「I Love まりちゃん」外伝
魅惑の33階
〜8〜
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2時間ほど過ごして店を出た。 『また来ような』と言うと、心底嬉しそうに返事をされて、堪らなくなる。 そしてその想いは、絶対に触れてはいけないと思う心をあっさりと凌駕して、和彦の手を淳の背中に触れさせた。 だが、そっと押して歩き始めると、淳の体がキュッと強張ったような気がした。 恐らく深い意味はないであろう、単なる体の反射。 しかし、それは和彦を臆病にさせるには十分なものだった。 出来るだけさりげなく、背から手を離す。 急に言葉少なになり、辿る駅までの道のりの途中、ふと公園の自販機が目に入った。 夏だから…という理由だけではない、喉の渇きを覚え、立ち止まる。 どんな場面に遭遇しようと緊張などしたことがない和彦が、今はどうしようもないほど自身のコントロールを乱している。 「お前も飲むか?」 言いながら、ポケットから財布を出そうとすると、その手を淳がそっと押しとどめた。 その、白くて細い指先と、柔らかい仕草に思わず淳を凝視してしまう。 「僕が…」 「いいって。気を遣うな」 こんなやりとりさえ嬉しくて、自然に笑みが漏れる。 「あの…、でもせめてこれくらい僕に…」 言った端から言葉遣いに気がついたのだろう、淳はビクッと首を竦めると、小さな声で謝罪の言葉を落とす。 恐る恐るの体で上目遣いに和彦を見上げてきたその瞳が、自販機の白っぽい光に照らされ、潤んだように見えて…。 その瞬間、和彦の中で、今まで殺し続けてきたものがふと、起きあがった。 「…プライベートならかまわん」 自分の行動を反芻して検証するまもなく、和彦はその華奢な肢体を己の腕の中に納めていた。 「甘えるときは、思いきり甘えればいい…」 淳の体が、腕の中でキュッと強張った。 ☆ .。.:*・゜ 多分、気分は高揚している。 今日初めて、『長岡淳』という人間に触れた。 何千という履歴書の中から淳に目を留めたのは去年の夏。 最終面接に彼の姿を見つけ、ホッとしたのはそれから数ヶ月後。 入社の日、真っ直ぐな視線を向けてきた淳に、酷く狼狽えてしまったのは4ヶ月ほど前。 長かったような、短かったような。 ともあれ、これまでの29年――ほぼ30年だが――の人生の中で、これほどまでに複雑な感情に惑わされたことは一度もなかった。 だが漸く一つの段階を越えられたような気がする。 しかし…。 次の段階はもう、越えられないのだろう。永遠に。 そう思うと、高揚した分だけ切なさが募る。 それほど遅くはならなかったつもりなのだが、帰宅してみると室内は静まり返っていた。春姫はもう、休んでいるようだ。 誰よりも幸せになって欲しい春姫。 だがこの腕は淳を抱きしめたがる。 いずれかの未来に、淳がその腕に春姫を抱きしめる日が来たら…。 自分はそれを祝福出来るのだろうか? いや、しなくてはいけないのだ。 小さな間接照明だけが灯る暗いリビングで、和彦は気怠げに上着をソファーに放り投げ、乱暴にネクタイを緩める。 人気のない公園の中。気がついたときにはすでに、その華奢な体はこの腕の中にあった。 『し、室長…』 突然のことに、淳が体を強張らせたのがありありと感じ取れ、言葉は困惑の色に満ちていた。 『…ああ、すまん、ちょっと酔ったみたいだ。…疲れているのかな』 事実を言うなら、まったく酔ってもいないし、それほど疲れてもいない。 でも、そんな風に言い訳しなければ、この行動について、淳を納得させられるような説明はつけられなかった。 『大丈夫ですか?』 心底心配そうな声を出す淳は、きっと、自分が掛けている心労のせいだと感じたのだろう。 途端に申し訳なさそうに、和彦の体を支えようとした。 『いや、平気だ。悪かったな』 そう言って半ば強引に体を引き離す。そうでもしなければ、このまま流されてしまいそうだった。 『いえ…でも…』 今にも泣き出しそうな顔。 その無垢な表情に、和彦の胸がキリ…と痛んだ。 今さらながら、罪悪感で体中が締め付けられる。 自分がこんな想いを抱いてしまったがために、淳にこそ、いらぬ心労を背負わせることになった…。 この、己の厄介な感情がなければ、淳は社会人としての毎日を最初からもっと伸びやかに過ごしていただろうに。 それでも、想う気持ちは止められなかった。 淳が…好きだ。 「淳……」 絞り出すように呟いたその名は、熱を帯びたまま暗い室内の何処へともなく転がっていく。 「………淳……」 それを、春姫が、ドアの向こう側で拾い上げていた……。 |
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たがちゃん様からの頂き物 『淳くんの長い夜』へ |
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「いらっしゃい、春姫ちゃん」 僕は身の内に巣喰う罪悪感を隠すように、殊更明るく振る舞って春姫ちゃんを迎えた。 室長と初めて2人で食事に行ったあの火曜日以来、室長はかなり僕に気を遣ってくれている様子で、職場での居心地はとてもいい。 自分のこの『想い』を除いては…。 そして、あれから最初の休日――4日目の土曜日のこと。 春姫ちゃんが僕の家へやって来た。 春姫ちゃんから『大切な話があるんだけど、淳くんのお家に行ったら迷惑かなぁ』と電話があったのは、水曜の夜だった。 話って言うのは多分――というか、絶対、室長と春奈さんのことだと思った。 耳を塞いで『聞きたくない』という気持ちと、どんなに辛くても『すべてを知っていたい』というあさましい思いが交錯したけれど、結局僕は『知らずにはいたくない』というもっともらしい理由で自分を納得させて、春姫ちゃんに『いいよ』と答えたのだった。 「お家まで押し掛けちゃってごめんなさい」 「ううん、全然かまわないよ。家の方がゆっくり話もできるしね。ただし、両親はいるし姉貴たちはいるしでちょっと鬱陶しいかもしれないけどね」 現に一番下の姉貴が響子さんと一緒に、お茶とおやつを持って来がてら様子を覗いたりして。 僕の女友達が家にくるなんて、高2の時以来だもんな。 「それにしても、淳くんのお家って大きいのね。びっくりしちゃった」 肩を竦めて言う春姫ちゃん。 「掃除が大変みたいだよ」…と返すと、声を上げて笑った。そして…。 「でも、うちのお兄ちゃんだったら1時間くらいですませちゃうかも。ほんと、お掃除も上手なのよ」 …そうなんだ。 やっぱりちょっと想像はし難いけれど、でも、そんな室長もきっと素敵なんだろうな…。 「…そっか。本当に室長って万能なんだね」 「…まあね」 僕は本気で誉めたんだけど、春姫ちゃんの返事は、予想外に冷たい感じがして僕はちょっと戸惑う。 そして、それから少しの間、ティーカップを持ったまま僕たちは沈黙していたんだけれど…。 「…あのね、淳くん」 俯いたまま口火を切ったのは、春姫ちゃんだった。 「うん、なに?」 春姫ちゃんは手にしたカップをそっとソーサーに戻すと、意を決したように顔をあげた。 「私、淳くんのことが好きなの」 …え……。 「初めてあったときから、淳くんが好きなの」 …そんな……。 僕は…僕は、君のお兄さんを…。 「だから、友達としてじゃなくて、ちゃんとおつき合いしてもらえたら嬉しいなって思うの」 …春姫ちゃんと、つき合う…? 驚きすぎて、返す言葉が見つからない僕に、春姫ちゃんはジッと視線を合わせて答えを待っている。 …もし、…もしも、春姫ちゃんとつき合って、そのままこの先の未来へ繋がるとしたら…。 僕は、室長と『上司と部下』ではない関係が築ける…? もっと近しい存在として、ずっと室長の側に…いることができる? 「…淳くん…」 控えめに掛けられた言葉に、僕は我に返る。 ……僕は今、何を考えた? なんてことを……考えたんだ! 春姫ちゃんが、その思いを正直に告げてくれたのに、僕は…僕は室長とのことを考えて…。 …最低…。 「…春姫ちゃん…」 漸く言葉を発した僕に、春姫ちゃんは綺麗な瞳を少し、見開いた。 「…ごめん…」 そう告げた瞬間、唇をキュッと噛んで…。 でも、僕は言わなければいけない。 「僕は、その気持ちには応えてあげられない…」 例え、報われる日が永遠に来なくても、今の僕は、小倉和彦と言う人が…好きだから。 「…理由を聞いてもいい?」 「……それは…」 本当のことは…絶対言えないんだ、春姫ちゃん…。 「もしかして、誰か好きな人、いる?」 真っ直ぐに向けられる真摯な瞳。 でも、それは不思議と穏やかな色をしていて。 「うん、いる」 だから僕は、本当の事は言えなくても、嘘をついてはいけないと思った。 僕には確かに、好きな人がいるんだから。 「その人に、告白しないの?」 「しないよ」 思わず即答してしまった僕に、春姫ちゃんはテーブルに手をついて身を乗り出してきた。 「どうして? 好きなら告白すればいいじゃない。女の私だって、勇気を出して淳くんに告白したんだよ?」 …そうだね。 「うん…、春姫ちゃんの言うとおりだ。でも、僕には春姫ちゃんのような勇気はないんだ」 「だから、どうしてよ」 「どうしても…告白は出来ないんだ」 「告白して嫌われたらイヤだから?」 「…うん、そうだね。その人には、絶対に嫌われたくないんだ。だから…」 「淳くんは告白した私のこと、嫌いになった?」 とんでもない! 「とんでもないよ、春姫ちゃん。僕は君と出会えてよかったと思っているし、その…こんなことを言うのはずるいんだけど、君さえ許してくれるのなら、これからも友達でいて欲しいと思ってる」 本当に、ずるいと思うけれど…。 「じゃあ、淳くんには『告白したら絶対に嫌われる』って確信があるわけ?」 「…あるよ。嫌われるだけじゃない。周りの大切な人たちにも……たくさん迷惑をかけてしまう」 秘書室のみんなだけじゃない…君にも迷惑をかけるよ、春姫ちゃん。 それどころか、僕はきっと、君という大切な友達も失ってしまう。 「…淳くんのいうこと、わかんないよ、そんなの…」 ごめんね、春姫ちゃん、本当に、ごめん。でも…、 「どうしても駄目なんだ。何より、その人にとって僕は、恋愛対象じゃない」 わかって欲しくて言い募る僕と、僕を一生懸命見詰めている春姫ちゃんの視線が絡んだ。 春姫ちゃんの視線が鋭くなった。 「…恋愛対象じゃなくて……『ただの部下』だから…って?」 ………え? |
9へ続く |
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