「I Love まりちゃん」外伝

魅惑の33階
〜7〜





 室長に連れられていったのは、タクシーで2メーターほど走ったところ…よく知らないと見落としてしまいそうな小さな道の奥にある、シンプルな構えの和食の店だった。


『証券にいた頃、世話になった店なんだ』

 そう室長は言った。

 けれど、会社を変わったその後も懇意にしてきたのであろうことは、僕らの父親くらいの歳の店主と室長のうち解けた会話からも容易に想像できた。


 僕らが通されたのは、店の一番奥の静かな座敷。

 まだ週も始まったばかりだから、アルコールはうんと控えめに、でも美味しいお料理はこれでもかって言うくらい並べてもらって、室長と僕は、BGMも何もない静かな部屋の中で――何しろ今までろくに会話を交わしていないから――話題を探してちょっとぎこちなくしている。


 そんな僕らの様子に気がついたのか、料理を運んできた恰幅のいい店主――浅田さんと言うそうだ――が少しの間話に交じってくれた。

 そして当たり障りのない、それこそお天気とか最近の流行なんていう話題を少し話した後、浅田さんは、室長をみて、それは嬉しそうにいった。


「小倉さんはほんと、頭のいい人でねえ。私も随分と株のことやなんか指導してもらったんですが、人に教えるのももちろんだけど、人から習うのも飲み込みがよくていい生徒でしたねえ」


 室長が何かを習っていた…と言うことに僕は凄く興味を引かれて、『何を習われてたんですか?』と尋ねたんだけど、室長は困ったように笑うだけで何も答えてくれない。

 けれど…。

「ここで教えて差し上げられるものといったら、料理くらいしかないですからねえ」

 浅田さんがあっさりと答を出して、『じゃあ、ごゆっくり』と、空いた皿を手に、座敷を出ていく。




「室長、料理されるんですか?」

 あまりに似合わないから、思わず聞いてしまった。

 室長は僅かに苦笑して――ちょっと照れくさそうに言った。

「いや、ちょっと必要に迫られてな」


 そこで僕は、思い出した。

 そうだ、この人は、春姫ちゃんたちの親代わりで…。


『とっても優しくて、それに、掃除も洗濯もお料理も完璧ですから』


 あの時、春奈さんに一生懸命言い募っていた春姫ちゃんの様子が浮かぶ。

 何も知らなかったら、きっと『何の必要に迫られたんですか』って無邪気に訊いていたに違いない。

 でも、なまじ中途半端に事情を聞いている僕には、とてもそんなことは出来なくて…。

 それに、まさか『春姫ちゃんから聞いてます』なんてことも絶対言えないし。

 …だって僕は、未だに春姫ちゃんと知り合ったことを室長に報告していないんだ。春姫ちゃんも『まだ話してないの』って言っていたし…。


 僕は内心で酷く焦って違う話題を探す。


 けれど…。

「長岡は料理なんてまったく出来そうにないな」

 何でもないように、室長は話題を繋いできた。
 ホッとしてそれに便乗してしまう僕。


「はい、全然ダメです」

 正直言って、目玉焼きだってアヤシイくらいだ。

「そう言えばお前は4人姉弟の末っ子だったな。姉上たちは料理はするのか?」

 そっか、履歴書が出てるもんな。
 こっちの家庭の事情はバレバレなんだ。姉3人の末っ子っていう、室長とは正反対の情けない状況も。


「はい。母が料理上手なんです。それで姉たちもその影響で、みんなそれなりに出来るみたいです」

 僕の記憶にない、僕を生んだ母は根っからの女優だったそうで、家のことは一切しなかったのだという。

 けれど、響子さんは違った。父さんと再婚するときには完全に芸能界から引退して家庭に入った。

 僕と違ってそれなりの年齢に成長していた姉たちは、初めの頃こそ響子さんとうち解けられなかったのだけれど、家庭的で優しい響子さんにいつしか懐き、みんなそれぞれに『響子さんのような母親になりたい』と言うまでになったんだ。

 だから、彼女たちはとても仲がいい。
 そしてホームパーティーと称しては、新しく考えついた料理を僕と父さんに試食させるんだ。


「でも、時々失敗作を食べさせられますけど」

 そう言うと、室長が笑った。

 …ほんと、この人の笑顔はすごく綺麗だ…。



 僕の胸が一つ、痛いほど鳴った。この痛みは…。



 おぐらかずひこ…さん。

 尊敬する、僕の大切な…………上司。

 僕の、大切な…大好きな……。



 大…好き……?



 もしかして…。



 その答えには唐突に行き当たった。



 …ああ…そうか。そうなんだ。

 僕は、室長が好き……なんだ。
 上司としてだけでなく、一人の男性として…。



 そのことに気がついた瞬間、僕は、これまで僕の気持ちを重く塞いでいたものの正体を知った。

『お似合いだ』と心から思っているのに、二人――室長と春奈さんが並ぶ姿を、僕の中の何かがずっと否定していた。

 僕が春奈さんに抱いていた感情は、きっと、嫉妬。

 だから、春奈さんのことが好きだという室長を、真っ直ぐに見られなかったんだ。



 僕の中に巣喰っていた正体不明の感情は、すうっと晴れる。
 けれど、その代わりに今度は、正体のはっきりしている感情がまた僕の中に暗い染みを広げていく。


 同性の…よりによって上司にこんな感情を抱いてしまうなんて…。


 自覚した瞬間に、失う恋…。なんだか滑稽だな…。



 僕の中に芽生えた後ろ暗い気持ちなんて考えもつかないだろう室長は、僕から色々な話題を引き出して、話をしてくれる。

 優しい笑顔、楽しい会話…。

 僕は、これを失いたくない。


 だから、この気持ちだけは、絶対に秘密にしなくちゃいけない。

 今までのように、単純ですぐ顔や行動に出てしまう自分ではダメだ。

 だって、もしこの気持ちが室長に知られてしまったら…。



 僕はきっと、彼の部下でいられなくなる。すべてを失ってしまう。


 絶対に叶わない思いなら、せめて側にだけはいさせて欲しい。

 彼と同じ場所で働ける…それだけでいい。その場所さえ失わなければ、僕はきっとやっていける。


 やっと見せてくれた笑顔を失わないために、僕はずっと、この気持ちを自分の奥底に埋めていかなければならないんだ…。



☆ .。.:*・゜



 2時間ほど過ごして僕たちは店を出た。

 室長は僕の知らない間に支払いを全部済ませてしまっていて、その件に関して僕には一切口を挟ませず、『また来ような』と言ってくれた。

 その言葉が、涙が出るほど嬉しくて、僕は返事をしながらさっきの決意をもう一度繰り返す。

 絶対に知られてはいけない…と。



「あの…ごちそうさまでした」

 いつも通りに振る舞う…そう思いこみ過ぎていた所為ばかりでもないだろう、僕はまたつい、いつもの口癖――『あの…』なんて言ってしまった。

 けれど、室長はいつものようにチラッと僕に視線を流すだけで、お小言は飛んでこなかった。

 その代わり、『…いや、こんなことしかしてやれないからな…』と小さな声で言うと、僕の背をそっと押して歩き始めた。

 結構身長のある僕よりもまだ背の高い室長。その手は大きくて暖かい。

 触れられたところが急に熱を帯びる…。

 でも、その手のひらはすぐに外されてしまって、僕はそれを、ホッとしながらも寂しいなと感じてしまう…。





 最寄りの駅までは結構近いらしくて、まだまだ電車もある時間だからと僕たちは、急に言葉少なになって歩いていた。

 途中、人気の途絶えた公園を抜けていると、室長がふと、飲料水の自販機の前で立ち止まった。


「お前も飲むか?」

 言いながら、ポケットから財布を出そうとする室長の手を僕はそっと押しとどめた。

 室長が少し驚いた風に僕を見た。

「僕が…」

 けれど、今度は室長が僕の手を押しとどめた。

「いいって。気を遣うな」

 ふんわりと、包み込むような微笑みを見せられて、僕の動悸はまた激しくなる。そして、その微笑みに甘えてしまいそうになるのだけれど…。

「あの…、でもせめてこれくらい僕に…」

 …う…。またやってしまった。

 口癖を直すって、本当に難しい…。

 室長だってさっきは見逃してくれたけれど、今度はきっとそうはいかない。せめて叱られる前に謝ろう。叱るのだって大変なんだって、いってたもんな、室長…。


「すみません…」

 恐る恐る見上げ、思っていたよりもずっと小さな声で謝ってしまう。

 ほんの少し、重なる視線。
 その端で捉えた室長の瞳に不思議な光が過ぎった。

「…プライベートなら、かまわん」

 その光に気を取られた所為か、瞬間には言葉の意味がわからなかった。

 けれど、次の瞬間、僕は室長の腕の中にいた。

 まるで、さっきの微笑みに包まれるかのように。


「甘えるときは、思いきり甘えればいい…」


 ……室長……?



                   ☆ .。.:*・゜



 和彦が淳を連れていったのは、MAJECからタクシーで2メーターほど離れた小さな和食の店だった。

 証券会社に勤めていた時分、担当になったのが縁で通い始めた店なのだが、通ううちにいつしか、社会人になってすぐに両親を亡くしてしまった和彦にとって、ここの主は父親のような存在になっていた。

 4人の妹たちの親代わりにならなければと、自分自身を追いつめていた和彦が弱音を吐けるのは、いつも穏やかな笑顔で迎えてくれる、この主の前だけだったのだ。

 だから――とてもいい店なのだが――誰にも紹介しなかったし、誰も連れてきたことがなかった。

 自分が自分に帰れる場所――ここはそう言うところだったから、誰にも教えたくなかった。

 きっと主は驚いただろう。

 つき合いはもう7年近くになるのだが、和彦が初めて人を連れてきたのだから。

 けれど、淳には…見せておきたいと思ったから。





「室長、料理されるんですか?」

 どうせ『似合わない!』とでも思ったのだろう。

 会話の中で、淳が無邪気に目を丸くして尋ねてきた。

 そんな表情の一つ一つが酷く目の毒のような気がして、和彦は知らず苦笑を浮かべてしまう。


「いや、ちょっと必要に迫られてな」

 ここで今、多くを語る気はないが、少しなら話してもいいかなと言う気に、ほんの少し、なった。

 だが、淳は次の言葉を飲み込んだようで、切なげに視線を落としてしまった。


 ――ああ…そうか。

 そんな淳の様子に、和彦の胸はまた、重くなる。

 ――春姫に…聞いているんだな。


 座卓を挟んで正面に座る淳が、内心で酷く焦っているのが手に取るようにわかる。

 だから…。

「長岡は料理なんてまったく出来そうにないな」

 何でもないような顔をして、話題を繋ぐ。

「はい、全然ダメです」

 淳もホッとした顔で即座に応じてくる。

「そう言えばお前は4人姉弟の末っ子だったな。姉上たちは料理はするのか?」

 淳は一瞬『どうして?』といいたげな表情を見せたが、直に履歴書のことに思い至ったのだろう。観念したように頷いた。

「はい。母が料理上手なんです。それで姉たちもその影響で、みんなそれなりに出来るみたいです」

 母というのは継母のことだろう。実母の記憶はほとんどないはずだと会長が言っていたから。


「でも、時々失敗作を食べさせられますけど」

 はにかんだように言う淳。

 その顔つきはまったく年齢に似合わず酷く幼げで、継母や姉たちが彼をとても可愛がっているのであろう様子が伺われる。


 ――可愛いな。

 そう思ったら、自然に笑みが漏れた。


 気がつくと、淳が桜色の唇をほんの少し開いて、まるで呆気に取られたような顔をしてこちらを見ていた。

 それは、まるで、何かに強烈に魅入られたような表情で、色素の薄い瞳はまるで濡れたように艶めいていて…。



 そんな顔を見せないで欲しい…。切実にそう思う。

 まかり間違っても、押し倒すようなことは出来ないのだ。

 だから、そんな風にこちらの理性を試すような顔をしないで欲しい。



「長岡…」

 控えめに声を掛けると、淳は一つ、大きく瞬きをした。まるで催眠術から醒めた瞬間のようだ。


「どうかしたか?」

「……いえっ、なんでもありませんっ」

「ならいいが…」

 やたらと元気よく返事をする淳を不思議に思いつつも、和彦は、二人だけでいられるこの時間を楽しいものにしたいと、積極的に淳に話しかける。


 可愛らしい笑顔、楽しい会話。

 これを失いたくない。


 だがきっと、自分では駄目なのだ。

 ずっと淳の笑顔に触れていたいのなら、自分は永遠に『よい上司』でいなければならない。

 それ以上でもそれ以下でもなく。


8へ続く



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