからこれ以上叱らせないでくれ。言っておくが、叱る方も結構気力と体力を使うんだぞ」

 は…? そ、それはどうも…。

「す、すみません…」

「言葉に詰まるな」

「あ、はい!」

「『あ』は余分だと何度言ったらわかる?」

「…すみません…」

 言われた端から叱られてしまった僕が、恐る恐る上目遣いに見上げると、室長が……。



 ……こっちをみて……笑った!

 初めて…僕に向かって…。


 室長、笑うとすごく…綺麗…なんだ…。



「…おいっ?長岡?どうした?!」

 …え?僕が、なに?

 室長の驚いた顔をみた途端、僕の視界は急に霞み、気がついた時には盛大に涙を零していた。

 ずっと張りつめていた緊張が、室長の笑顔一つでプツンと切れた瞬間だった。


「泣くヤツがあるか」

 苦笑いと共に、ふんわりといい匂いのするハンカチが、僕の頬にそっとあてられた。



                   ☆ .。.:*・゜



「落ち着いたか?」

 僕の涙が――情けないことに、こんなに泣いたのは高2の時に手痛い失恋をしたとき以来だ――漸く納まった頃、室長はいつもの落ち着いた声を僕に掛けてくれた。

「…はい」

「ところで、夕食まだだろう?」

「あ、はい」

「『あ』はいらない」

「はいっ」


 台詞はいつもの通りだけれど、その声に笑いが含まれていたから、僕はちょっと――いや、かなり驚きながらも釣られて思わず笑ってしまった。

 そして、その気楽さからか、つい、またいらないことを口走ってしまって…。


「でも室長、佐保さんが『あ』って言っても何にも言わないじゃないですか」

 確かにそれは、ずっと前から『なんだかな』って感じていたことではあるんだけれど。

 でも、しまった…と思ったときにはもう、口にしてしまっていて。

 けれど、室長は意外なことに、穏やかな表情で答えをくれた。


「佐保は無意識に使ってるわけじゃない」
「え…」

 まさか…。

「一度気をつけて聞いてみろ。仲間内だけの時と、一人でも部外者がいるときと…。見事に使い分けているぞ」

 …そうなんだ…。

「…すみません。何もわかってないのに、生意気言って…」

「いや、かまわんさ。直るまで徹底的に注意してやるから覚悟しておけ」

「はい!お願いします!」

「じゃあ、落ち着いたところで、行こうか?」

「…はい!」

 室長と食事に行けるだなんて…。

 あ、一回だけ――僕と春奈さんが秘書室に正式に配属された時に歓迎会があったけど、あれは秘書室だけじゃなくて他の部署の人たちも何故か最初から乱入していて、最後にはものすごい人数に膨れ上がっていて、室長と話をするどころじゃなくて。

 僕も――新人の物珍しさからだろう――大勢の先輩方に取り囲まれていて、室長も大勢の人に――こちらは主に幹部の人たちばかりだったけど――話しかけられていたから。


 だから、二人で食事だなんて初めてで…。

 どうしよう…めちゃくちゃ嬉しい…。


7へ続く



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